長生きに価値はあるか。あなたは長生きしたくない?

長生きすればいいというものではない、という意見について考えてみよう。「長生きしてね」は高齢者に対する労りの気持ちであり、一般的な言葉掛けだ。相手の生を喜ぶ原始的意思表示は、誕生日を祝う気持ちと通じるところがある。大切に思う相手と居る時間がもっとあればと願うのも、人間の自然な欲求だろう。

以前は、100歳どころか80歳や90歳まで生きることも稀だった。戦国時代、織田信長が敦盛で「人間五十年」と舞った時に比べると、現代人の寿命の長さに驚く。

近年、長生きする人が増えた。高齢者が珍しくなくなり、長生きの知恵の価値が相対的に下がったと言える。医療技術の発達もあいまって、長生きはむしろ当たり前になり、高齢者への尊敬が低下しているのだ。

かつて、長生きは「生存」を達成した人間の勲章だった。生きる本能を持つ人間が、長く生き延びてきた「長生き人」を敬い学ぼうとしたことは当然である。だが、今はどうだろう。大した知恵を持っていなくても、長寿を迎えられる時代となった。

「価値」とは、人間どうしが時々の状況によって決める曖昧な重要性のことである。自分の愛しい祖父母であればいつまでも生きていて欲しいので、祖父母の長生きには価値が生まれやすい。しかし、マナーを守らず他人に迷惑ばかりかける老人による被害を受けた時には、「長生きだけしてても意味がないんだな」と嘆く。つまり、長生きそのものよりも、人間が思う「価値」自体が曖昧であるゆえに、長生きを一意に定めることはできない

「価値」の転換は、人間にとって大きな負担となる。もしあなたが今大切にしているものに対して、「それは大切じゃないよ」と言われたら、腹が立つに違いない。日本を含め先進国で、長生きに対する価値の下落が起きつつあり、あとは個人がその下降についていけるかどうかである。

長生きに価値があるかどうか。これは一人一人が決められる。すなわち、あなたが決めればいいのだ。「自分にとって大切な高齢者は長生きしてほしいが、迷惑ばかりかける高齢者はいなくなって欲しい」と、都合よく考える自由だってある。ただし、自分の限界寿命に挑戦する他者を否定する権利がないことだけは確かだろう。

長生きを手放しで喜べないのは、自分のことだけでなく、周りを巻き込む要素が多く含まれるからだ。自分視点でいれば、楽しめる今が大事だし、苦しむだけなら終わりにしたいと思うのが自然だ。しかし、たとえば子どもや孫からすると、大切なあなたが生きているだけで満足だと感じるかもしれない。

私は告白したい。「長生きなどしなくてもいい」と言う時に、心のどこかで引っかかる何かを。

私は長生き肯定派である。なぜなら、長生きを良しとする態度こそ、生への無条件な肯定であるからだ。長生きに否定的な理由は、得てして社会上の不便にすぎない。誰かに迷惑をかけるから、身体の衰えで好きなことができないから、お金がなくて欲しいものが買えないから、など。社会に生きる自分の欲望や、人間存在の意義に悩まない限り、長生きを否定する理由はない。人間は誰かの迷惑にならないために生きている、と言う人がいるなら、その人はそう生きればいい。

生きる、死ぬということは、人間が考えうる意義を超えている。我々の眼前にあるのは、人間は生きていて、いずれ死ぬという事実のみである。私は事実を抱きしめ、夢と想像を語る人間でありたい。「〇〇だから生きている」「〇〇だから死ぬ」そんな思考に縛られることなく、人間生命の根幹を感じていたいのだ。

「意義」なき生を受け入れ、「理由」から解放された先に、グロテスクな重みある生の姿を確認できる。長生きの本当の価値とは、人間的思考を乗り越えた後、見えてくるのである。

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