夢を持つ人生、夢を持たない人生

夢を持つことにも持たないことにも、絶対的意義はない。両者に意味はないとも、あるとも言える。

今は夢を持っていないが、過去に夢を持っていた人がいる。夢に生きていた人が夢も希望もなくなることは、よくある話だ。多くの大人は夢破れ、今ある自分の欲望をほんの少しでも満たすために、日々労働するか、不安に怯えつつも養われる生活を送るか、悠々自適の中で芯のない日々を過ごしている。

夢を持っても意味はないと思うことも、あるいは目の前の快楽をただ満たすことを正当化するのも、正解だ。一方で、自分の理想を叶えるために努力するのも自由だ。人生とは、なんて意味がわからず、ふにゃふにゃした、大空なのだろう。

夢を持つことに意味はないと思ったところで、夢を持たないことにもまた意味はないことも事実だ。肯定も否定もしないならば、判断をしないという決断、生き方をしているにすぎない。

人間とはなんて無力なのだろう。なにもしなくても、「なにもしない生き方」を選び取っているという残酷さ。何を選んでも間違っているような気がして選べないならば、ただ選ばなかったという生き方をしただけだ。

あなたがもし夢に生きたいが夢に生きることの無意味さに打ちひしがれているなら、気にせず夢に生きよう。夢に生きる生き方も、夢に生きない生き方も等しいのだから。迷い続けるなら、「迷い続けた人生」というありふれた人間としての生き方を歩むだけだ。

夢を叶えた未来に、意味を求める必要はない。未来における意味よりも、あなたが今生きる意味を創造するほうが大切だ。あなたがもしこれから自分のなすことが人類の意義となって欲しいなどと願うならば、それは傲慢と呼ぶべきだろう。どんな偉人も、残念ながら人類の何の役にも立っていない。技術の発展が、科学の発展が、学問の発展が人類に寄与しているなどと本当に思っているならば、冷静になって欲しい。
「何の役にも立っていない」を少し補足するなら、役に立つとか立たないかなんていう視点は、人間の解釈の世界でしか成立しないということだ。

人間の可能性は、常に過大評価と過小評価の両極端で見なされている。真実は、人間は思っているほど大したことないが、思っているほどつまらないものでもないのである。

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