人は、不幸を求めることができるほど、自由だ。

人間の自由の向こうには、遥かな景色が広がっている。幸福を目指す、欲望を叶える、快感を満たす、という行為において、人々は工夫し続けてきた。

そんな世の中にいて、あなたは不幸さえ求めることができる。「別に不幸だっていいじゃないか」と思う視野の広さを持つことは難しい。病気や貧困、孤独…はちきれんばかりの悲しみに押しつぶされて、人としてダメになってしまう人もいる。不幸の実態を見て、尻込みするのは当然だ。

しかし、ここで考えてみてほしい。

不幸とはなんだろうか。

不幸とは、裏切られた期待の姿である。「こうなるはずではなかった」「こんなふうになるなんて許せない」という悔しさから、不幸が生まれる。理論的に、期待しない人は不幸にならないが、実際、期待なしで生きることは不可能である。たとえば、「赤信号で止まっている車は止まったままだろう」といった期待なしでは、暮らしがままならない。そんな些細なことから、期待は拡張していく。

期待が拡張した第二形態としての夢を抱く人がいる。未来への期待で青写真を描き、夢とするのである。しかし、期待とは往々にして裏切られるので、そういう人間にとって夢の喪失は必然に近い。話はそれるが、夢は、叶わない虚しさによって行動を失うためにあるのではなく、現在の原動力として利用すべき言葉である。期待そのものを夢にしてはいけない。夢とは、この瞬間のあなたの力を引き出すために存在する。夢という概念を我が物とし、夢の構築と破壊を繰り返す人間こそ、人生を謳歌するにふさわしい。

大人になるにつれて、期待の幅を小さくする人が増える。望みを小さくする習慣を身につければ、人生が楽になっていくからだ。確かに、大きな喜びを消す代わりに大きな悲しみを予防するなら、不幸が放つボディーブローを軽減できるだろう。しかしその結果、「小さな」人間になってしまう。勘違いしてはならない。「小さな」人間になることが精神の成熟ではない。

精神の成熟とは、心の底で望んだことを縮小することなく、そのままのかたちで肯定できることにある。期待をなるべく小さくしたり、必要なものを最小限にとどめようとする態度は、卑小な自己保存であるがゆえに、自由になりうる人間の足かせとなってしまう。

精神の成熟こそ、人生における最初の一歩だ。本来、精神の成熟は晩年に達成するものではなく、壮年期には達成しておくのが理想である。精神が熟した後、人間精神の実践段階に移る。精神が成熟しない者にとって、年齢を重ねることは意味がない。穴の空いたバケツに、水をためようとすることと同じだ。

不幸を求めるとは、事実を愛する態度である。やって来た不幸を拒む必要はない。期待し続ける人間として、不幸を恐れず生きる。我々人間は、期待する生き物である。今日さえ分からぬ日々の中でも、明日どころか何年何千年先の未来を考えてよいのだ。

期待するがゆえに裏切られ、不幸はいつも舞い降りてくるだろう。しかし、私は生涯期待することをやめない。期待とともに訪れる不幸こそ、私の自由を支えてくれているのだから。