やりたいことがないとき

やりたいことが特別ないと思うとき。

仕事も娯楽も、もはや自分の心を動かすことがない。

そんなとき、人間はなにをして生きていけばいいのか。

やりたいことがない、と思うということは、この人生において「やりたいこと」なるものが生まれて当然だと考えているのだろう。そんなに甘くないのが悲しいところ。「あなたにはやりたいことが今ありませんね。本当にあなたがやりたいことは〇〇です。さあやりなさい」「はいそうですね、わたしがやりたいことは〇〇だと思います。では、やってきます」

めでたしめでたし…とはならない。

現代日本が突然戦争に突入し、戦時中となる可能性は限りなく低いだろう。緊迫した状態に置かれたとき、人はその状況に適応するために考える項目が少なくなる。

だが、今のあなたはどうだろう。
選択肢が無限にあるからこそ、「やりたいこと」なる幻想と遊んでいるのだ。

「やりたいこと」を見つけて、なおかつ人々のために生きたいと願う人もいる。
しかし、そもそも「人々のため」とはなんだ?自分は人々に貢献するために生きているのだろうか。憎悪にまみれ、無知で汚れた民衆を喜ばせることに何の意義があると息巻くか。

すべての物事の意義が幻であると知り、やりたいことをやった先を描けなくなったとき、それこそ絶望である。
とは言うものの、絶望という言葉はありきたりなものであり、親しみある言葉だ。
所詮、絶望とは想像力の敗北であり、人間が自らの能力に圧され一人相撲に負けた結果にすぎない。

ああ、絶望とはなんてのんきな人間感性なのだろう。
生き物という枠を越え、「人間」であることをかたくなに信じてやまない思い込みの敗北。
絶望という名の「おもちゃ」で遊び、無数に死んでいった人々よ。君たちほど「人間的」であることに徹したやつらはいなかった。

「やりたいこと」をやる先に、意義を求めるな。空想に踊るより、舞台で踊れ。
なにをしても意味がないなどと思うな。「意味」なんていうつまらないものにとらわれるな。あなたが考える「意味」なんて、そのへんのつまらない人々がよく考えているような価値観に沿ったものだろう。人生は、「生きて、死ぬ」。これ以上のことがわかる人間がどこにいるというのだ。

「やりたいことがない」を乗り越えるためには、人間を乗り越えた後に、人間に戻って来なければならない。本当は知っているんだろう?「やりたいことがない」なんて、嘘だということを。それでも、意義や正義や立場や妄想に囚われて、あなたはあなたを縛り付けて、縛り付けてしまっていることを正当化する哲学を欲しているのだ。ダサい、最高にダサいぞ。

やりたいと思ったことを、ただやろうとがんばることもできない臆病者には、「やりたいことがない」病がお似合いだ。

この世のすべてを手に入れることと、猛暑で喉が乾いたときにグビッと炭酸飲料を飲むことは同じであると見抜けなければ、今のあなたに本源的に眠る生命力を理解できないだろう。

価値観の奴隷になるのではなく、一度「人間」をやめて価値観を解放し、新たな価値観を奴隷にせよ。