【冒険と人生】愛欲と放浪の生活を経て悟る人生の答え

私がはじめて買ったヘルマン・ヘッセ の本は『シッダールタ』だった。2冊目が『知と愛』である。ヘッセの本を読みたいと思った時に、シッダールタ以後の作品にしようと決めていた。シッダールタという素晴らしい物語を書いた後のヘッセが、一体どんな境地で何を書いたのか興味があった。本当は『荒野の狼』を買おうと思っていたが、近くの書店においていなかった。そういうのもまた、巡り合わせだろう。

シッダールタと比べると知と愛の本の分量は多く、読み終わるのにも時間がかかった。ナルチスとゴルトムントの出会い、別れ、出会い…と進む。

物語を通じて、情景・感情の描写などが細かく、美しい。それは高橋健二の訳ゆえのこともあるだろう、ヘッセの言葉の美しさを日本語でも堪能させてくれる訳者には敬意と感謝を表したい。

ヘッセは自分の言いたいことを作品中の登場人物に言わせ、説得力をもたせるために出会いや旅や決別を作っている。経緯や苦悩をすっ飛ばして真実の言葉があるだけでは人の心に響かず、納得もしないからだ。

ゴルトムントの旅で、読者もゴルトムントの感情や思いを追体験することになる。それぞれの道を歩んで来たナルチスとゴルトムントの再会。再会後、ナルチスはナルチスの、ゴルトムントはゴルトムントの考え、世界観をぶつけ合うことになる。まるで、答え合わせのように。

再会後、ゴルトムントはナルチスに問う

われわれが生きていなければならぬのは、なんという世界だろう? 地獄じゃないだろうか。腹だたしく、鼻もちならんじゃないか

ナルチスは答える

たしかに、世界はそのとおりだ

私は、ゴルトムントとナルチスのこうした問答を見つめ、楽しかった。ゴルトムントは私の代弁者で、ナルチスはどう答えるのか待った。このやり取りの面白いところは、ゴルトムントがナルチスに教わるなどといった一方通行ではなく、お互いに掴んだ真実をぶつけ合うところだ。つまりどちらの言葉にも真実が含まれている。知と愛の衝突だ。

ナルチスは問う、

芸術が君にもたらしたもの、君にとって意味したものは、いったい何だったかね?

ゴルトムントは答える、

それは無常の克服だった。人間生活の道化と死の舞踏から、あるものが残り、生きのびるのを、ぼくは知った。それはつまり芸術品だった

苦悩や現実のことだけでなく、ゴルトムントが向き合ってきた芸術についての知見も聞くことができる。読者は芸術とはどんな性質があるものなのかを2人の会話から知ることができる。

ゴルトムントに対し精神よりも芸術に奉仕すべきだと教えたナルチスは、ゴルトムントが芸術について極みにいることを嬉しく思っただろう。多くの苦しみや困難がある中で、よくぞ芸術に生きていてくれたと、そんなナルチスの気持ちを想像すると、胸に来る。

ナルチスはこんなことをゴルトムントに言う、

ありがたいことに、君は芸術家になり、形象の世界をものにした。そこで君は創造者となり、支配者となることができる。思索家として不十分な世界にとどまっているかわりに

そしてゴルトムントが作品を完成させたことで、ナルチスはこれまでの自分の芸術の認識を改めさせられる。ゴルトムントから多くのことを教わったナルチスは、

今はじめてわたしは、認識への道がどんなにたくさんあるかということを、精神の道は唯一の道ではなく、おそらく最上の道でもないことを悟った。精神の道はわたしの道だ、たしかに。わたしはその道にとどまるだろう。だが、君は反対の道で、感覚を通る道で、存在の秘密を、大多数の思索家がなしうると同様に深くとらえ、そしてずっとずっと生き生きと表現するのを、わたしは見る

それぞれの人間がそれぞれのやり方で物事を見る。

ゴルトムントとナルチスはたしかにやり方や通る道こそ違うかもしれないが、到達する先は同じだということではないだ。どちらの道にも優劣はなく、わたしの道も、そしてこの文章を読んでくれているあなたの道も、等しい。

ニーチェのこんな言葉を思い出した、
「世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。」

知と愛を読んだなら、このニーチェの言葉を深く理解できると思う。これは単純に「お前はお前の道を進めよ!」のような話ではない。人の道はそれぞれ違っているように見え、他人の歩む道に憧れることもあるが、自分の心の声を聞いて自分の道を歩いて行った先にこそ、自分が憧れていたような偉大な人間たちも達した境地があるということだ。

ナルチスの本分である敬虔な勤め、その分野におけるナルチスの発言も非常に興味深い。ゴルトムントは修道院にいる以上、そこの人間としての勤めを果たそうとする。

ナルチス、

神が君の祈りを聞くかどうか、君の想像するような神が存在するかどうか、そんなことを思いめぐらしてはいけない。君の骨おりがたわいないかどうか、そんなことを思いめぐらしてはいけない。われわれの祈りの向けられるところのものに比較すれば、われわれの行為はすべてたわいない。君はお勤めのあいだはそんなおろかしい幼児の考えをまったく封じなければいけない。主の祈りとマリアの歌を唱え、その文句に没頭し、それでみたされきらなければならない

祈りにおいて生じるこの集中は、仏教における瞑想と通じるものがあると思う。シッダールタにおいても川の声を聞くシーンがあるが、通底しているものは同じだろう。

言葉ややり方や表向きの現象が異なるだけで、世界そのものと溶け合うような感覚は、ヘッセ小説のひとつのテーマ。自分が世界とひとつになり、自分が自分と同一化する、自分自身になること。自分は世界であり、世界は自分だということ

ゴルトムントの芸術を賞賛するナルチスだが、一方でゴルトムントは人生の問題に対するナルチス思索がうまくいっているように思えて、うらやむ。

ゴルトムントがナルチスに、

君のおちつきを、平静を、平和をぼくはうらやむ

ないものねだり、隣の芝生は青く見えるのは世の常だが、ゴルトムントは素朴な言葉をナルチスにぶつける。

冷静沈着、思索、精神の道を極めているかのようなナルチスはゴルトムントに衝撃とも言える告白をする、

君が考えているような平和は存在しない。(略)常にくり返し不断の戦いによって戦い取られ、毎日毎日あらたに戦い取られなければならないような平和があるばかりだ。(略)正しいすべての生活がそうであるように、君の生活もそうであるように、戦いと犠牲なのだ

ばっさりいくナルチス!

修行すれば、人生経験を積めば、いつかは平静な心を手に入れられると思ったら大間違いだ。

どんなに熟練しても、正しく心穏やかに生きていくためには、自分の中で戦い続けなければならないことをナルチスは教えてくれる。

平静を手に入れ悟りの境地に至ったかに見える人も、ざわつく心に対する戦い方を普通の人よりも心得ているだけで、戦わなくて済むのでは決してないこと。こんな赤裸々なことは、現実の人間ではなく知と愛のナルチスしか教えてくれない。

ゴルトムントは再びナルチスのもとを離れ旅に出ることになるが、そんなゴルトムントを心配するナルチスが人間らしくて好きだ。ナルチスはゴルトムントによって豊かにもなり貧しくもなった。

厳格な勤めをすこしも怠らなかった。しかし彼は友を失って悩んだ。自分の心は神と役目とにだけささげられるべきであるのに、どんなにこの友に執着しているかということを知って、彼は悩んだ

ナルチスはゴルトムントを思う時に、こんな疑問をめぐらせる、

人間は、神によって作られたとき、官能と衝動、血の気の多いなぞ、罪や享楽や絶望へ走る力をそなえていたのではないか

人間らしさとはなんなのかを考えさせられる。欲に溺れるのも人間、欲を自制するのも人間、いろんな人間のかたちがあり、すべてが人間だ。

いずれにしても、高い定めを持って生れた人間は生活の血の気の多い陶酔的な混乱の中に深く浸り、ちりや血にまみれることはあっても、卑小になることはなく、自分の中の神々しいものを殺すことはなく、深い暗がりに迷うことはあっても、彼の魂の神聖な奥で神々しい光と創造力とが消えることはない、ということをゴルトムントはナルチスに示した。

どんな境遇に陥っても、自分の奥底にある輝きは消えないということだ。そもそもその輝きがなければ意味はないが、その輝きを見つけることが、自分自身の人生を歩んでいる宿命でもあるのかもしれない。

最後の最後、ナルチスとゴルトムントはさらに再会する、というよりゴルトムントがボロボロになって帰ってくる。ゴルトムントの状態はとても悪い。気の毒で胸が痛むが、ゴルトムント最期の言葉が大事だ。

ゴルトムント、

打ち明けて言ってよければ、ぼくは彼岸を信じていない。彼岸なんてものは存在しない


ぼくが死に興味を持っているのは、自分は母への途上にあるということが、いつも変らずぼくの信仰、あるいは夢であるからにすぎない。死は大きな幸福であるだろう


ぼくをふたたび引きとって、虚無の中へ、純潔の中へ引き戻してくれるのは、かまを持った死ではなくて、母である


ぼくは理屈なしに、死ねなかったのだ

彼岸なんて存在しない、死は大きな幸福など、悟りの言葉を死の間際に発する一方で、理屈なしには死ねなかったと真っ直ぐな気持ちをナルチスに伝える。このバランス感覚がとても印象的だ。

だが、ナルチス、君は母を持たないとしたら、いつかいったいどうして死ぬつもりだろう?母がなくては、愛することはできない。母がなくては、死ぬことはできない

母という言葉はヘッセの詩の中にもよく出てくる。もし『知と愛』しか読んだことがない人なら、ここで母という言葉がいきなり出てきて解釈に悩むかもしれない。しかし、ヘッセを読んでいたら母という言葉は全く珍しくない。ヘッセの小説を理解するには、ヘッセの詩や考えも知っておく必要があるように思う。

詩集から引用するなら、

永遠な母だけは、とどまっている、
私たちの生れて来た母だけは。
母の戯れる指が
はかない虚空に私たちの名を書く


星の軌道を縫って静かに、
輝きが私を疲らせ、目くらませ、
ものみながぐるぐるまわり、漂い、
母がまた私を抱きとってくれるまで

ゴルトムントの最期は、「母」のことを語ることに終始する。ここで言う「母」は、自分・他人のお母さんなどという限定された存在ではない。しかし、限定された存在でもある。母は具体的であり抽象的で、具体的でなく抽象的でもない。

「母」という言葉の意味だけを考えることは無駄で、感じなければならない。この宇宙や世界が生まれ、生命が生まれ、死んでは生き、生きては死ぬ営みがある。その永遠性の中で自分も生まれ死んでいく。自分という存在も、過去現在未来含めて例外なく永遠の一部で、それは巡り巡るということ。死ぬことも生まれることも、生まれることも死ぬことも「母」にゆだねることが、ゴルトムントが感じた意味だった

たとえ死んだとしても、またしかるべき時に母が抱きとってまた命を吹き込んでくれるのだろうという信頼。それに支えられてこそ「理屈なしに」死ねなかったゴルトムントは安心して死を迎えたのだろう。