なぜかよく取り上げられる悪魔の言葉「きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。」

最近本屋に行ってみると、岩波文庫『ブッダのことば』(スッタニパータ、中村元訳)にはこの帯がついていなかった。

「きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。」という、一見良いことを言っているように思う言葉だ。一般的な価値観ではこれは「善」であろうし、俗世間で言う「命の大切さ」「生きることの尊さ」などを表していると言えるのだろう。

確かにこれは『ブッダのことば』の中に出てくるのだが、ブッダが言った言葉ではなく、悪魔が言った言葉だ。
普通に『ブッダのことば』(スッタニパータ)を読んだ人ならわかる。

第三 大いなる章 二、つとめはげむこと」にこの言葉は出てくる。ネーランジャラー河の畔で瞑想していたブッダに悪魔が話しかける。部分的に引用させてもらう。

悪魔あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。

上記の悪魔の言葉をそのとおりだと思う人は、昔でも今でも「ごく普通の人」だ。自分の命をけずるほどのなにかをすることは避けるだろうし、何より命が大事だという価値観を持っている人たちには、この悪魔の言葉に違和感を感じない。こう言うと、「じゃあ命が大事じゃないっていうのか!人や動物を殺してもよいのか!」という反論を持つ人もいるだろう。だがそれは違う。生きとし生けるものは生まれて生きては死ぬ運命にあり、慈しむべきものだ。多くの人間が「幸せ」や「苦痛なき状態」を求めて苦しんでいる。
一方で、では「命」とは何だろう。自分の感覚器官があり、それを収容する身体があり、それは年を経るごとに朽ち果てていく。死んでしまえば身体は動かなくなり、燃やされるなり埋められるなりして、自然に帰っていく。自分の命とは、つかの間の、感覚器官や身体の働きに他ならない。命に執着することなく、善をなし、心の平安を保つという、言葉は静かだが激烈な生き方こそがブッダの真髄だ。

悪魔の言葉にブッダが応える、

ブッダ怠け者の親族よ、悪しき者よ、汝は(世間の)善業をを求めてここに来たのだが、わたくしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命をたもつことを尋ねるのか?

ブッダは続けて、悪魔には八つの軍隊があると説く。
第一の軍隊:欲望
第二の軍隊:嫌悪
第三の軍隊:飢渇
第四の軍隊:妄執
第五の軍隊:ものうさ、睡眠
第六の軍隊:恐怖
第七の軍隊:疑惑
第八の軍隊:みせかけ、強情、誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、自己をほめたたえて他人を軽蔑すること

第一の軍隊の「欲望」だけで、もはや世間の人々は征服される。欲望のおもむくまま、欲しいものを欲し、手に入らないなら苦しむ。たくさんの欲望を叶えた「普通の人間」スペシャリストは、世間からの尊敬を受ける。多くの人達が悪魔とともにいることを望む。最高の喜びにも、最悪の悲しみにも、苦しみがあることを見通すことはできない。

ブッダわたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。

悪魔の軍隊に打ちひしがれて従うよりも、現在の命・身体を脱ぎ捨てるほうがよいと考えるのがブッダである。悪魔に引き寄せられて貪るなら、そこに心の平安はないからだ。心の平安に価値を見出だせない世間の人々は、いたずらに楽しみや悲しみや怒りを追いかけ、みずからの感覚器官をもてあそび、結果的にもてあそばれて苦しむ。

最後、悪魔はブッダにつけこむすきがないことを見て、諦める。

岩波文庫の人は「きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。」という言葉を帯に載せる際に、何を思ったのだろう。まさかこれが悪魔の言葉だと知らずに載せたわけではないと信じたい。この言葉が良いと思った人に対して「ブッダのことば」の購入を促せて、実はこの言葉は悪魔の言葉で、この言葉に騙されないような人間にならなくてはならないよというメッセージなのかもしれない。