無気力・無力感で苦しむ人へ

無気力と無力感ほど精神を蝕むものはない。何をしても無駄な気がしてしまう。才能がなく、どんな挑戦をしても虚しさを感じる。力の無さを痛感する。生きていくための気力を失った。でも最後のひと絞りが残っているから、生きながらえている。

無気力と無力感は、物事を深く考える人ほど、自然な感覚となってしまう。たとえば、人のために仕事をすると建前では言ってみても、人のためになりたいと思っていない。死ぬ運命にある他人、ましてや自分のためにすら、もはや何かをしてあげようと思えなくなっている。

人生の中で楽しみを見出していた時もあった。あの時は、「人生を生きていた」。人生を掴んでいるあの感触。楽しい遊び、悲しい出来事、一生懸命になれる目標。もう他の人と同じように、「人生を生きることができない」。しかし、人生が終わるにはまだかかりそうだ。今、なぜ余生短い老人ではないのか。あとは死ぬだけの身であれば、ゆるやかに死を待つだけでよかったのに。習慣として、ご飯を食べて生きてきた。だからこの文章だって読める。しかし、あなたは私の言葉を読むために生きてきたわけではない。偶然見つけただけだ。

安心して欲しい。もしあなたがここまで思いつめているなら、十分に死の一歩手前だ。そんなに悩める人は多くいない。悩むことすら意味がないと学び、悩めなくなってしまったほどだろう。ご存知の通り、悩めなくなった向こう側に「ハツラツとした気持ち」など存在しない。あるのは、鬱にすらなれない絶望。無ではない、自分が生きているわずかな証を確認する日々。

あなたを尊敬する。よくがんばった。しかし、私の尊敬や賞賛には何の価値もない。

あなたは、無気力や無力感に苦しんでいる他の人たちと共感したいのか、脱出したいのか、それとも乗り越えたいのか。本当は無力感を持ちたくない、でもこの世界や人生を考えれば、そうならざるを得ないと思ってしまう。無気力や無力感を越え、やる気に満ち溢れて生きてみたい。あなたは「吹っ切れるきっかけ」を探しているのか。

無気力・無力感の向こう側は、やる気に満ち溢れた「あのとき」のあなたに戻るわけではない。年を経るとは「変化」だから。

無気力・無力感の先にあるのは、この世界の是認と、人間である自覚である。あなたは肉体と精神を持ち、世界を認識する。現代の日本では車が走っていて、飛行機が空を飛ぶ。そんな光景を目にする。あなたは人間である。犬や猫ではない。それもまた事実である。

無気力・無力感、はたまた迷いや悩みに苦しむのは、あなたが人間であるからだ。当たり前のようでいて、当たり前に認識できる事柄ではない。われわれにとって人間であることは、あまりにも自然だ。あなた、すなわち人間であるあなたは、神ではない。人間の限界・苦しみのすべてを現在進行形で背負っているのだ。

できないこと、どうしようもないこと、わからないこと、怒りに震えること、悲しみにくれること。他にも多くの現実を人間は抱えなければならない。これまで生きてきたすべての人間たちも、そうであった。あなたは、誰もが見ることのできない景色を見た。なんと素晴らしい。その景色がたとえ、真夜中の荒波にさまよう船であったとしても。

無気力・無力感をなくすことが正しいわけではないと知って欲しい。大切なのは、無気力・無力感を否定するのではなく、あなたが感じたあるがままの事実を認める勇気である。思い込みから生じた「こうあるべき」という呪縛に囚われるのではなく、呪縛そのものを愛するのだ。人間存在としての自分を受け入れる。無気力・無力感という感情を理解する。実践的な考え方としては、対処しようとするよりも、そっとしておく。「正しさ」で攻撃し、是正しようと思わないことだ。自分自身を見つめることが難しいなら、自分と同じ気持ちで苦しむ大切な人を抱きしめるように。

あなたには、「正しさ」で否定すべき感情はない。闘おうとするから、争いが生まれる。無気力・無力感と対峙するのではなく、自分自身と寄り添おうとする柔らかな生き方をしよう。あなたがあなた自身のそばにいて、優しく包み込むなら、きっと世界に微笑むことができる。人間存在のすべてがあなたの中にあるのだから。

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