【人生とは何か】ゲーテの名言・格言から学ぶ人生の見方、生き方

あなたの人生の助けとなるように願い、ゲーテの言葉を引用しながらこの記事を執筆した。興味を引いた言葉だけを読んでもらってもいいし、どの部分からでも読める。

岩波文庫、エッカーマン著『ゲーテとの対話(上)』より引用している。


人生何事も、成功しようとするなら、最後までやりとおさねばならない

巨匠の域に達するために、じっくり仕事をつづけるだけの忍耐と才能と勇気を心中に感ずることのできる者は、ほとんど一人もいないことはたしかだ

何かをどんなに上手くやっていても、途中で投げ出しては意味がない。本当に苦しくやめてしまいたいと思うことはよくあるが、なんとか踏ん張ってみよう。

自分の才能から出てきた物事だとしても、やり通すには我慢や忍耐がいる。成功した人は、他の人達が諦めたようなところでも諦めず、最後までやりとげたのだ。


要するに、君は、散漫にならぬように注意して、力を集中させることだよ。私にしたところで、三十年前にこれだけの賢明さがあったなら、まるっきり別の仕事をやっただろう

君にとってなんの成果にもならぬこと、君にふさわしくないようなことは、すべて放棄したまえ

世の中には誘惑が多すぎる。特に現代ではインターネットやスマートフォンの普及により、無料でも多くの娯楽を享受できる時代になった。

だからこそ、現代では何かに集中することが難しくなった。それほどお金をかけなくても楽しいことがすぐに見つかり、手軽なため、すべきことがある場合にも気がそれてしまう。たとえば、現在の職に満足せず、新しい職を得るための勉強をしていても、仕事が終われば動画サイトなどをぼうっと眺めて一日が終わる。いつの間にか本来やりたいことを見失い、今が楽しければそれでいいと(いや、今日を乗り越えるので必死なのかもしれない)、徐々に堕落していく。通勤電車で勉強しようと思っていても、今日だけはいいだろうと自分を甘やかしてしまい、それが日常となってしまう。

誘惑でなくても、現代では職業の自由がある。さまざまな職業があり、自分にあった天職を求める人も多い。やりたい仕事は何なのかわからないまま、しかし今の仕事ではないような気がして、日々を過ごす。やめる自由も続ける自由もあるなかで、今の仕事でいいのかと悩む。

これらの悩みは、これからも人類の悩みであり続けるだろう。無限の選択肢の中で、あっちにいったりこっちにいったりする。

ゲーテでさえ、人生の中で力の使い方に悩み、注意散漫となった。さまざまなものに手を出した。しかし、そんなゲーテは振り返る。

「もっと若いときにあるひとつのことに集中していれば、もっと多くの成果を残せただろう」と。

それゆえに、ゲーテは忠告している、「注意散漫になるな、余計なことはしなくていい、自分にふさわしくないことはするな」と。

あなたの心の声はあなたにしか聞こえない。心の声に耳を傾け実行するのは、あなたにしかできないのだ。

いろいろなことに気が向き、惑わされるだろう。仕方ない。みんなそうなのだ。しかし、戻ってきてほしい。

世界には多くの場所、経験、楽しさがある。それらを体験することこそ、人生の醍醐味だと思うかもしれない。

だが、世界や人類に貢献するためには、限定されたことに焦点をしぼり、集中して仕事しなければならない。人生の時間は限られていて、今のあなただからこそできる仕事がある。それはきっと心の奥底では気づいている何かなのだ。その何かをつかみ、自分にしかできない仕事ができていると感じるとき、真の幸福は訪れる。


さしあたっては、いつももっぱら小さな対象ばかりを相手にし、その日その日に提供されるものを即座にてきぱきとこなしていけば、君は当然いつでもよい仕事をはたして、毎日が君に喜びをあたえてくれることになるだろうよ。

とにかく差し当たって大物は一切お預けにしておくことだね。君はもう十分に長いあいだ努力を重ねてきたのだから、今は人生の明るいのびのびしたところへさしかかったときなのだ。これを味わうには、小さな題材を扱うのが一番だよ。

人間はなぜ生きて死ぬのかといった哲学的問題、宇宙の成り立ちなど、途方もなく大きな問題ばかり考えてはいないだろうか。

それらこそ大事であり他に大事なものなどあるのだろうかと、考えても答えはない問題に取り組み続けてはいないだろうか。

おそらく、あなたは十分すぎるほどそういった問題を考え苦しんだ。

このへんで、小さな、身近な対象に焦点を向け直そう。そして、大きなことを考える機会を将来の自分に託してみてはどうだろう。

将来の自分が答えを出せるかどうかはさて置き、人生の現実的なことを、できることからはじめてみよう。どんな小さなことでもいい。朝起きることや、ご飯をしっかり食べることなど、あなたにできることはあなたが一番わかっているはずだ。大きくなくていい、小さなことをやってみよう。


一般的なものに留まっているかぎりは、誰にでも模倣されてしまうが、特殊なものは、誰もわれわれの模倣をすることができない。なぜかといえば、他の人たちはそれを体験していないからだ

特殊なものは人の共鳴を呼ばないのではないかと心配する必要はない。すべての性格は、どんなに特異なものでも、みな普遍性をもっているし、描かれうるものは、石から人間にいたるまで、すべて普遍性をもっている。なぜなら、万物は回帰するのであって、ただの一度しか存在しないものなんて、この世にはないからだ

重要なのは、小さなものの中に、もっと大きなものを認めるための目と世間知と洞察力を十分持ちあわせていることなのだね。

会社で新しい企画を考えなくてはならないとき、学校で催し物をするときなど、つい今までに上手くいったものから考えたり、人がよく思いつくようなもので安心感を得たりすることがある。他には、自分だけの人生を歩みたいはずなのに、進学するべきか就職するべきかなど、周りを見て左右されることがある。自分で何か作品を作りたいとき、自分でものを書いてみたいときに、あまりにも自分が特殊すぎて自信を持てないこともあるかもしれない。

しかし、自分の欲求や夢、願いなどが特殊であればあるほど、個性的になる。

どうせ自分にしかわからないだろうからと、生じた欲求を押し込めてはならない。思い切って表現してみるべきだ。むしろ、誰にも理解されないと思うものほど表に出してみよう。そして、それはどんなものであったとしても、何らかの意味やほかのものとの共通性がある。

たとえば、野球選手とサッカー選手では全くスポーツの種類が違うが、一流の人が言う言葉は共通しているなと思ったことはないだろうか。野球やサッカーでなくてもいい。

つまり、物事の表面が違っていても、行き着く先は同じである。だから、あなたがどんな特殊なものを極めたとしても、必ず普遍的なものがあるから、安心して打ち込んでみよう。


これが果たして将来の私の全集におさめるだけの値打ちがあるかどうかを、私は知りたいわけなのだ。私自身はこれともうあまりにも距離ができすぎてしまっているので、判断ができないのさ

ゲーテが自分の若い頃の作品のどれを全集に入れようか悩んでいる時、エッカーマンに発した言葉。

若い頃の感覚と、年老いた今の感覚との違いを客観的に認識し、自分が判断できないものに関しては、判断できる人に任せている。

私たちも迷ったり悩んだりしたときに、自分だけではどうにも決めることができないことがある。そんなときは、いっそ信頼がおける人に相談してみて、その答えをもとに行動してみてはどうだろうか。


どんなすぐれた人たちでも、大家の才能をもち、この上なしの立派な努力を重ねる人たちこそ、大作で苦労する。私もそれで苦労したし、どんなマイナスを経験したか、よくわかっている

長期スパンの大きな仕事をする、時間も手間もかかる作品を生み出すなど、誰しも大きなものに立ち向かうときがあるだろう。

賢明なゲーテでさえ、大作に苦労した。学生であれば、卒業論文などを例に出せるかもしれない。書いたことがないような文章量、内容で、果たして終わりがあるのか、きちんとまとめきることができるのかと、不安になる。完成させないと落ち着かず、完成できなければそれまでの努力も水の泡になってしまう。大作に取り組んでいる間は、その大作に翻弄される。

大作で苦労するのは、どんなに能力がある人でも同じなのだ。簡単に大作を生み出せる人はいない。コツコツ積み重ねて努力をし、あせらずに進もう。


現在には現在の権利がある。その日その日に詩人の内部の思想や感情につきあげてくるものは、みな表現されることを求めているし、表現されるべきものだ。

現在のあなたの気持ちや思いを大事にしよう。それは、今だからこそ持っているもので、決して否定されるものではない。

確かに10年や20年経ったら今の気持ちなど忘れてどうでもよくなっているかもしれない。

しかし、今のあなたを認識してあげることは大切だ。できるなら、日記帳でも携帯のメモでも現在の状況や気持ちを書き留めてみよう。将来振り返った時に、想い出深いものとなるに違いない。


彼らの多くには、軽妙な生きいきした描写の能力が欠けているよ。自分の力以上のことをやろうとばかりしてね。この点で、私は彼らのことを無理をする才能とよびたいのだ。

自分をよく見せようと、人は自分の力以上のものを他人に認めさせたがることがある。向上心は自分の能力や自信を高めることがあるが、背伸びをしすぎてしまうと肩に力が入ってしまう。

普段どおりリラックスしてやるほうが結果的によくできることも多いのだ。小難しく考えるのではなく、気持ちを素直に感じて、気張らずにやってよいのである。


私の常として、すべてを静かに胸にしまって、完成されるまで誰にも知らせない

あなたの心の中には、人には言えない夢や希望があるだろう。言いたい気持ち、誰かに理解され応援してもらいたいと思うのは自然なことだ。むしろ現代では有言実行という言葉があるように、宣言することで自分を鼓舞することすら推奨されている。

だが、本当に大事な気持ちは自分の中にしまっておこう。他人に言ってしまうと、何もないかもしれないが、あなただけにある気持ちではなくなってしまう。

ひそかな夢や希望は、他人に知ってもらう必要がない。自分で持っていれば十分だ。他人に不必要に晒して折られてしまっても、気持ちはもとどおりにならない。

人との共有や共感が大事な場面もある一方で、口を開かないでおくということも同じくらい大事である。


つらい思いも忍耐も学んできた

苦労と仕事以外のなにものでもなかったのだよ。七十五年の生涯で、一月でも本当に愉快な気持で過ごした時などなかったと、いっていい

有名人がテレビなどでちやほやされているのを見て羨ましく思うことがあるかもしれない。しかし彼らは人知れないところで人々の想像を超える努力をしている。

ゲーテですら、つらい思いや忍耐の日々で、「苦労と仕事以外のなにものでもなかった」と人生を振り返っている。

何かを成し遂げた人というのは、何かを犠牲にしていること、遊びほうけながら富や名声を獲得したのでは決してないことを覚えておかなければならない。

むろんあなたもそういう人物になりたいと思うなら、多くのことを犠牲にする覚悟が必要だ。


精力を散漫に浪費しないように注意すれば、彼は、相当なものになれるだろう

才能があるだけではどうにもならない。

たとえばあなたにフィギュアスケートをする世界一の才能があったとしても、スケートすらしたことがなく、周辺にスケート場がなければ才能に気づくこともないだろう。

自分の中にある才能を運良く見つけられたとしたら、徹底的に磨こう。才能とまで言わなくても、得意だと思うことや、これだったら精神的負担が少なくがんばれるといった物事に取り組もう。

そして最も大事なのは、注意散漫にならず集中することだ。

どんなに勉強の才能があっても、勉強時間がほとんどなければ、試験に通ることは難しい。たとえ仕事で多くの収入を得ていても、浪費が激しければ億万長者にはなれない。

「相当なもの」になるためには能力だけでなく集中して取り組む環境や心が大事なのだ。


実際、人間には、自分がその中で生れ、そのために生れた状態だけが、ふさわしいのだからね。偉大な目的のために異郷へかりたてられる者以外は、家に留まっているほうがはるかに幸福なのだ

世の中にはさまざまな人がいる。

地方から都会に引っ越して一旗あげようという人や、海外に出ていく人、東京生まれ東京育ちで地方に住んだことがない人、田舎で生まれ仕事をして生涯を終える人など、多種多様だ。

生き方には、正しさも間違いもない。冒険に出ていきたい人は、心にどうしても嘘がつけなくて、冒険へ出る。冒険に出かけなければならないわけではない。やむを得ない人だけが冒険へ出るのだ。もしあなたにそのような感情がない場合、冒険する必要はない。

結局は各々が、自分の心の要求にしたがって行動すればよい。


一方をやれば、他方はおろそかになり、忘れられてしまう。だから、賢明な人というものは、気を散らすような要求は一切しりぞけて、自分を一つの専門に限定し、一つの専門に通暁するわけだよ

同じ仕事にしてみても、さらにその中に何種類かあるのが普通だ。たとえば医者にしても、内科と外科では違うし、耳鼻科と皮膚科では違うだろう。

では、歯と耳鼻と皮膚と精神の専門家になろうという医者がいたとして、成功するだろうか。どれかの分野では知識や技術が弱くなってしまう。

確かに興味があることは何もかもしてみたいのは普通で、「挑戦」という言葉を借りるなら肯定されることもあろう。

だが、ついには中途半端になってしまう。中途半端が悪いのではない。

もしあなたが一つのことをやっていれば、到達できるのが100として、注意散漫になってしまったら50や60になってしまう。もったいないのだ。

あなたの100の到達点でなければ救われない人たちがいる。あなたの能力の開花を待っている人たちがいる。だから、やるべき領域を限定し極めることが大切だ。


時代というものは不思議なものだよ。暴君のようなもので、むら気であり、世紀がかわるたびにひとの言動に対して、別人のような顔をしてみせる

かつて江戸時代の日本は鎖国されていて、自由に海外との交流ができなかった。今となってはどうだろう。

以前正しいとされていなかったことが今では正しく、かつて正しいとされていたことが正しくなくなっている。

昔だと普通だったことが現代では問題になるなど、時代によって人々の意識は変わる。

今あなたが批判や非難を受けていたとしても、現代の人々の気まぐれかもしれない。いやおうなく聞こえてくる周りの意見もあろうが、絶対的だと捉える必要はない。あなたはあなたが思う道を歩き、あなた自身が理解していればよいのだ。


世の中の状況というのは、永遠に、あちらへ揺れ、こちらへ揺れ動き、一方が幸せに暮らしているのに、他方は苦しむだろうし、利己主義と嫉みとは、悪霊のようにいつまでも人びとをもてあそぶだろうし、党派の争いも、はてしなくつづくだろう

いちばん合理的なのは、つねに各人が、自分のもって生れた仕事、習いおぼえた仕事にいそしみ、他人が自分のつとめを果すのを妨害しないということだ

たとえばデパートが田舎に進出してきたら、その地域の商店街の人達はお客さんを奪われるかもしれない。一方で、デパートで働きはじめた人たちは家族を養い、幸せに生きていけるかもしれない。

状況というのは、「永遠に、あちらへ揺れ、こちらへ揺れ」動くものである。

どこかの会社の利己主義はどこかの会社を蝕むだろうし、そうしてみんな生きている。100円の原価のものを1000円で売ることに罪悪感を抱いていては、商売あがったりだ。仲間をつくっては自分たちの利益を追い求め、違う集団と対立する。そんなことを繰り返しているのが世界だ。

そういう世界で唯一「合理的」なのは、それぞれの人間が自分の仕事を全うすることだ。

他人にしてみても他人なりにつとめがあるわけで、それを邪魔しないようにすることが大切だ。

争ったり憎み合ったりするかもしれないが、それはお互いがやりたいようにやった結果生じる仕方ないものだ。やるべきことを自分がやれているのなら良い。

利己主義や嫉み、争いまでも否定してしまっては、人間は何もすることができない。衝突を恐れてはならない。やるべきことをやり、相手にもやるべきことをやらせてやる。

現代で具体的に言うなら、スポーツマンシップだろう。お互いに敬意を払い全力を尽くし合う。スポーツでなくとも、そのような意識が大事だ。


霊魂不滅を信ずるものは、ひそかに幸福にひたっていればいいので、それを自慢するいわれなどないのだ

森羅万象の中に理性をもちこもうとしても、人間の卑小な立場からでは、全くの徒労に終るだけだ。人間の理性と神の理性とは、まるっきり違ったものだからね

死を考えても、私は泰然自若としていられる。なぜなら、われわれの精神は、絶対に滅びることのない存在であり、永遠から永遠に向かってたえず活動していくものだとかたく確信しているからだ。それは、太陽と似ており、太陽も、地上にいるわれわれの目には、沈んでいくように見えても、実は、けっして沈むことなく、いつも輝きつづけているのだからね

君が生涯の信念としてもてることを教えてあげよう。自然の世界には、われわれが近づきうるものと近づきえないものがあるということだ。これを区別し、十分考慮し、それを尊重することだ。(中略)これがわからない人は、おそらく一生涯、近づきえないものに取りくんで苦労し、結局、真理に近づくこともできないだろうよ。ところが、これを知る賢い人は、近づきうるものだけをよりどころにするだろう。

あなたはいずれ死ぬ。しかし、生き物は生まれては死ぬことを永遠に繰り返しているのであり、「あなた」という生は終わっても、生命の死ではない。

ある日生を受けて、ある日死を受ける。生命は生死の繰り返しの中にある。たとえ地球がなくなったとしても宇宙のどこかで、あるいは何兆年でもかけてまた地球のような星と生命が生まれる。

あなたはあなたの人生を終えたとしても、完全に終わりではない。すべての生命の連鎖の中にいる。

ある国で太陽が昇っている時、ある国では太陽が沈んでいる。太陽は変わらず輝き続けているが、見え方が変わっているだけなのだ。

同じように人間の生死も、その姿かたちが変わっているだけで、生命の泉はいつも輝いている。

理性では理解できない大いなる存在があると認めたとき、それは他人に言わなくても自分で享受していればよい。

人間が誇る科学でも、現象を説明することはできるかもしれないが、根本的になぜそのような現象があるのか説明することはできない。たとえば宇宙がどのようにしてできたか説明できたとしても、なぜ宇宙がそのようにしてできる状況にあったのか説明することはできない。人間に目は2つあるが、なぜ10個や20個でないのかは説明できないように、人間が理解できることは少ない。

ただ、想像もつかないようなことがこの世界、宇宙にはあると思うことはできる。わかることとわからないこと、できることとできないことの区別を知るとき、あなたは追求すべきものを知る。そのときに初めて、人間ではどうしようもできないことに対する追求をやめる。それこそが、人間の成熟だ。


この世ですでにれっきとしたものになろうと思い、そのため、毎日毎日努力したり、戦ったり、活動したりしなければならない有能な人間は、来世のことは来世にまかせて、この世で仕事をし、役にたとうとするものだ。その上、不死の思想などというものは、現世の幸福にかけては、最も不運であった人たちのためにあるのだよ

この世で「すでに」れっきとしたものになろうという、この「すでに」という部分が面白い。人間として無限に生命を受けることができるなら、必ずしも今の人生でがんばる必要はないとも言えるかもしれないからだ。

しかし、今の自分のこの人生、つまり「この世」でれっきとしたものになろうとするなら、死んだ後のことなど考えないことだ。

死なないようにしようという愚かな考え方を持つことは、生命の神秘からかけ離れた考え方である。この世界の不思議さを理解できていないという点であまりにも気の毒と言えよう。言葉を変えれば、人生は死ぬからこそ素晴らしいと言える。

死んでも決して終わりではないと思える不思議さこそが、現在の生を謳歌する重要な考え方となるからだ。


純粋の、真に偉大な才能ならば、制作することに至上の幸福を見いだすはずだ

あなたの中にくすぶった才能があるならば、それを表現することが幸福につながる。

何か物を作るということだけが「制作」ではない。プロのスポーツ選手なら試合でのパフォーマンスだし、演奏家なら曲の演奏だろう。

自分の才能から何かを生み出すということをしていれば、自然に満たされていく。

心の中にしまってある才能はないだろうか。それが余すところなく世に出た時、あなたは満足するだろう。


比較的才能のとぼしい連中というのは、芸術そのものに満足しないものだ。彼らは、制作中も、作品の完成によって手に入れたいと望む利益のことばかり、いつも目の前に思い浮かべている。だが、そんな世俗的な目的や志向をもつようでは、偉大な作品など生れるはずがないさ

たとえば受験勉強にしても、あの学校に受かればみんなが尊敬してくれるなどといった期待を抱いて勉強しても偉大にはなれない。

この話で言うなら、勉強そのものに価値を感じ、勉強すること自体から喜びを感じなければならない。

仕事にしても、会社や同僚から認められること、得られるお金のことばかり気にしていては、本当に良い方向へは進んでいけない。仕事の内容や意義に集中し取り組むことで、より大きな仕事を果たすことができるようになる。


必要もないというのに、そんなものにかかわりあうことはないよ

馬鹿は馬鹿のするにまかせておこう。馬鹿につける薬はないさ。それに、本当の才能ある人はちゃんと自分の道を見つけるものなのだ

人はただ自分の愛する人からだけ学ぶものだ

本当に他人の心を動かそうと思うなら、決して非難したりしてはいけない。まちがったことなど気にかけず、どこまでも良いことだけを行なうようにすればいい。大事なのは、破壊することでなくて、人間が純粋な喜びを覚えるようなものを建設することだからだ

他人を責めたところで何にもならない。

時には他人のことに納得がいかず、怒りを覚えることは、人間として自然なことかもしれない。しかし、非難してもどうにもならない。ただ反感を買うだけで、その人が行為を改めたり反省したりすることはまれだ。それに、人間はみな間違うので、むやみやたらに間違いを指摘しても意味がない。

結局、人は自分で変わろうとしたときにだけ変わっていく。好きな人、信頼している人の言うことを聞く。

あまり細かいことは気にせず、人間が喜びを感じるようなことに集中して取り組もう。


いたるところで、一人ひとりが自分を立派に見せようとしている。どこへいっても、全体のため、仕事のために自分自身のことなど気にならないような誠実な努力家は見あたらない

耳が痛くなるような言葉だ。

実力を必要以上に大きく見せたり、自分だけは特別だとアピールしたりすることに必死な人たちがいる。組織のためではなく自分の立場や利益のために動く、あるいは自分がかまってほしいばかりに、他人の邪魔をする人もいる。

どのように見られるかなど気にすることはない。

できる努力を精一杯続ける人間こそ、素晴らしい。


たいていの人間にとっては学問というものは飯の種になる限りにおいて意味があるのであって、彼らの生きていくのに都合のよいことでさえあれば、誤謬さえも神聖なものになってしまうということだったよ

大学でも、職にありつきやすい学部とありつきにくい学部がある。専門分野が実生活と関わりが薄い場合、飯の種にならないかもしれない。

人間は生活に左右されているので、お金になるかならないかはとても重要である。

本来学問は人間の生活の次元とは別の領域にあるものだ。しかし、人間はあまりにも「飯の種」に左右されている。その結果、ある事柄が真実であろうがなかろうが、「飯の種」になるなら「むやみやたらに触れなくてよい(触らぬ神に祟りなし)」とされ、そうでなければ意味をなさないことも多いのが現実だ。

学問に限ったことではなく、報道にも言える。大事なことであっても、大衆の関心がないと見てもらえない。質の善し悪し、真実かどうかは別にして、大衆の関心を引けそうなものから報道される。

学問を志す者は、飯の種のためだけに学問があるのではないと認識しておかなければならない。先人たちの学問の遺産を受け継ぎ、次の世代へ渡せる遺産となるように、今の自分の才能に合う学問的追求を行うことが大切だ。


たとえば***は、偉大な才能とか世界的な学識を持っているのだから、国民にとって大物になりえたにちがいない。ところが、性格がもろくて弱いために、国民になみなみならぬ影響を及ぼすこともできなければ、自分自身も国民の尊敬を得ることができなかった

レッシングのような男が、われわれには必要なのだ。彼が偉大なのは、その性格や意志の強固さによるもので、それ以外に何がある!あれくらい賢明で、あれくらい教養のある人物なら、他にもたくさんいるが、あれくらいの性格がどこにある!

ゲーテは、性格や意志の強固さがいかに大事かを述べている。

頭が良くて能力があっても、性格や意志がそれに伴っていなければ大成しない。

逆を言えば、秀でた才能はなくて頭が少し悪くても、ひとつのことに向かう性格と意志があるなら、立派になれる。

生まれ持った才能は変えられないかもしれない。

しかし、挫けない気持ちを持ってひとつのことに打ち込むことなら、あなたにも可能なことだ。


じつに才たけて知識も豊かな人は大勢いるが、同時に、虚栄心も強い。近視眼的な大衆から才気のある人とほめられたい一心で、恥も外聞もなくしてしまう。彼らにとっては、神聖なものなどまったく存在しないのだ

どんなにあらゆる点で才たけていても、結局それだけでは世のためにもならないし、それだけでは少しも建設的なところもない

才能ある人間はありとあらゆるところにいる。

だが、才能ある多くの人は自分の才能をなんとか認めてもらうために努力しており、努力すべきものに集中して行動できていない。人に認めてもらうこと、あるいはお金のことばかり考えているので、視野もせまくなってしまう。才能の誇示や人からの注目ばかりに気を患っていては、何の成果ももたらさない。

自分がやる仕事は本来、心の奥底から湧き上がってきた「神聖なもの」だ。

その仕事に没頭することこそが、自分と世の中を照らす。


われわれは、いっそう高い格言を、それが世のためになるかぎりにおいてのみ述べるべきだろう。それ以外のものは、自分ひとりの胸中にしまっておけばいい

示唆に富む良い言葉を、人のためにもならないような解釈で述べる必要はない。

なにか上手くいっていない人がいた時に、「どうすればよいか」と聞かれたら、その人のことを考えて、良い言葉をかけてあげるべきだ。確かにその人には欠点もあり、過ちもあったかもしれない。しかし、誰しもそうなのだ。

余計なことは言わず、ただひたすら人のためになる言葉を出そう。


われわれの行動には、すべて結果がともなうが、利口な正しい行動が、必ずしも好ましい結果をもたらすとはかぎらないし、その逆の行動が必ずしも悪い結果を生むわけでもなく、むしろ、しばしばまるっきり正反対の結果になることさえあるね。(中略)こういうことをよく心得ている世間人は、じつに大胆に、横着に仕事をしているのが目につくよ

勇気だけはふるいおこして、すみやかに決断しなければならない。それはちょうど、海水浴のとき、水を見て尻込みしているようなものだ。ただもうひと思いに飛びこんでしまえばいいのさ。そうすれば、水の方が、われわれの思うままになってくれるよ

大してがんばっていないのに良い結果が出たりする一方で、すごくがんばったのに結果が出なかったりすることがある。

他にも、相手が喜ぶと思っていなかったのに喜んでもらえた時などは、不思議な気持ちがするものだ。

人生は時に、上手くやったつもりでも怒られるような理不尽なことがある。よくわからないようにできている人生では、肩肘張ってみたところで、だめな時はだめなのだ。

だから、一喜一憂しないでいい。怯えることなく、むしろふてぶてしいほどに思い切って歩んでいこう。そうすれば、状況の方からあなたになじんでくれる。


実は一人ひとりが自分を特殊な存在につくりあげなければならないのだ。しかし、一方また、みんなが一緒になれば何ができるかという概念をも得るように努力しなければならない

結局、最も偉大な技術とは、自分を限定し、他から隔離するものをいうのだ

私はまったく多くの時間を浪費しすぎた(中略)自分の本来の専門でもないことにね。(中略)私は、もっと自分の本来の仕事に専念すべきだった

一つの事に徹して、偉大であるということはどういう意味なのか、またそのために何が必要なのか、ということを、いつも今さらのように悟ることになる。

ひとりとして同じ人間はいないのだから、それぞれに個性があって当然である。しかし、その個性を放っておくだけでは、世の中に貢献することは難しい。

「その他大勢」という言葉もあるように、いたって特徴が見えてこない人たちのほうが多いかもしれない。

それぞれの人間が自分にしかできないことに邁進するなら、すごい世界になるだろう。それこそ理想だ。

たしかに世の中には、あまり人がやりたがらない仕事も多くある。しかし、その仕事にはその仕事なりの意義や素晴らしさがある。各々が、意義を感じ生きがいにできるような仕事ができれば良い。

自分にしかできない仕事を極め続けることで、「自分を限定し、他から隔離する」技術を手に入れることができる。自分が得意なもの、才能を感じるものの中から、専門分野を決め徹底的に精進する。

どんなことをやったとしても、その深淵には普遍性があるのだから、心の声をよく聞き極めればよい。あれやこれやと手を出し悩む必要はない。あなたの能力が開花する未来を待っている人たちが、たくさんいるのだから。


独創性ということがよくいわれるが、それは何を意味しているのだろう!われわれが、生れ落ちるとまもなく、世界はわれわれに影響をあたえはじめ、死ぬまでそれがつづくのだ。いつだってそうだよ。一体われわれ自身のものとよぶことができるようなものが、エネルギーと力と意欲の他にあるだろうか!私が偉大な先輩や同時代人に恩恵を蒙っているものの名を一つひとつあげれば、後に残るものはいくらもあるまい

すべてが現状のままであるかぎり、ほとんど何も期待できないということだ。時代のよいものをすべてすばやく自分のものにして、それによってすべてのものをも凌駕するような偉大な才能が現れなければならないのだ。その手段はすべて目の前にあるし、道は示され、軌道まで敷かれている

私は今パソコンで原稿を書いているが、かつては紙だったし、発表だって紙でしかできなかった。今はウェブで簡単に自分の書いたものを公表できる。パソコンは天才たちが血の滲むような努力をした結果存在しているのであり、自分が原稿を書くからといってパソコンから開発しなければならないとしたら、一生を捧げても足りなくなってしまう。

多くの知識も同様で、先人たちが人生を削って貢献してきてくれたからこそ、現代の私たちはそれを享受できる。しかし先人たちは先人たちで、さらにその先人たちのお世話になっている。そうやって人間は望む望むまいにかかわらず、先人の遺産を受け継ぎながら生きている。

では、ありとあらゆる遺産を受け継いでいる我々に、独自なものなどあるのだろうか。

ゲーテは、それこそが「エネルギーと力と意欲」だと言っている。

つまり、あなたが「こうしたい、ああしたい、ああなりたい」という願望を持ち、行動することこそが独創性だ。

当たり前だが、この世にいない先人たちは現世で何かを考えることもすることもできない。記録や知識を残していたとしても、現代を生きることができない。

一方で、あなたは生きることができる。あなたにしかない心がある。さまざまな願いや理想を持ち、行動できる。先人たちの知識や経験を利用し、意欲して生きることは、あなたにしかできないのだ。

この記事を読んでくれているあなたが、心の声を聞き、先人たちの知識を十分に活用して、独創的に生きていってくれることを、私は心より願っている。