「リアル」人生ゲーム、現代が生む仮想世界への雑感

人生自体がゲームのようなものだ。しかし、人生の中にさらにゲームがある。テレビゲームやスマートフォンのゲームだ。

いちおう「リアル」の人生にもいろいろな設定がある。たとえば人間は自力で空を飛べない一方で、ツバメは空を飛ぶことができる。人間として生きている以上、可能なことと不可能なことがある。

「リアル」な人生の設定に不満がある場合、人間はゲームを作り出し、その中で好みの設定に変えることができる。ゲームはどれも、叶わぬ願いを叶えるためにある。「リアル」な人生では、魔法を使って龍と戦えない。人間どうしが剣を交えて戦えば罪に問われる。冒険に出かけて村で武器を買ったり、モンスターに出会ったりもできない。

仮想の物語の「充実性」に比べてみれば、現実が見劣りするように見えることもわかる。

ゲームをするには、意欲が必要だ。クリアしたくないゲーム、あるいは自分が良いと思える要素のないゲームを続ける気にはならないだろう。だから、現代のスマホゲームはある程度努力したり、お金を費やせば報われる仕組みになっている。「リアル」な世界でも努力とお金でなんとかなる部分もあるのだが、なにぶん費用対効果が不透明だから、心も金も費やす気にならないという人たちが大勢いる。さらに残念なことに、「リアル」人生では、何をすればクリアなのかが明確ではない。ゲームは人間が作っている。報われるようにしている。「リアル」が思うように報われないからこそ、再設定した仮想世界を提供しているのだから。

目的(クリアの条件)が与えられていない点で、「リアル」な人生は難しさを増している。人間が作るゲームは目標や目的、レベルなどがあるため、自分が何をしたらいいのかわかりやすい。一方で、「リアル」な人生にはそれらがない。特に現代社会は自由度が増していて、自分の目的を見つけることが難しい。江戸時代のように士農工商といった身分制度があると、人はその身分の中でなるべく良い人生を送れるようにする。だが、現代的な傾向として、生まれつきの「設定」はなるべく排除されているので、我々は「リアル」な人生の目的をまず探さねばならない。

ゲームが流行っている理由には、「リアル」な人生の目的が不明瞭である事実が挙げられる。仮想世界で生きていくために「リアル」な人生があるかのように、世界が「転倒」することさえある。

とは言うものの、「リアル」人生は究極的に自由である点が素晴らしい。「リアル」な人生を謳歌してもいい。現代では仮想世界が充実しているため、仮想世界に没頭してもいい。どんな風に生きてもいい。我々人間の「死」はゲームオーバーなのか、コンティニューなのかは誰にも分からない。それが「リアル」な人生というゲームに深みを増している。もし死んだとしてもすぐにまた違う人間として生き返るとわかっているなら、この世は一変してしまうだろう。分からないからこそ良いとも言える。「分からない」を許せない人の中には、「分からない」を「分かる」ようにしようと時間を費やして、一生を終える人もいる。「リアル」な世界には設定上倒すことができない「ラスボス」もいると知ることが大切だ。

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