「何者にもなれない」と悩むあなたへ

2019年の2月、雪が降った日もあったが、おおむね気候的にはそれほど厳しくはない日々が続いているように思う。もちろん外は寒いし、夜明け前の寒さは体の芯まで届く。


「何者にもなれない」と悩む人がいる。ここで、「あなたは特別だ」とか「人間は一人ひとりが貴重な存在なんだ」などと言うこともできる。これらを否定するつもりはないし、だからといって肯定するつもりもない。

正確に言えば、「よくわからない」ということだけだ。

なんだろう、「よくわからない」ということだけは「よくわかる」。これは人生の面白い矛盾で、醍醐味だ。


「何者にもなれない」と悩むとき、「何者かになった自分」を想像している。特に何かになりたいわけではないが、なんとなく「何者にもなれない」自分の人生は何なのだろうと思うこともあるかもしれない。

「なーーーんかなぁ、なーーーーんか違うんだよな」
「はーーーーーあ、今までの人生なんだったんだろう。これからどうやって生きていこう」

この世界には「キラキラ」した人たちがいて、「あなたが本当にやりたいことをやりなさい」「生きたいように生きるのです」「できると信じなさい」と言っている。

「じゃあそうしよっかな!」とテンション高くなるのもつかの間、また今までの自分に戻ってしまう。

この世界において、「何者かになる」とはどういうことなのだろう

この記事で私の言葉を読む人は、きっと「誠実な」言葉を期待しているのだと思う。主張というのはどこか偏っていて、納得しそうだけど、やっぱり納得できないやと思っているから放浪する。放浪するという言い方が悪印象なら、旅に出る、という感じ。

あなたは「何者かになる」とはどういうことだと思う?

日本で知らない人はいないというほどの有名人?日本一、世界一の美しさ?世界で一番の大富豪?尊敬を集められる人?エジソンやアインシュタインのような天才になる?ごくごく平凡な毎日をただ過ごしたいと思う人?

数え上げればキリがないかもしれない。

「何者かになった人」は「自分自身」になった人

結局のところ、いくら他人に憧れてもあなたはその他人になれるわけではない。あるいは、どの他人にもなりたくないあなたは、その他人のようになる必要もないし、なることはあり得ない。

あなたが今現在「何者かになった人」がいると感じているなら、その人は「何者かになりたかった」というわけではない人だ。一流の人達の中には「自分にはこれしかなかった」と言う人も意外にいることを気づいているだろうか。あなたが当たり前のように経験してきたことを、ある人は経験できていない。あなたにはあなたにしかない経験がある。迷い続けてきた、悪戦苦闘してきただけだと思っているかもしれないが、そんなことはない。選択肢が多かったからこそたくさんのことに悩み苦しんで来れたのだ。選択肢が少なければ、ない選択肢の中からやるしかない。あるいは、狭い世界観の中で生きていかざるをえない。

あなたが思う「何者かになる」という概念は想像の産物だ。実際には誰も「何者か」なんかになっていない。どんな人もあるときは喜び、あるときは悲しみ、あるときは怒り、あるときは切なくなる。もちろん、我々人類の記録に残るような人間になる、という「偉業」を成し遂げた人もいる。しかし彼らも、今のあなたと同じような感情を持って生きていたのに、あなたが当たり前のように享受してきた恵みを受けることができなかったかもしれない。それに、自分が死んだあとの世界で自分の名が残って、本当に何になると言うのだろう。

簡単に言えば、あなたはあなたが生きたいと思うように生きていけばいいということになる。

「何者かになる」ことを考えているときはいつも、他者視点になってしまっている

「何者かになる」という言葉を考えるとき、他人の存在なくしてそれを考えることはできない。つまり、他者視点に陥ってしまっている。

重要なことは、あなたが今何をしたいか、何を欲しているかということである。

あなたが好きなように生きていれば、人生はそれでいい。「何者かになる」などといったことは、他人に気を使っているにすぎないのである。

客観的視点ではなく、「自分視点」を取り戻そう

現代社会の人間たちは他人を気にしすぎている。インターネットによる情報過多もあいまって、他人にとにかく影響されることが多い。そうならざるを得ない環境にいると言ってもいい。

意識的に情報を遮断し、独りでいることの大切さを噛みしめるほうが、現代人にとってはちょうど良いかもしれない。

今考えていることは、自分から生まれてきたのか、それとも他人を考えるから生まれてきたのか。そういった視点が求められている。

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