本屋に「友達」がいなくなる時

本屋とは、無限だった。大きい本屋であればあるだけ「友達」に出会える。小さい本屋でも、ないよりはいい。

ある日を境に、というほど劇的なことはないが、徐々に本屋から「友達」がいなくなった。かつての「友達」は哲学者だったことも、文学者だったことも、研究者だったこともある。もうそこには、共に苦悩を味わう「友達」も、共に喜びを感じる「友達」もいない。

人生に没頭することは、視野を狭くしなければ達成できない。人生について深く考えることができるのは、自分が「人間」であるうちだけだ。世界には人間以外にも様々な生き物がいる。家畜の一生を考えれば、人間の悩みなど、なんて贅沢な娯楽だろうか。卵を産むための鶏、食べられるための牛など、彼らに「人生」など考えられるだろうか。生き方に悩んでいる人間は、遠くから見れば酷く滑稽だ。

人生にあっぷあっぷしている人の書物は仰々しすぎる。例えるなら、砂場で遊んでいる小さな子どもが、「この作品こそ芸術。そして我の世界はここより始まる。」と肩に力が入っているのと似ている。人間の思考力という恩恵が、人間を人間視点でとどめてしまう落とし穴をつくってしまう。

他人の書く妄想物語で自分の人生の時間を使うというのも、そう思ってしまうとしんどくなる。楽しい物語は時間を忘れてのめりこめるし、心の高揚を感じる。だが、物語は人をその世界に本当に連れて行ってくれるわけではない。物語に触れている間、現実を忘れるだけだ。私やあなたにだって、自分の人生の物語を作っていけるというのに、他人が作った物語に人生を消費させるばかりで良いものだろうか。

「友達」はもういないとわかっていても、本屋に「友達」を探しに行く。そうすると、やっぱり「友達」はいなかったと確認して帰る。かつての「友達」を懐かしむ。それでいて彼らをもはや必要としていない。だが、かすかに残る過去の思いへの幻影が、そっと私の後ろにいる。

読む本がなくなるというのは、知らないものがなくなったなどという傲慢な話ではない。世界には自分の知らないことがごまんとあり、自分が知らないことを含めた世界でさえ、宇宙のほんのひとかけらにすぎない。一方で何か具体的なこと、たとえばカレーの作り方を知りたいと思えば、料理本のコーナーへ行き知ることができる。調べ物として本を読むということと、「友達」を求めて本を読むということとは違う。

あなたにはまだ、本屋に「友達」がいますか?

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