「悟り」を開くことができた

2018年11月18日日曜日、「悟り」を開くことができた。

「悟り」を改めて確信することができた、本日2018年11月19日月曜日。

あえてかぎかっこ付きで「悟り」としているのは、「悟り」の意味が人によって違うからである。

書いてもしょうがないかと最初は考えた。それでも、「悟り」を求める人に、あるいは「悟り」を得たと思うがこれでいいのかと疑問を持つ人に向けて、少しのヒントにでもなればと思った。異論はもちろん認める。「悟り」とはまったくもって一般的な意味で言う「個人」の範疇にあるからだ。

「悟り」を開く前と後では、確かに景色が違うのだが、一変するというものではない。

勉強や瞑想実践により、徐々に人間が変わっていった。

そして最後、大きな一歩を踏み出した時に、これ以上進むところがないということに気づく。
「気づき」が大事で、知っているかのようで知らなかったことに気づく、とでも表現しようか。「逆転の発想」ともまた違う。

例をひとつ出せば、美女に惹かれる自分がいるとする。「美女」というのは名称と形態に左右された「私」が解釈した結果で、なおかつ「糞袋」だと理解したとする。でも、どうしても欲情してしまう自分に悩む。「しょせん人間のちょっとした目鼻立ちで可愛いと思ってしまうなんて、なんと愚かな自分!自分は顔かたちに惹かれており、皮膚を愛しているのか!触覚にも左右されていて、あの膨らみに触れたい!でもこんなのじゃダメだ、乗り越えねばならない!」などと考える。理解していないからこそ欲情してしまい、欲情は「苦」につながるから、本当に理解すれば情欲がなくなり「苦」の消滅にもなると考える。だが、一見して正しそうなこの姿勢こそが、自分を無明へ引き込んでいる。「そうか、あっちの女の人はブサイクだしどうでもいいが、この女の人は美人で話してみたいと自分は思っているんだな」と観察することが大切なのだ。つまり、過去から大量に積み重ねてきた「業」(ここで言うなら、昔から誰かを可愛いと思ったりしてきた無数の過去)により「美人だなあ、付き合いたいなあ」と思っていて、今目の前にいる美人に対しても同様に思うのである。それを否定するからこそ、「苦」が生まれる。誤解を恐れずに言えば、「美女」に惹かれないことが「悟り」なのではない。「美しい」と思ったなら、「美しいと思ったな」と思うだけで、あとはなにもない。それだけである。「美しい」と思うことを否定する必要はなくて、「美しい」と感じたときにはそう感じた自分を把握していればよい。

確かに瞑想を極めていけば、外を歩いている人ももはや人とは認識しないほどの「目」を手に入れることができる。
でも、そうして世の中を観ることが別に「正しい」わけではない。
もし何かを「美しい」「素晴らしい」と思うなら、そのままそう思う自分を観ればいい。

ゴータマ・ブッダの教えの「真髄」は「苦」の消滅である。それ以上でもそれ以下でもない教えだ。人生を生きていれば「苦しむ」からこそ、「苦しみ」を取り除き、「苦しみ」がそもそも生起しないようにする。この基本軸が理解できていなければ、仏教は難しい。「苦しみ」がないならもうそれは「悟り」なのだが、そう言えるほど、仏教実践者には自信がなかったり、「傲慢だ」と非難されることを恐れる。いつまでも「悟り」を目指す過程にいれば、「まだまだ修行中です」と言い訳ができる。しかし本当は、さっさと「悟り」を開いて、残りの人生を生きるほうが楽しい。「悟り」を開けば、「苦しむ」ことが不可能になるからだ。ゴータマ・ブッダの教えを理解し体得するのは一般的には難しいと言える。理解と体得の難しさは、ゴータマ・ブッダ自身が経典を書いたわけではないところも大きい。だから、スッタニパータやダンマパダを読んだだけでは、とても「悟り」の境地に達することはできない。加えて、「悟り」を開くためには文献の勉強や僧侶の話を聞くだけでなく、「実践」が大事だ。論理的に考えるだけでは不十分で、会得・体得すべき「気づき」の実践が必須となる。「思考」を乗り越えねばならない。実践は瞑想であり、マインドフルネスと言ってもよい。瞑想は座って行う瞑想にこだわる必要はなく、立つ瞑想や歩く瞑想もある。生きていること自体が「瞑想的」になるのがよい。

現代人を「悟り」から遠ざけている大きな要因は「世のため人のため」の発想だろう。先にも言ったが、ゴータマ・ブッダの教えの「真髄」は「苦」の消滅だ。簡単に言えば、あなたや私が「苦しまなければ」それでいい。「苦」からの解放の教えなのだ。「苦」から解放された結果、人助けをするかしないかは自由だ。勘違いしてはならないのは、人助けをするために「苦」から自分を解放するわけではないということだ。あまりにも社会に順応しすぎている現代人は「人のために」何かをしなければと思いすぎていて、それが現代人を無明に引き止めている。「悟り」を開いて、「苦」を滅したあと、どうやって生きていけばいいかは、ゴータマ・ブッダからしてみれば「勝手に考えろ」ということだと思う。ゴータマ・ブッダはそもそも、覚った後、この教えを誰かに話すか話さないかと考えた。「苦」から解放される道があるけど、どう考えても普通の人間には理解できない境地だ。でも、「苦」からの解放の教えを理解して、「苦しまなくて」すむ人も少なからずいるだろうから、教えようということになった。どうだろう、この部分のどこに「人間は人のために何かをして生きよ」などという意味を含んでいるだろうか。誤解を与えたくはない、人のために何かをすることは「苦しみ」を生みにくく、心が充実することなので、「良い」ことだ。しかし、人や自分のために何かをしなければならないと思い、あなたが「苦しむ」なら、それはなしなのである。それほどまでに、ゴータマ・ブッダの教えは「苦しまない」ことに関して徹底している。

一般的に思われているかどうかすらも分からないが、「悟り」を開いたから立派な人間なわけでも、品行方正な人間なわけでも、素晴らしい人間なわけでもない。ただ単純に「苦」を滅した人だというだけである。「悟り」を開いた人が現代社会に貢献するかどうかはわからない。完全にその人しだいであり、「悟った」人に過度に何かを期待しても意味はない。

「苦しむ」ことが不可能になってしまった境地に達したら「悟り」であり、私は到達することができた。ミャンマーに行き瞑想する必要もなく、これから文献をあさりにあさることもない。瞑想は続けるだろうが、「瞑想をしなければならない」などと思うことはない。何かを「しなければならない」と思う義務感は、心の余裕をなくし、「苦」を生むからだ。

ゴータマ・ブッダの教えという「筏(いかだ)」は、私にはもう必要がなくなった。

激流を渡り終えた私は、「彼岸」へ到達した。私の人生は続く。

ゴータマ・ブッダと、ゴータマ・ブッダの教えをさまざまなかたちで伝えてきた数えきれないほどの先人たち、現代人に感謝する。

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