【孤独感を感じる人へ】孤独感をなくす。辛い時期の乗り越え方

新潮文庫のヘッセの本の中でも、最寄りの本屋に在庫がなかったのが『荒野のおおかみ』だった。本屋の店員さんにたずねてみても在庫はないようで、ウェブで注文しようかなと思いながら何日か経っていった。

ある日またその本屋に寄ると、荒野の狼がなんと2冊も置いてあり、そのうちの1冊を買った。その本屋は客に聞かれた本は売れると考え入荷するのだろうか、とても嬉しかった。見つけた時には、「この本屋で買ってあげなければ」という気持ちになった。

荒野のおおかみは、そのタイトルからしてヘッセ小説の中では最も興味をそそられた。荒野のおおかみとあるだけで、孤独な狼なのかなとか、過酷な環境で生きる狼なのかなとか、あるいはなんらかの比喩なのかなと想像が膨らむ。概要を読めば、ある種の人間はそれを自分自身ではないかと思うものがあるだろう。そして私もそんな一人だ。

ヘッセの小説を読む時は、自分を客観的に見てみたいという気持ちや、自分のような人間がどのように感じ生きているのか、仲間を探す、自分自身を求めるような気持ちになる。自分の感情や思いを自分だけでは消化吸収できない時に、ヘッセのような偉大な先人たちが手助けしてくれる。

荒野のおおかみは「編集者の序文」「ハリー・ハラーの手記」「荒野のおおかみについての論文」「ハリー・ハラーの手記、続き」という四つに分かれる。

「編集者の序文」から読み始めるので、とっつきとしてはあまりよくないというか、「よくわからない感じで始まるなあ」というのが第一印象だった。この「編集者の序文」というのが果たして荒野のおおかみの一部かどうかということも半信半疑で、「ヘッセではなくこの本そのものの編集者が書いた部分なのかな」などと思ったものだ。

かまわず読み進めると、ハリー・ハラーの手記になり、いよいよ本編という感じとなる。ここまでくると「編集者の序文」の意味が分かり、そして荒野のおおかみを読み終えるとさらに深く理解できる。ただ、私の場合はヘッセが伝えたいメッセージや思いや悟りを小説から感じたいと思っているタイプなので、物語としての凝り方はどうでもいいと思ってしまっていた。しかし、この構成は大事だった。

例を出すと、エッカーマンの『ゲーテとの対話』という本では、晩年のゲーテとの対話がまとめられている。ゲーテ自身が著作や詩で残したものももちろん大切だが、『ゲーテとの対話』ではゲーテがエッカーマンの質問に答えたり語ったりするのがとても学びになる。それと同じで、「編集者の序文」という構成はハリー・ハラーを多角的に見る上で必須なものと言える。

「編集者の序文」で、印象的な言葉がある。

ただの一秒間のあいだに、人間生活全体の品位と意義にたいする、思索者の、おそらくは透察者の疑惑を残らず雄弁に言いあらわしていました。このまなざしは「見たまえ、われわれはこういうさるなのだ! 見たまえ、人間はこうしたものだ!」と言っていました。すると、精神の名声とか賢さとか成果とか、人間性の中にある崇高さ偉大さ永続への努力は、ことごとく崩壊して、さるまねになってしまいました。

編集者とハリー・ハラーがヨーロッパ的名声のある人の講演を聞きにいった時の言葉だ。この言葉の後、編集者は「根本的にはもう本質的なことをハラーについて言ってしまいました」と言っている。

人間らしい高度なことをやっているように見えて、それこそがさるまねだと言っているのが興味深い。

人間としての精神や賢さこそ意義があると思いこんでいる人間、他の動物にはできない価値ある深い思索をしていると思いこんでいる人間、に対しての悲しさとも言える。これは、人間のしてきたことや仕事そのものにではなく、自分の行為に対して一定の距離を置くことができない人間に対するものだ。この宇宙、この世界、この世には本質的に価値あるものなどないのに、まるでそこにはじめから価値がある、あるいは絶対的価値あるものにしているなどといった傲慢さが見て取れるのだ。本質的に内在する価値があるという誤解の中で、いっぱいいっぱいになっている人間を、ハリー・ハラーは客観視している。

他にも、印象的な言葉がある。

人は苦痛を誇るべきであろう。 すべて苦痛はわれわれの位階の高さを想起させるものである

位階とは、功績のある者や在官者などに与えられる栄典の一種、という意味だ。

苦痛は年齢や自己の成長とともに種類が変わる。10年前、あるいは20年前に悩んでいたものを、あなたは今も苦しんでいるだろうか。ある苦痛はいつの間にか乗り越えられていて、今は次の段階の苦痛を私たちは苦しんでいる。どんな苦痛を苦しんでいるかで、自分の「位階」がわかるということだ。それゆえに、苦痛をただ苦痛として捉えるのではなく、これからのステップアップとも捉えることができる。

「大多数の人間は、泳げるようにならないうちは、泳ごうとしない」言い得て妙じゃありませんか。もちろん大多数の人間は泳ごうとしません!地面に生れついて、水に生れついてはいません。それからもちろん彼らは考えることを欲しません。生活するようにつくられていて、考えるようにつくられていません!そうです、考える人、考えることを主要事とする人は、その点では大いに成果をあげるでしょうが、まさしく地面を水と取りかえたものであって、いつかはおぼれるでしょう

ユニークな言葉だ。この言葉だけでもこの本を買う価値があったと言っても過言ではない。つい笑ってしまうが、この通りだなと感じる。人間は確かに魚ではないので、水の中で生活はしない。しかし、泳ぎの練習をすれば水の中を泳ぐことができるようになる。では、ずっと水の中で泳ぎながら生きていけるかというと、いつかはおぼれて死んでしまう。

それを引き合いに出して、人間の「考える」性質と「生活する」性質について述べている。人間は考えることはできるが、考えの中にずっといるとおぼれてしまうということを、ハリー・ハラーは言っている。人間は泳ぎの練習をすれば泳ぎに秀でることができるように、考えることに関してもそれを主要事とすれば秀でることができる。しかし、どんなに深く考えられるようになっても、考えの中だけで生活はできない。普通の人が1キロ先も考えられない中で40キロ先のことを考えられたとしても、じゃあ10000キロ先は考えられるかというと、おぼれてしまう。これは泳ぐことや考えることを否定しているのではなく、人間は基本、地面で生活するということを覚えておくべきだということだ。

「編集者の序文」が終わると、「ハリー・ハラーの手記」にうつる。これには「狂人のためだけに」という副題がついている。文字通りで、この手記は狂っていない人のためには書かれていない。これを読んで共感したり学びにしたりしようとする人は、逆を言えば狂人なのかもしれない。

ハリー・ハラーの日記が静かに語られている。愚痴に近いものも多い。ハリー・ハラーは、ヘッセが悟った真実を伝えるための、人形だ。ハリー・ハラーがどんな生活をしていたかというのは焦点ではない。すべてはヘッセが伝えたいことの前座か、ハリー・ハラーの行為言動の中に伝えたいことを含ませるかのどちらかだ。

この本のメインディッシュとも言えるのが「荒野のおおかみについての論文」。『シッダールタ』という作品もだが、物語の途中で真実なるものに出会い、その上でどのようにそれを胸に生きていくかという流れ。「だれでもが読むものにあらず」や「狂人だけのために」といった言葉を見ると、ニーチェの「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」の変化型かと想像できる。

荒野のおおかみについての論文の中には面白い言葉がたくさんある。

「おれは、人間がいったいどのくらい辛抱できるか見ることに、好奇心を持っているのだ。耐えられる限界に達したら、おれは戸を開きさえすればいいのだ。それでおれは逃げてしまえるのだ」と感じることができた。

他方、自殺者はみな、自殺への誘惑にたいする戦いにも親しんでいる。自殺はたしかに逃げ道ではあるが、いくらかみじめな不法な非常口にすぎないこと、自分の手で倒れるより、生活そのものに負けて倒されるほうが、結局はより気高く美しいことを、だれでも魂のどこかのすみでよく心得ている。

彼らは、盗癖のある者がその悪徳にたいして戦うように、戦う。

自分が悩み苦しんでいる時、朝眠たすぎるのに仕事へ向かわなくてはならない時、最愛の人と離れ離れになってしまった時など、人はまるで死にたくなるような気持ちになることがある。

しかしそうでなくてもふとした時に、自殺願望を抱く人間はここでいう「自殺者」にあたるだろう。どんなに苦しくても、死んだら楽になれるよなと思い慰めにしてしまう。いつでも自分で自分のケリをつけることができるのだという安心感。しかしそう簡単に取れる手段ではなく、あくまで「いくらかみじめな不法な非常口」。自殺願望に襲われるたびに、その願望と「戦う」ように義務付けられている自殺者。

市民はなるほど神に仕えようと欲するが、陶酔にも仕えようとする。

ほどよい健康な地帯で暮そうと試みる。それはできないことはないが、そのかわり、絶対的なものと極端なものに向けられた生活が与えるような生活と感情との強烈さを犠牲にしなければならない。市民は何よりも我を(もっとも、発育不全な我を)大切にする。

市民はそれゆえその本性上、生活衝動の弱い生きもので、およそ自分自身を犠牲にすることを恐れてびくびくしており、御しやすいものである。

「市民」に対する痛烈な批判とも呼べる描写がある。二極のどちらかに触れることもなく、自分をなんとか守ろうとする市民。「ほどよい中間」のおかげで市民は「陶酔にも禁欲にも」導かれず、「弱い臆病な人間」となっているだけである。荒野のおおかみたちがいるおかげで、市民階級は生きているとこの論文には書いてある。このあたりはまさにごもっともと言える「一般庶民」の性質で、庶民からしてみれば「それの何が悪い!」と反論されてしまう内容だろう。だからこそこの論文は「誰もが」読むものではない。

「荒野のおおかみ」という言葉に対する種明かしのような文章がある。

手っ取り早く言えば、「荒野のおおかみ」は一つの虚構である。ハリーが自分自身をおおかみ人間と感じ、二つの敵対し対立するものから成立すると考えるのは、単純化する神話にすぎない

この言葉を皮切りに、『荒野のおおかみ』という作品の中でも最も大事な概念だと思われるものに触れていくことになる。

ハリーは二つの本質からではなく、百、千の本質から成り立っている。彼の生活は(すべての人の生活のように)、本能と精神とか、聖者と放蕩者とかいうような二つの極のあいだだけではなく、数千の、無数の極の組合わせのあいだを、振り子のように揺れているのである。

人間は高度に思索することはできない。最も精神的で教養のある人でも、たえずきわめて素朴な単純化するごまかしの法式のめがねで、世界と自分自身を、 特に自分自身を見ている

各人が自我を一つの統一と考えることは、どうやらすべての人間の生れつきの、まったく否応ない要求

この錯覚はどんなにたびたび、どんなにひどく揺すぶられることがあろうと、いつもまたもとどおりになおってしまう。

ハリーは自分の中におおかみ的な部分と人間的な部分を認め、理解しようとするが、それは単純すぎる二分化だという。それによって得られる理解は「錯覚」で、本当に理解したことにはならない。

確かに人は、「自分とは一つの統一された何かである」と思うのが自然だと思う。自分は自分であって、一つだと思いたい。しかし、人はいつもこの「錯覚」のために苦しんでいるのではないだろうか。

たとえば、「勉強を頑張っている自分」「仕事に生きがいを感じている自分」「家族を愛している自分」などがただ一つの形として、そういう像だけを自分に押し付けてはいないだろうか。時には勉強をがんばれないかもしれないし、仕事の失敗で落胆するかもしれないし、家族と上手くコミュニケーションがとれずギクシャクするかもしれない。その結果、自分はこんなはずではないのに!と、自分の中の自分像と現実が食い違い、悩む。

しかし、もともと人間はたったひとつの何かで解釈できるものではなく、多元的な存在だ。自分の中には無数の自分がいると言ってもいい。

だからある人間が、一元的だと思いこんでいた我を二元性にひろげるところまで進んだとすれば、彼はすでにほとんど天才である

胸やからだはいつだって一つだが、その中に宿っている魂は二つ、あるいは五つではなく、無数である。人間は百もの皮からできた玉ねぎである。

百種、千種の木や花や果実や雑草にみちた庭を思いうかべてみるがよい。この庭の園丁が「食用」と「雑草」という植物学上の区別しか知らないとしたら、彼は自分の庭の十分の九を処理する道を知らないだろう。

もしいきなり「人間は玉ねぎである」と言われても意味不明だと思うが、ここまでくればこの意味がわかるだろう。

人間ひとりに宿る魂は無数で、それらが織り成して人間は成立している。

たとえば、自分や他人に対して「真面目な人」「明るい人」「暗い人」と断定的に判断できるものではない。ある一面が見えやすくなっているにすぎない。

つまり、1人の人間にはすべてがある。自分がとある人のことを気に入らないと思っていても、それは自分の中にある自分の嫌だと思う性質を見ていると考えることもできる。

人間がどのようなものであるかについて、さらに論文では、

人間はむしろ一つの試み、過渡状態である。

精神に向って、神へと、最も内面的な使命は人間を駆りたてる

自然に向って、母へと、最も深いあこがれは人間を駆りたてる

目を閉じて、自我への絶望的執着、死にたくないという絶望的意志は、永遠の死への最も確実な道であることを、これに反し、死にうること、脱皮すること、変化に向って自我を永遠にささげることが、不滅に通じる

人間という存在は、自然の中の「過渡状態」としての一部である。この世界のひとつの現象として自分がいる。生きることも死ぬことも、自然に委ねてしまえば、永遠性がある

死ぬことを恐れ生にしがみつくなら「死んで」しまう、というのは皮肉なことだ。生きては死に、死んでは生きてを繰り返す流れの中に私たちはいる。自分が死んだとしてもまた生まれる。人生に対して固執しすぎる必要はない。

今の人生をおろそかにしてもいい、という意味ではない。この人生を純粋に謳歌して良いのである。

人生が終わっても、すべてが終わりなのではない。ヘッセの言う「母」がまた私たちを抱きとってくれる。こう言うと、少し宗教的な感じがして拒否反応を起こす人もいるかもしれない。だが、これは宗教の話ではない。また、「母」「永遠」などの言葉に一喜一憂すべきではない。

言葉にすれば、一面を捉えることしかできない。

理解するには、感じることだ。

あとに引き返す道はまったくない。おおかみに帰る道も、子どもに帰る道もない。物のはじめに純真さと単純さがあるわけではない。

純真へ、創造されぬものへ、神への道はうしろにではなく、前に通じている。

自殺してみても、哀れな荒野のおおかみよ、真剣には役にたたないだろう。君はきっと人間となる、もっと長い、もっと骨のおれる、もっと困難な道をたどることだろう。

誕生はすべて全体からの分離、限定、神からの離脱、苦悩にみちた新生を意味する。全体への復帰、苦悩にみちた個体化の止揚、神になることは、すなわち、全体をふたたび包括しうるほどに魂をひろげたことを意味する

自分の子ども時代を懐かしく振り返り、それがまるで完璧な状態だったかのように回想するのは、ひとつの勘違いだと言えよう。子どもの時には子どもの時なりの悩みがあり、また未熟ゆえに苦しみを客観的に見つめることもできず、苦痛を苦痛せねばならない

どんなものでもはじめを神聖視することはよくあることだが、はじめははじめなりで不十分だ。後ろを振り返ってみたところで、そこに何か特別なものがあるわけではない。

たとえすべてを嘆き自殺を選んだとしても、人間存在そのものを自殺により消し去ることはできない。確かに自分が死んだ後、世界は存在するのかという哲学的な問題はあるかもしれない。

だが、これまでも無限の生命が生まれ死んでいっている事実を無視するというわけにもいくまい。死んだとしても、また気がついたときには人間に生まれている。自己を世界において認識できる生物として生まれたなら、それはたとえ人間でなかったとしても同じことだ。

何度も我々は「人間」として生まれ変わり、今自殺を選んだとしても再び苦悩を味わうことになるだろう。何度となく永遠に繰り返される生を否定する自殺は、無駄な抵抗にしかならない

私たちひとりひとり、生き物一匹一匹は、それぞれ具体的だ。永遠、無数の命の流れから具体的に誕生し、生きて死ぬ。具体的に存在する我々は、大きな生命の流れから「分離」して存在していると想像できる。たとえ死んだとしても、大きな流れの中に帰っていくだけだから、今のこの生に固執し苦しまなくてもいい。

有り体に言えば、すべてはなるようになっていくのだから、気楽にやってればいいのだ。

仏陀を解することのできる人間、人間性の中の天国と深淵とをほのかに感じる人間は、常識や民主主義や市民的共用の支配する世界に生きるべきではないだろう。卑怯なばかりにそこに生きているのである。

真実、本質を理解していても、それを完全に自分のものとして生きていくのは難しい。

「卑怯」であるからこそ一般人の中に紛れ込み、そこから全く外れてしまうことを恐れる。

しかし、思い切って真実に生きればよい。逃げ道など確保せず、喜び勇んで自分を失ってかまわない。

自分という枠にとらわれず、心と魂を世界に開き、自己犠牲だと思うほどの自己もなく世界と溶け合うのだ。