『悟りを開く前の男の煩悶』

男は一人、部屋の中で考えている。

「快楽を求める動きはすべて間違っている。不快はわかりやすいが、快楽もまた苦しみを生むからである。

快楽を求めるのではなく、必要なものを最低限満たす。そこに快楽は存在しない。

なぜこれほどまでに快楽とは魅力的なのであろうか。しかし、今までの快楽は、自分に何をしてくれたと言うのだろう。結局今思い悩むのは、快楽を求めてそれを受ける生き方が間違っていたからではなかろうか。迷いがなくなれば、仏教を学ぶことも終わる。

快も不快もない状態、安穏こそ最上であるという確信に至るのは、難しい。本当にそれを理解しているとするなら、快を追いかけることなく、不快に苛まれることもないからだ。心の底からは、釈迦の教えの真髄を理解できていないのが現状だ。快楽に未練があり、快楽が良いものだと思っている。

現代の「つとめ励む」とは、仕事することである。快楽にも不快にも左右されず、仕事に邁進したとしたら、多くの財産を得ることになるだろう。しかしこの財産は、自分の快楽を満たすためではなく、自分の「つとめ励み」に活きるよう使えばいい。そうすれば快楽に溺れる必要がない。「善」にお金を使えばいい。

女性に対する欲も捨てなければならない。最強の関門と呼べるかもしれない。性欲に突き動かされて、今までどれだけの人間たちが間違った道を歩んだことだろう。身体の不浄を知っていても、体得するのが難しい。
そしてなにより、成功しても女性を求めてはならないのなら、何のために成功するのかと思うほどに、女性は魅力を放っている。禁欲している人間が、絶世の美女と添い遂げるチャンスがあったとして、どれだけ心動かさずに退けることができるだろう。

人生では心の安穏が最上位である、と思っていないからこそ、苦しみを伴う最上の快楽への憧れが生まれる。俺は快楽を楽しむのではなく、快楽の向こう側の苦しみを苦しみたいのか?快楽が苦しみなら、苦しむことは快楽なのか?
快楽が苦しみしか生まず、苦しみも快楽もいらないと心底思うのは、たくさんの快楽と苦しみを味わってこそなのだろうか。でもそれは、まるで大金持ちになった人が「お金はもういらないや」と言っているのと違いがあるのか?

新しい生き方を求めているからこそ、仏教を学んでいるということは確かだ。今までの生き方ではダメだと思うから、違う生き方を模索している。

答えがわかっているのに、解法を見出だせない。

これが仏教なのか。」

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