11月も終わりに近づき、朝晩の気温が低くなった。朝5時は暗く、道路では車のヘッドライトが眩しい。一歩、また一歩と進むと、「寒いな」とふと思う。「寒いという感覚」と言ってしまうと、外が寒ければ同時に「寒い」と感じるような言い方だ。
外が寒くても、「寒いという感覚」を持たずに歩くことはできる。たとえば、どんなに凍えるような日であったとしても、一緒に歩いていた友人が突然苦しんで倒れるなら、「寒いという感覚」は吹き飛んでいるだろう。これは大げさな例だが、人間の集中力は恐るべきものだ。冬の寒さを感じないほどの集中力を持って、普段生きているわけではないと認識できるだろう。
「寒い」と思った時、「自分は寒いと思っているんだな」と観察できる。寒いと思いながらも他を同時進行で考えることもできる。いずれにせよ「考えて」いるわけだが、思考そのものを手放せれば、まったく違う世界を生きるようになる。「思考」と「解釈」によって構築された世界を、大半の人は歩んでいる。
「思考」と「認識」を利用せず、世界を「観る」ということは、矛盾をはらんでいる。だが、あらゆる「思考」や「解釈」を手放して、朝6時台の薄い水色の空が目に入ってきた時、なんて美しいんだろうと感嘆する。確かに「認識」の範疇にはある。でも、自主的な「認識」を手放した後の、世界から降ってくる「認識」は、日常的な「認識」とは違う。
雀が飛んでいる。仕事のために、スーツ姿の人たちが足早に駅へ向かう。「寒さ」から逃れたいと思考する自分を観察し、「寒さ」の感覚が生じたことに感謝する。「寒さ」の感覚を観察し、それをそっと手放せば、自分という肉体が無造作にこの世界に置かれる。