なまけ者になるのは難しい。仕事を休みたい、学校を休みたい、できればずっと家にいたいと考えていても、実際にそうできる人間はほとんどいない。
世の中には、一生を過ごすには十分すぎるお金を持っているお金持ちがいるが、えてして怠けていない。彼らは飽き足りず蓄財に励んでいる。蓄財している気がなくても、人間たちの中にいなければ寂しくて己の価値を実感できないから、性懲りも無く世間に出て行きチヤホヤを求める。お金に困っている人、あるいはなまけたい人がいるにも関わらず、お構いなしだ。お金をあげる気などさらさらなく、その割に「欲しいものなんてない。お金が余っている」などと言う。恥ずかしくないのだろうか。しかし、彼らを責めてはならない。なぜならお金持ちだって、己の人生の満足のためにしか生きていないのだから。
どうすればなまけることができるのか。そもそも、貯金もない、誰かからもらったお金や遺産もない一般人労働者がなまけ者になれるのか。お金がない人ほど、労働と節約とささやかな娯楽を求め、忙しく生きている。自分はなまけ者だと思っている人でも、就業しているならなまけ者ではないと私は思う。なまけ者は、やはり働くことすら億劫であろうから。ではニートはなまけ者だろうか。それも違う気がする。ニートはなまけているからニートなのではなく、ニートにならざるを得ない境遇にあるから、やむを得ずニートでいる人が大半だ。積極的ニートでいられる精神的高潔さを持ち合わせるには才能がいる。親が死んだらどうしようか、死んだら困るけど今はどうしようもない。そんな実力なき不安をなんとか見ないようにしているのが現実である。なまけ者というのは、不安とは無関係であるように思う。
やはり「なまけ者」は、実態なき言葉なのだろうか。