愛は行動、愛情は表現

愛は行動である。「愛している」と伝えることは、愛情表現であり、愛の具現化ではない。

愛は、時間•手間•お金によって成り立っている。相手に対して時間を割けるか、どれだけのことをしてあげるか、いくらお金をかけるか。現実的に、愛はお金で実行するのが大人である。しかし、使った額が多ければ多いほどいいわけではない。相手の人生を考えて、適切なタイミングで適切な金額を支援せねばならない。お金ではなく物やサービスになる場合も多い。プレゼントや、知識の教授などである。

お金がなくとも、時間や手間によって愛することもできる。たとえば家事などは、時間も手間もかかるが、暮らしに大きな役割を果たしている。相手の愚痴を聞いてあげることは、ふんふんとうなづいてあげていたらいいだけだ。

お金がないことは、愛なる行動ができない理由にはならない。時間と手間(体力)をかければ、相手にしてあげられることは意外に見つかるものだ。手紙を書いて渡すなども、昔から好まれる愛である。言葉だけでなく、手紙という物体が残ることで、愛のかたちが定まる。お金に頼らない献身的行動は、お金より愛を語る。

「愛している」と伝える行為は、愛情表現である。愛情表現は愛と同様に大切だ。しかし、言葉だけでは愛にならない。愛と愛情表現は違うものであると認識することが大切だ。

例を出すと、無口な父親が家族に一度も「好き」や「愛している」を口にしたことがないとする。しかし、懸命に働いて一家を営み、妻や子どもたちを見守っているとしたら、それは立派な愛である。ただ、この父親は愛情表現に乏しいと言われても仕方がないかもしれない。覚えておくべきなのは、愛情表現をしないからといって、愛がないとは限らないことだ。

愛情表現が豊かで、かつ本当に愛してくれるような人間を、あなたは求めるだろうか。私は、そんな贅沢を望みはしない。愛情表現と愛のどちらが大切かと言われれば、愛であるからだ。愛なき愛情表現は、言うまでもなく空っぽである。愛情表現が持つ価値は、愛という土台に支えられている。

愛は難しい。愛情表現が簡単だとは言わない。だが、人間を愛せる人に比べたら、愛情表現に長けているだけの人は、白身も黄身もない卵ではないだろうか。だからこそ、愛情表現は下手だが、愛がある人がいるなら、そんな人こそ大事にしたいと思うのである。