マンションの廊下に、暴れている蝉がいた。夏真っ盛りの8月、地に落ちた蝉の最後の足掻きを目にすることが増える。死んでいると思った蝉が突然動き出し、羽音を大きくする。こちらとしてはビックリするし、正直愉快なものではない。生きているときには現れないのに、なぜ死ぬ間際になって目の前にいるのだろう。急に「ビリリリリ」と音を立てて動いたかと思うと、また死んだように静止している。しかし、死んでいない。
蝉が生きているとき、私にとって蝉の存在は音である。蝉取りをする子どもは生きている蝉と対峙するのかもしれないが、私は普段蝉の肉体を見ることがない。よって、ありふれた表現を使うなら「みーんみーん」と聞こえてくる音こそ蝉である。蝉がマンションの廊下に横たわっている時、急に蝉の存在が私に衝突する。どこかで「みーんみーん」をしていた蝉が、私の目には触れず耳に触れていた蝉が、耳を離れ目に触れてくるのである。
廊下で静止している蝉のそばを通る時、緊張感が走る。動き出さないでほしい。害を与えれることはないとわかっていても、なんだか気持ち悪い。急に動くものだとわかっていてもビックリするのが不思議だが、やはり嫌なものは嫌なのである。
蝉は、夏の通奏低音であってほしい。それは、私の耳に届いていても、概念に過ぎず、私を安心させる。死にかけの蝉は、通奏低音が概念ではなく命であったことを伝えてくる。
ある一匹の蝉のグロテスクな羽音。
それを聴いた最後の一人に、なりたくないのである。