田口翔被告とヒカルのニュースを見て

罪が罪でないならば、罪を恐れ自制してきた現代人は、自らに刷り込まれた罪の意識の存在意義がわからなくなる。罪には報いがあると国民の大多数が思ってこそ、国家による統治が可能であり、罪をショー化するYouTuberは国家存立の基盤を脅かす存在になりうるかもしれない。

目立てばお金になる現代では、何かをなして話題をかっさらいたいところだが、罪を犯しても民衆の継続的支持は得られない。では、悪目立ちした犯罪者を利用するのは、罪であろうか?罪ではない。ヒカルは犯罪者が作り出した世間の虚構に便乗できる一方で、犯罪者は意図せず作り上げてしまった砂上の楼閣を無駄にすることなく、大衆社会のお金へ還元できた。大衆が忘れないうちに、話題の犯罪が「ただの犯罪」に堕してしまわないうちに、延命して現金化する錬金術は、いくら現代で可能になったとはいえ実行できるかと言われると、特定の人物しかなし得ないであろう。
勇気や果敢とも違う一連のヒカルの行動は、週刊誌に近い。崇高な信念や人間社会への哲学が感じられないがために、そこには何もないかのように思われるが、一個人が社会でどう生きようと勝手であることから、好きなようにやればいい。
個人的には今回のヒカルの登場は面白かったし、犯罪とは何なのか、国家とは何なのかを考える気慰みとなった。感謝しよう。

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