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感想 | アルティメットフィルター https://poeness.com 趣味、読書、仕事、世の中、人生、なんでも Fri, 13 Jan 2023 08:43:14 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.9.26 「竜とそばかすの姫」を観たから感想 https://poeness.com/post-1022/ https://poeness.com/post-1022/#respond Sun, 22 Aug 2021 11:12:06 +0000 https://poeness.com/?p=1022 面白くはなかった。映像は綺麗だった。物語としては薄っぺらく、だからといってディズニーほどのまとまりもない。竜に感情移入できるほど竜には人生的背景が乏しく、主人公の行動に共感を覚えることは難しい。主人公の母は、目の前で困っている子がいて、それを助けた。しかし主人公の状況はそれとは違う。そこを重ねようとするのは無理があり、物語を練る人間の底の浅さであろうか。

竜はなぜ竜として多くの人から睨まれる行為を繰り返していたのかはもう少し深堀りしてほしかった。アンベイルされるためではないし、自分を注目してもらいたいためでもないだろう。そもそも自宅でインターネット環境があり、暴力親父の管理はガバガバ。Uで騒ぐ意味があまり感じられず、物語として性急でつまらない。
話が面白い映画ではなく、絵や色使いを楽しむ映画。歌も悪いわけではないから、安いミュージカルだったと思えば、良いかもしれない。
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【買ってみた感想です】【世界遺産 真言宗総本山 東寺 正式監修】帝釈天(たいしゃくてん)【空海 立体曼荼羅 NO.4/15】 https://poeness.com/taishakuten/ https://poeness.com/taishakuten/#respond Sat, 10 Nov 2018 13:54:56 +0000 https://poeness.com/?p=481 帝釈天の仏像が欲しいと思い、アマゾンで購入しました。

商品名は、【世界遺産 真言宗総本山 東寺 正式監修】帝釈天(たいしゃくてん)【空海 立体曼荼羅 NO.4/15】です。

詳細は以下。

アマゾンで注文すると、いつもながら大きめのダンボールで届きました。

ダンボールをあけると、以下のように箱が入っています。
東寺 国宝 帝釈天」という文字。

箱の大きさがどれくらいかを直感的に知るため、標準的なハサミを乗せてみました。

箱の中には、以下のような説明書が。
帝釈天の仏像についてや、東寺が監修してます的な文言。

実際に帝釈天の仏像が入っているのは発泡スチロールの中です。
以下のような感じ。

半分あけてみます。
おおおおおおおおーーーーーーーー!帝釈天がいる!当たり前か

かっこいいです。かっこよすぎますね。

実物は、思ったより大きくはありません。ミニ仏像なので、大きさを求めてはいけません。コンパクトであることが利点です。机の上においてもスペースをとりません。それでいて帝釈天に見守ってもらえます。

本当によくできていて、私は買ってよかったと思っています。嬉しいです。

帝釈天は、インド神話に出てくるインドラ神が仏教に取り入れられて、仏教の護法善神となったものです。もともと武勇に優れていて、簡単に言えばめちゃくちゃべらぼうに強いということです。金剛杵(読み方は「こんごうしょ」)という武器を持っていて、雷を操ります。

いろんな逸話を持つインドラ神ですが、つとめ励んだことが認められ、神々の中でも最高の者となります。

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)にも、帝釈天について述べた言葉があります。

マガヴァー(インドラ神)は、つとめはげんだので、神々のなかでの最高の者となった。つとめはげむことを人々はほめたたえる。放逸なることはつねに非難される。
ブッダの真理の言葉 第二章 はげみ より引用

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【感想,書評】アマゾンプライムで『仕事は楽しいかね?』を読んでみた https://poeness.com/shigotohatanoshiikane/ https://poeness.com/shigotohatanoshiikane/#respond Sat, 08 Sep 2018 22:38:37 +0000 https://poeness.com/?p=377 私はアマゾンプライム会員です。

プライム会員だとタダで読める本がけっこうあります。
面白い本もたくさん含まれているので、本が好きなら本目的でもプライム会員になる価値があるかもしれません。

アマゾンプライム会員はサービスが充実しまくっていてすごいですよね。。。

さて、今回読んだのは仕事は楽しいかね? (きこ書房)です。

本の内容を知りたい人は下からどうぞ

あらすじ

お金持ちの老人が仕事・ビジネスについて有り難いお話を聞かせてくれます。
事業に失敗した過去を持ち、今は”そこそこの給料”をもらっている35歳男と、この老人との出会いからはじまります。
対話形式なので、物語の中に入っていきやすく、難しい言葉を使っている箇所もありません。

全体を通してとても読みやすい本で、読む人に何か一つは学びがある素晴らしい本だと思います。

『仕事は楽しいかね?』に出てきた名言

今日の目標は明日のマンネリ

今日の自分と明日の自分は別人です。今日の自分の目標が必ずしも明日の自分にとっても目標になるとは限りません。

昨日に縛られて今日を生きたり、明日のことを思い今日生きるのはやめねばなりません。
今日、今、いったい私たちは何をすればワクワクできるのか、それを実践することが大切です。
人生は「今」の積み重ねなのですから。


明日は今日と違う自分になる

いつも変化していれば、変化を恐れる必要がなくなります。人間はなんにせよ変わっていくものです。自ら「違う自分になっていこう」とすることは、自然に即しています。

今の「状態」にこだわることなく、毎日新しい自分でいたいですね。


人生は進化だ。そして進化の素晴らしいところは、最終的にどこに行き着くか、まったくわからないところなんだ
きみは、最初に陸にあがった魚は長期にわたる目標を持っていたと思うかね?

立派なことを成し遂げた人は、立派なことをしようと思い日々を過ごしてきたわけではないことをよく耳にします。日常の、目の前のことをしっかりやってきたからこそ、偉業は達成されるようです。

人間一人が1日でできることはたかが知れています。ですが、日々できることを精一杯やると、とんでもないところまで前進していたことにいつの日か気づきます。

どんな風になっていくかは予想がつかないけど、今日一日の生き方ならわかるはず。
自分の心の声を聞いて、今日も生きよう。


コンピューターは〈整然としている 〉ってことなんだ 。これはゲイツ自身の言葉だよ 、〈整然としている 〉というのはね 。それから彼は目標はつねにコンピューターに〈違ったやり方で 〉処理させる方法を見つけることだとも明言していた 。この〈違ったやり方で 〉というのも、彼自身の言葉だ。発明家や革新者に話を聞くと必ず、〈異なった 〉という言葉と一緒に、自慢げに人に見せるという考えが出てくる。成功する人たちはね、自分がどこへ向かっているかということはわかってない──ただ、遊び感覚でいろいろやって、成り行きを見守ろうと思っている 。実をいうと、これは僕の大好きな言葉の一つなんだ。〝遊び感覚でいろいろやって、成り行きを見守る〟というのがね

遊びのつもりでやると、楽しくなってくるからいつまでもやれる。
楽しい仕事はなかなか見つからないかもしれないけど、仕事を楽しくやることは誰にでもできることです。

遊び感覚でやることに勝るものはないんですね。楽しもう!


問題はね、きみが理屈っぽいってことだ 。きみの思考は、学生モードのままなんだよ。この課題をすべてやっておきなさい、そうすれば Aがとれますよってね 。きみは、課題のリストをほしがってるだけなんだ

勉強すると褒められる時代は学生までです。大人は勉強しているからといって、褒めてくれることは少なくなります。褒められることを期待して勉強するのはむしろ大人とは言えないでしょう(笑)。

「先生の言うことをきちんと聞いていれば間違いない」かのように、与えられたことをこなすだけの毎日になっている人が、大人の中にいます。というより大半なのではないでしょうか。

成功したいと思っていても、「成功するにはどうすればいいですか?」なんて聞く。成功者からしてみれば、人それぞれなんだから好きにやれって話なのだと思います。いちいち自分が何かするのにもお伺いを立てるばかり、他人の話を聞いているばかりだからダメなんだと。

「遊び感覚で自由にやってみろ、学校と違って大人は自由なんだ」ということではないでしょうか。


だから僕は、たった一つしか目標を持っていない。毎日毎日、違う自分になること。これは 〝試すこと〟を続けなければならないということだ。そして試すこととは、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、試行錯誤を繰り返しながら、それでもどうにかこうにか、手当たり次第に、あれこれやってみるということだ 。頭にたたき込んでおいてほしい。何度となく〝表 〟を出すコインの投げ手は、何度となく投げているのだということを。そして、チャンスの数が十分にあれば、チャンスはきみの友人になるのだということを

きみたちの事業は、試してみた結果失敗に終わったんじゃない。試すこと自体が欠落してたんだ

挑戦してみてダメなことは当然あります。しかし、概して成功しない人というのは、挑戦の数が足りないようです。もっともっと「試しにやってみる」ことを増やして、むしろ失敗の数こそ増やしていこうとする気持ちが大事です。

変化を恐れず、これでもかというほど毎日違う自分になろう。遊び感覚でワクワクしながらいろんなことを試そう。


他人を凌ぎたいと思うなら、まず最初に越えるべき、だけど一番難しいステップは、〝並みの人 〟をやめることだ

私たちのまわりにいる人は99%が普通の人でしょう。普通の常識に縛られて生きています。
でも自分までそうして生きていては、自分も並の人です。
みんなが友達と遊んでいて、家族だんらんをすごしていても、あなたが仕事で成功しようと思うなら仕事をしなくてはならないでしょう。他の人たちが得られるであろう快楽は諦めて、自分が追い求める理想に向かっていかねばなりません。

犠牲なく得られるものはありません。


人は、変化は大嫌いだが、試してみることは大好きなんだ

突然、日常の習慣の中で変えろと言われたら嫌なことが多いです。でも、友達の家に行ってみて「ゲームでもやらない?」と言われたら、「ちょっとやってみようか」となりませんか。ゲームの例を出してみましたが、ゲームでなくてもかまいません。

私たちは「ちょっとやってみよう」が好きなはずなんです。その「ちょっとやってみよう」を、仕事でもプライベートでも実践しましょう。


あの実験で学ぶべきことはね、 「あらゆるものを変えて 、さらにもう一度変えること 」なんだよ

変化して、前よりも悪くなることがあります。「変えなければよかったのにな」と後悔してしまい、諦めるか前のかたちに戻してしまいます。しかし大事なのは、さらに変わり続ける勇気です。何かにとどまっていようとするのではなく、常に変化することが、現実を軽快に生きていく秘訣なのです。


試すことは簡単だが 、変えるのは難しい

きみが”試すこと”に喜びを見い出してくれるといいな

アイデアをいっぱい持つこと。ありとあらゆることをやってみること。明日は今日とは違う自分になること。そして朝を待ち焦がれる、幸せなサムライの一人になってくれ

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【人生とは何か】ゲーテの名言・格言から学ぶ人生の見方、生き方 https://poeness.com/goethe_words/ https://poeness.com/goethe_words/#respond Tue, 10 Jul 2018 02:25:56 +0000 https://poeness.com/?p=58 あなたの人生の助けとなるように願い、ゲーテの言葉を引用しながらこの記事を執筆した。興味を引いた言葉だけを読んでもらってもいいし、どの部分からでも読める。

岩波文庫、エッカーマン著『ゲーテとの対話(上)』より引用している。


人生何事も、成功しようとするなら、最後までやりとおさねばならない

巨匠の域に達するために、じっくり仕事をつづけるだけの忍耐と才能と勇気を心中に感ずることのできる者は、ほとんど一人もいないことはたしかだ

何かをどんなに上手くやっていても、途中で投げ出しては意味がない。本当に苦しくやめてしまいたいと思うことはよくあるが、なんとか踏ん張ってみよう。

 

自分の才能から出てきた物事だとしても、やり通すには我慢や忍耐がいる。成功した人は、他の人達が諦めたようなところでも諦めず、最後までやりとげたのだ。


要するに、君は、散漫にならぬように注意して、力を集中させることだよ。私にしたところで、三十年前にこれだけの賢明さがあったなら、まるっきり別の仕事をやっただろう

君にとってなんの成果にもならぬこと、君にふさわしくないようなことは、すべて放棄したまえ

世の中には誘惑が多すぎる。特に現代ではインターネットやスマートフォンの普及により、無料でも多くの娯楽を享受できる時代になった。

 

だからこそ、現代では何かに集中することが難しくなった。それほどお金をかけなくても楽しいことがすぐに見つかり、手軽なため、すべきことがある場合にも気がそれてしまう。たとえば、現在の職に満足せず、新しい職を得るための勉強をしていても、仕事が終われば動画サイトなどをぼうっと眺めて一日が終わる。いつの間にか本来やりたいことを見失い、今が楽しければそれでいいと(いや、今日を乗り越えるので必死なのかもしれない)、徐々に堕落していく。通勤電車で勉強しようと思っていても、今日だけはいいだろうと自分を甘やかしてしまい、それが日常となってしまう。

誘惑でなくても、現代では職業の自由がある。さまざまな職業があり、自分にあった天職を求める人も多い。やりたい仕事は何なのかわからないまま、しかし今の仕事ではないような気がして、日々を過ごす。やめる自由も続ける自由もあるなかで、今の仕事でいいのかと悩む。

これらの悩みは、これからも人類の悩みであり続けるだろう。無限の選択肢の中で、あっちにいったりこっちにいったりする。

 

ゲーテでさえ、人生の中で力の使い方に悩み、注意散漫となった。さまざまなものに手を出した。しかし、そんなゲーテは振り返る。

 

「もっと若いときにあるひとつのことに集中していれば、もっと多くの成果を残せただろう」と。

 

それゆえに、ゲーテは忠告している、「注意散漫になるな、余計なことはしなくていい、自分にふさわしくないことはするな」と。

あなたの心の声はあなたにしか聞こえない。心の声に耳を傾け実行するのは、あなたにしかできないのだ。

 

いろいろなことに気が向き、惑わされるだろう。仕方ない。みんなそうなのだ。しかし、戻ってきてほしい。

世界には多くの場所、経験、楽しさがある。それらを体験することこそ、人生の醍醐味だと思うかもしれない。

 

だが、世界や人類に貢献するためには、限定されたことに焦点をしぼり、集中して仕事しなければならない。人生の時間は限られていて、今のあなただからこそできる仕事がある。それはきっと心の奥底では気づいている何かなのだ。その何かをつかみ、自分にしかできない仕事ができていると感じるとき、真の幸福は訪れる。


さしあたっては、いつももっぱら小さな対象ばかりを相手にし、その日その日に提供されるものを即座にてきぱきとこなしていけば、君は当然いつでもよい仕事をはたして、毎日が君に喜びをあたえてくれることになるだろうよ。

とにかく差し当たって大物は一切お預けにしておくことだね。君はもう十分に長いあいだ努力を重ねてきたのだから、今は人生の明るいのびのびしたところへさしかかったときなのだ。これを味わうには、小さな題材を扱うのが一番だよ。

人間はなぜ生きて死ぬのかといった哲学的問題、宇宙の成り立ちなど、途方もなく大きな問題ばかり考えてはいないだろうか。

 

それらこそ大事であり他に大事なものなどあるのだろうかと、考えても答えはない問題に取り組み続けてはいないだろうか。

 

おそらく、あなたは十分すぎるほどそういった問題を考え苦しんだ。

 

このへんで、小さな、身近な対象に焦点を向け直そう。そして、大きなことを考える機会を将来の自分に託してみてはどうだろう。

 

将来の自分が答えを出せるかどうかはさて置き、人生の現実的なことを、できることからはじめてみよう。どんな小さなことでもいい。朝起きることや、ご飯をしっかり食べることなど、あなたにできることはあなたが一番わかっているはずだ。大きくなくていい、小さなことをやってみよう。


一般的なものに留まっているかぎりは、誰にでも模倣されてしまうが、特殊なものは、誰もわれわれの模倣をすることができない。なぜかといえば、他の人たちはそれを体験していないからだ

特殊なものは人の共鳴を呼ばないのではないかと心配する必要はない。すべての性格は、どんなに特異なものでも、みな普遍性をもっているし、描かれうるものは、石から人間にいたるまで、すべて普遍性をもっている。なぜなら、万物は回帰するのであって、ただの一度しか存在しないものなんて、この世にはないからだ

重要なのは、小さなものの中に、もっと大きなものを認めるための目と世間知と洞察力を十分持ちあわせていることなのだね。

会社で新しい企画を考えなくてはならないとき、学校で催し物をするときなど、つい今までに上手くいったものから考えたり、人がよく思いつくようなもので安心感を得たりすることがある。他には、自分だけの人生を歩みたいはずなのに、進学するべきか就職するべきかなど、周りを見て左右されることがある。自分で何か作品を作りたいとき、自分でものを書いてみたいときに、あまりにも自分が特殊すぎて自信を持てないこともあるかもしれない。

しかし、自分の欲求や夢、願いなどが特殊であればあるほど、個性的になる。

 

どうせ自分にしかわからないだろうからと、生じた欲求を押し込めてはならない。思い切って表現してみるべきだ。むしろ、誰にも理解されないと思うものほど表に出してみよう。そして、それはどんなものであったとしても、何らかの意味やほかのものとの共通性がある。

 

たとえば、野球選手とサッカー選手では全くスポーツの種類が違うが、一流の人が言う言葉は共通しているなと思ったことはないだろうか。野球やサッカーでなくてもいい。

 

つまり、物事の表面が違っていても、行き着く先は同じである。だから、あなたがどんな特殊なものを極めたとしても、必ず普遍的なものがあるから、安心して打ち込んでみよう。


これが果たして将来の私の全集におさめるだけの値打ちがあるかどうかを、私は知りたいわけなのだ。私自身はこれともうあまりにも距離ができすぎてしまっているので、判断ができないのさ

ゲーテが自分の若い頃の作品のどれを全集に入れようか悩んでいる時、エッカーマンに発した言葉。

 

若い頃の感覚と、年老いた今の感覚との違いを客観的に認識し、自分が判断できないものに関しては、判断できる人に任せている。

私たちも迷ったり悩んだりしたときに、自分だけではどうにも決めることができないことがある。そんなときは、いっそ信頼がおける人に相談してみて、その答えをもとに行動してみてはどうだろうか。


どんなすぐれた人たちでも、大家の才能をもち、この上なしの立派な努力を重ねる人たちこそ、大作で苦労する。私もそれで苦労したし、どんなマイナスを経験したか、よくわかっている

長期スパンの大きな仕事をする、時間も手間もかかる作品を生み出すなど、誰しも大きなものに立ち向かうときがあるだろう。

 

賢明なゲーテでさえ、大作に苦労した。学生であれば、卒業論文などを例に出せるかもしれない。書いたことがないような文章量、内容で、果たして終わりがあるのか、きちんとまとめきることができるのかと、不安になる。完成させないと落ち着かず、完成できなければそれまでの努力も水の泡になってしまう。大作に取り組んでいる間は、その大作に翻弄される。

 

大作で苦労するのは、どんなに能力がある人でも同じなのだ。簡単に大作を生み出せる人はいない。コツコツ積み重ねて努力をし、あせらずに進もう。


現在には現在の権利がある。その日その日に詩人の内部の思想や感情につきあげてくるものは、みな表現されることを求めているし、表現されるべきものだ。

現在のあなたの気持ちや思いを大事にしよう。それは、今だからこそ持っているもので、決して否定されるものではない。

 

確かに10年や20年経ったら今の気持ちなど忘れてどうでもよくなっているかもしれない。

 

しかし、今のあなたを認識してあげることは大切だ。できるなら、日記帳でも携帯のメモでも現在の状況や気持ちを書き留めてみよう。将来振り返った時に、想い出深いものとなるに違いない。


彼らの多くには、軽妙な生きいきした描写の能力が欠けているよ。自分の力以上のことをやろうとばかりしてね。この点で、私は彼らのことを無理をする才能とよびたいのだ。

自分をよく見せようと、人は自分の力以上のものを他人に認めさせたがることがある。向上心は自分の能力や自信を高めることがあるが、背伸びをしすぎてしまうと肩に力が入ってしまう。

 

普段どおりリラックスしてやるほうが結果的によくできることも多いのだ。小難しく考えるのではなく、気持ちを素直に感じて、気張らずにやってよいのである。


私の常として、すべてを静かに胸にしまって、完成されるまで誰にも知らせない

あなたの心の中には、人には言えない夢や希望があるだろう。言いたい気持ち、誰かに理解され応援してもらいたいと思うのは自然なことだ。むしろ現代では有言実行という言葉があるように、宣言することで自分を鼓舞することすら推奨されている。

 

だが、本当に大事な気持ちは自分の中にしまっておこう。他人に言ってしまうと、何もないかもしれないが、あなただけにある気持ちではなくなってしまう。

 

ひそかな夢や希望は、他人に知ってもらう必要がない。自分で持っていれば十分だ。他人に不必要に晒して折られてしまっても、気持ちはもとどおりにならない。

 

人との共有や共感が大事な場面もある一方で、口を開かないでおくということも同じくらい大事である。


つらい思いも忍耐も学んできた

苦労と仕事以外のなにものでもなかったのだよ。七十五年の生涯で、一月でも本当に愉快な気持で過ごした時などなかったと、いっていい

有名人がテレビなどでちやほやされているのを見て羨ましく思うことがあるかもしれない。しかし彼らは人知れないところで人々の想像を超える努力をしている。

 

ゲーテですら、つらい思いや忍耐の日々で、「苦労と仕事以外のなにものでもなかった」と人生を振り返っている。

 

何かを成し遂げた人というのは、何かを犠牲にしていること、遊びほうけながら富や名声を獲得したのでは決してないことを覚えておかなければならない。

 

むろんあなたもそういう人物になりたいと思うなら、多くのことを犠牲にする覚悟が必要だ。


精力を散漫に浪費しないように注意すれば、彼は、相当なものになれるだろう

才能があるだけではどうにもならない。

たとえばあなたにフィギュアスケートをする世界一の才能があったとしても、スケートすらしたことがなく、周辺にスケート場がなければ才能に気づくこともないだろう。

 

自分の中にある才能を運良く見つけられたとしたら、徹底的に磨こう。才能とまで言わなくても、得意だと思うことや、これだったら精神的負担が少なくがんばれるといった物事に取り組もう。

そして最も大事なのは、注意散漫にならず集中することだ。

 

どんなに勉強の才能があっても、勉強時間がほとんどなければ、試験に通ることは難しい。たとえ仕事で多くの収入を得ていても、浪費が激しければ億万長者にはなれない。

 

「相当なもの」になるためには能力だけでなく集中して取り組む環境や心が大事なのだ。


実際、人間には、自分がその中で生れ、そのために生れた状態だけが、ふさわしいのだからね。偉大な目的のために異郷へかりたてられる者以外は、家に留まっているほうがはるかに幸福なのだ

世の中にはさまざまな人がいる。

 

地方から都会に引っ越して一旗あげようという人や、海外に出ていく人、東京生まれ東京育ちで地方に住んだことがない人、田舎で生まれ仕事をして生涯を終える人など、多種多様だ。

 

生き方には、正しさも間違いもない。冒険に出ていきたい人は、心にどうしても嘘がつけなくて、冒険へ出る。冒険に出かけなければならないわけではない。やむを得ない人だけが冒険へ出るのだ。もしあなたにそのような感情がない場合、冒険する必要はない。

 

結局は各々が、自分の心の要求にしたがって行動すればよい。


一方をやれば、他方はおろそかになり、忘れられてしまう。だから、賢明な人というものは、気を散らすような要求は一切しりぞけて、自分を一つの専門に限定し、一つの専門に通暁するわけだよ

同じ仕事にしてみても、さらにその中に何種類かあるのが普通だ。たとえば医者にしても、内科と外科では違うし、耳鼻科と皮膚科では違うだろう。

 

では、歯と耳鼻と皮膚と精神の専門家になろうという医者がいたとして、成功するだろうか。どれかの分野では知識や技術が弱くなってしまう。

確かに興味があることは何もかもしてみたいのは普通で、「挑戦」という言葉を借りるなら肯定されることもあろう。

 

だが、ついには中途半端になってしまう。中途半端が悪いのではない。

 

もしあなたが一つのことをやっていれば、到達できるのが100として、注意散漫になってしまったら50や60になってしまう。もったいないのだ。

 

あなたの100の到達点でなければ救われない人たちがいる。あなたの能力の開花を待っている人たちがいる。だから、やるべき領域を限定し極めることが大切だ。


時代というものは不思議なものだよ。暴君のようなもので、むら気であり、世紀がかわるたびにひとの言動に対して、別人のような顔をしてみせる

かつて江戸時代の日本は鎖国されていて、自由に海外との交流ができなかった。今となってはどうだろう。

 

以前正しいとされていなかったことが今では正しく、かつて正しいとされていたことが正しくなくなっている。

 

昔だと普通だったことが現代では問題になるなど、時代によって人々の意識は変わる。

 

今あなたが批判や非難を受けていたとしても、現代の人々の気まぐれかもしれない。いやおうなく聞こえてくる周りの意見もあろうが、絶対的だと捉える必要はない。あなたはあなたが思う道を歩き、あなた自身が理解していればよいのだ。


世の中の状況というのは、永遠に、あちらへ揺れ、こちらへ揺れ動き、一方が幸せに暮らしているのに、他方は苦しむだろうし、利己主義と嫉みとは、悪霊のようにいつまでも人びとをもてあそぶだろうし、党派の争いも、はてしなくつづくだろう

いちばん合理的なのは、つねに各人が、自分のもって生れた仕事、習いおぼえた仕事にいそしみ、他人が自分のつとめを果すのを妨害しないということだ

たとえばデパートが田舎に進出してきたら、その地域の商店街の人達はお客さんを奪われるかもしれない。一方で、デパートで働きはじめた人たちは家族を養い、幸せに生きていけるかもしれない。

 

状況というのは、「永遠に、あちらへ揺れ、こちらへ揺れ」動くものである。

 

どこかの会社の利己主義はどこかの会社を蝕むだろうし、そうしてみんな生きている。100円の原価のものを1000円で売ることに罪悪感を抱いていては、商売あがったりだ。仲間をつくっては自分たちの利益を追い求め、違う集団と対立する。そんなことを繰り返しているのが世界だ。

 

そういう世界で唯一「合理的」なのは、それぞれの人間が自分の仕事を全うすることだ。

 

他人にしてみても他人なりにつとめがあるわけで、それを邪魔しないようにすることが大切だ。

 

争ったり憎み合ったりするかもしれないが、それはお互いがやりたいようにやった結果生じる仕方ないものだ。やるべきことを自分がやれているのなら良い。

 

利己主義や嫉み、争いまでも否定してしまっては、人間は何もすることができない。衝突を恐れてはならない。やるべきことをやり、相手にもやるべきことをやらせてやる。

 

現代で具体的に言うなら、スポーツマンシップだろう。お互いに敬意を払い全力を尽くし合う。スポーツでなくとも、そのような意識が大事だ。


霊魂不滅を信ずるものは、ひそかに幸福にひたっていればいいので、それを自慢するいわれなどないのだ

森羅万象の中に理性をもちこもうとしても、人間の卑小な立場からでは、全くの徒労に終るだけだ。人間の理性と神の理性とは、まるっきり違ったものだからね

死を考えても、私は泰然自若としていられる。なぜなら、われわれの精神は、絶対に滅びることのない存在であり、永遠から永遠に向かってたえず活動していくものだとかたく確信しているからだ。それは、太陽と似ており、太陽も、地上にいるわれわれの目には、沈んでいくように見えても、実は、けっして沈むことなく、いつも輝きつづけているのだからね

君が生涯の信念としてもてることを教えてあげよう。自然の世界には、われわれが近づきうるものと近づきえないものがあるということだ。これを区別し、十分考慮し、それを尊重することだ。(中略)これがわからない人は、おそらく一生涯、近づきえないものに取りくんで苦労し、結局、真理に近づくこともできないだろうよ。ところが、これを知る賢い人は、近づきうるものだけをよりどころにするだろう。

あなたはいずれ死ぬ。しかし、生き物は生まれては死ぬことを永遠に繰り返しているのであり、「あなた」という生は終わっても、生命の死ではない。

 

ある日生を受けて、ある日死を受ける。生命は生死の繰り返しの中にある。たとえ地球がなくなったとしても宇宙のどこかで、あるいは何兆年でもかけてまた地球のような星と生命が生まれる。

 

あなたはあなたの人生を終えたとしても、完全に終わりではない。すべての生命の連鎖の中にいる。

 

ある国で太陽が昇っている時、ある国では太陽が沈んでいる。太陽は変わらず輝き続けているが、見え方が変わっているだけなのだ。

 

同じように人間の生死も、その姿かたちが変わっているだけで、生命の泉はいつも輝いている。

 

理性では理解できない大いなる存在があると認めたとき、それは他人に言わなくても自分で享受していればよい。

 

人間が誇る科学でも、現象を説明することはできるかもしれないが、根本的になぜそのような現象があるのか説明することはできない。たとえば宇宙がどのようにしてできたか説明できたとしても、なぜ宇宙がそのようにしてできる状況にあったのか説明することはできない。人間に目は2つあるが、なぜ10個や20個でないのかは説明できないように、人間が理解できることは少ない。

 

ただ、想像もつかないようなことがこの世界、宇宙にはあると思うことはできる。わかることとわからないこと、できることとできないことの区別を知るとき、あなたは追求すべきものを知る。そのときに初めて、人間ではどうしようもできないことに対する追求をやめる。それこそが、人間の成熟だ。


この世ですでにれっきとしたものになろうと思い、そのため、毎日毎日努力したり、戦ったり、活動したりしなければならない有能な人間は、来世のことは来世にまかせて、この世で仕事をし、役にたとうとするものだ。その上、不死の思想などというものは、現世の幸福にかけては、最も不運であった人たちのためにあるのだよ

この世で「すでに」れっきとしたものになろうという、この「すでに」という部分が面白い。人間として無限に生命を受けることができるなら、必ずしも今の人生でがんばる必要はないとも言えるかもしれないからだ。

 

しかし、今の自分のこの人生、つまり「この世」でれっきとしたものになろうとするなら、死んだ後のことなど考えないことだ。

 

死なないようにしようという愚かな考え方を持つことは、生命の神秘からかけ離れた考え方である。この世界の不思議さを理解できていないという点であまりにも気の毒と言えよう。言葉を変えれば、人生は死ぬからこそ素晴らしいと言える。

 

死んでも決して終わりではないと思える不思議さこそが、現在の生を謳歌する重要な考え方となるからだ。


純粋の、真に偉大な才能ならば、制作することに至上の幸福を見いだすはずだ

あなたの中にくすぶった才能があるならば、それを表現することが幸福につながる。

 

何か物を作るということだけが「制作」ではない。プロのスポーツ選手なら試合でのパフォーマンスだし、演奏家なら曲の演奏だろう。

 

自分の才能から何かを生み出すということをしていれば、自然に満たされていく。

心の中にしまってある才能はないだろうか。それが余すところなく世に出た時、あなたは満足するだろう。


比較的才能のとぼしい連中というのは、芸術そのものに満足しないものだ。彼らは、制作中も、作品の完成によって手に入れたいと望む利益のことばかり、いつも目の前に思い浮かべている。だが、そんな世俗的な目的や志向をもつようでは、偉大な作品など生れるはずがないさ

たとえば受験勉強にしても、あの学校に受かればみんなが尊敬してくれるなどといった期待を抱いて勉強しても偉大にはなれない。

 

この話で言うなら、勉強そのものに価値を感じ、勉強すること自体から喜びを感じなければならない。

 

仕事にしても、会社や同僚から認められること、得られるお金のことばかり気にしていては、本当に良い方向へは進んでいけない。仕事の内容や意義に集中し取り組むことで、より大きな仕事を果たすことができるようになる。


必要もないというのに、そんなものにかかわりあうことはないよ

馬鹿は馬鹿のするにまかせておこう。馬鹿につける薬はないさ。それに、本当の才能ある人はちゃんと自分の道を見つけるものなのだ

人はただ自分の愛する人からだけ学ぶものだ

本当に他人の心を動かそうと思うなら、決して非難したりしてはいけない。まちがったことなど気にかけず、どこまでも良いことだけを行なうようにすればいい。大事なのは、破壊することでなくて、人間が純粋な喜びを覚えるようなものを建設することだからだ

他人を責めたところで何にもならない。

 

時には他人のことに納得がいかず、怒りを覚えることは、人間として自然なことかもしれない。しかし、非難してもどうにもならない。ただ反感を買うだけで、その人が行為を改めたり反省したりすることはまれだ。それに、人間はみな間違うので、むやみやたらに間違いを指摘しても意味がない。

結局、人は自分で変わろうとしたときにだけ変わっていく。好きな人、信頼している人の言うことを聞く。

あまり細かいことは気にせず、人間が喜びを感じるようなことに集中して取り組もう。


いたるところで、一人ひとりが自分を立派に見せようとしている。どこへいっても、全体のため、仕事のために自分自身のことなど気にならないような誠実な努力家は見あたらない

耳が痛くなるような言葉だ。

 

実力を必要以上に大きく見せたり、自分だけは特別だとアピールしたりすることに必死な人たちがいる。組織のためではなく自分の立場や利益のために動く、あるいは自分がかまってほしいばかりに、他人の邪魔をする人もいる。

 

どのように見られるかなど気にすることはない。

 

できる努力を精一杯続ける人間こそ、素晴らしい。


たいていの人間にとっては学問というものは飯の種になる限りにおいて意味があるのであって、彼らの生きていくのに都合のよいことでさえあれば、誤謬さえも神聖なものになってしまうということだったよ

大学でも、職にありつきやすい学部とありつきにくい学部がある。専門分野が実生活と関わりが薄い場合、飯の種にならないかもしれない。

 

人間は生活に左右されているので、お金になるかならないかはとても重要である。

 

本来学問は人間の生活の次元とは別の領域にあるものだ。しかし、人間はあまりにも「飯の種」に左右されている。その結果、ある事柄が真実であろうがなかろうが、「飯の種」になるなら「むやみやたらに触れなくてよい(触らぬ神に祟りなし)」とされ、そうでなければ意味をなさないことも多いのが現実だ。

学問に限ったことではなく、報道にも言える。大事なことであっても、大衆の関心がないと見てもらえない。質の善し悪し、真実かどうかは別にして、大衆の関心を引けそうなものから報道される。

 

学問を志す者は、飯の種のためだけに学問があるのではないと認識しておかなければならない。先人たちの学問の遺産を受け継ぎ、次の世代へ渡せる遺産となるように、今の自分の才能に合う学問的追求を行うことが大切だ。


たとえば***は、偉大な才能とか世界的な学識を持っているのだから、国民にとって大物になりえたにちがいない。ところが、性格がもろくて弱いために、国民になみなみならぬ影響を及ぼすこともできなければ、自分自身も国民の尊敬を得ることができなかった

レッシングのような男が、われわれには必要なのだ。彼が偉大なのは、その性格や意志の強固さによるもので、それ以外に何がある!あれくらい賢明で、あれくらい教養のある人物なら、他にもたくさんいるが、あれくらいの性格がどこにある!

ゲーテは、性格や意志の強固さがいかに大事かを述べている。

頭が良くて能力があっても、性格や意志がそれに伴っていなければ大成しない。

逆を言えば、秀でた才能はなくて頭が少し悪くても、ひとつのことに向かう性格と意志があるなら、立派になれる。

 

生まれ持った才能は変えられないかもしれない。

しかし、挫けない気持ちを持ってひとつのことに打ち込むことなら、あなたにも可能なことだ。


じつに才たけて知識も豊かな人は大勢いるが、同時に、虚栄心も強い。近視眼的な大衆から才気のある人とほめられたい一心で、恥も外聞もなくしてしまう。彼らにとっては、神聖なものなどまったく存在しないのだ

どんなにあらゆる点で才たけていても、結局それだけでは世のためにもならないし、それだけでは少しも建設的なところもない

才能ある人間はありとあらゆるところにいる。

だが、才能ある多くの人は自分の才能をなんとか認めてもらうために努力しており、努力すべきものに集中して行動できていない。人に認めてもらうこと、あるいはお金のことばかり考えているので、視野もせまくなってしまう。才能の誇示や人からの注目ばかりに気を患っていては、何の成果ももたらさない。

自分がやる仕事は本来、心の奥底から湧き上がってきた「神聖なもの」だ。

その仕事に没頭することこそが、自分と世の中を照らす。


われわれは、いっそう高い格言を、それが世のためになるかぎりにおいてのみ述べるべきだろう。それ以外のものは、自分ひとりの胸中にしまっておけばいい

示唆に富む良い言葉を、人のためにもならないような解釈で述べる必要はない。

 

なにか上手くいっていない人がいた時に、「どうすればよいか」と聞かれたら、その人のことを考えて、良い言葉をかけてあげるべきだ。確かにその人には欠点もあり、過ちもあったかもしれない。しかし、誰しもそうなのだ。

 

余計なことは言わず、ただひたすら人のためになる言葉を出そう。


われわれの行動には、すべて結果がともなうが、利口な正しい行動が、必ずしも好ましい結果をもたらすとはかぎらないし、その逆の行動が必ずしも悪い結果を生むわけでもなく、むしろ、しばしばまるっきり正反対の結果になることさえあるね。(中略)こういうことをよく心得ている世間人は、じつに大胆に、横着に仕事をしているのが目につくよ

勇気だけはふるいおこして、すみやかに決断しなければならない。それはちょうど、海水浴のとき、水を見て尻込みしているようなものだ。ただもうひと思いに飛びこんでしまえばいいのさ。そうすれば、水の方が、われわれの思うままになってくれるよ

大してがんばっていないのに良い結果が出たりする一方で、すごくがんばったのに結果が出なかったりすることがある。

 

他にも、相手が喜ぶと思っていなかったのに喜んでもらえた時などは、不思議な気持ちがするものだ。

 

人生は時に、上手くやったつもりでも怒られるような理不尽なことがある。よくわからないようにできている人生では、肩肘張ってみたところで、だめな時はだめなのだ。

 

だから、一喜一憂しないでいい。怯えることなく、むしろふてぶてしいほどに思い切って歩んでいこう。そうすれば、状況の方からあなたになじんでくれる。


実は一人ひとりが自分を特殊な存在につくりあげなければならないのだ。しかし、一方また、みんなが一緒になれば何ができるかという概念をも得るように努力しなければならない

結局、最も偉大な技術とは、自分を限定し、他から隔離するものをいうのだ

私はまったく多くの時間を浪費しすぎた(中略)自分の本来の専門でもないことにね。(中略)私は、もっと自分の本来の仕事に専念すべきだった

一つの事に徹して、偉大であるということはどういう意味なのか、またそのために何が必要なのか、ということを、いつも今さらのように悟ることになる。

ひとりとして同じ人間はいないのだから、それぞれに個性があって当然である。しかし、その個性を放っておくだけでは、世の中に貢献することは難しい。

 

「その他大勢」という言葉もあるように、いたって特徴が見えてこない人たちのほうが多いかもしれない。

 

それぞれの人間が自分にしかできないことに邁進するなら、すごい世界になるだろう。それこそ理想だ。

 

たしかに世の中には、あまり人がやりたがらない仕事も多くある。しかし、その仕事にはその仕事なりの意義や素晴らしさがある。各々が、意義を感じ生きがいにできるような仕事ができれば良い。

 

自分にしかできない仕事を極め続けることで、「自分を限定し、他から隔離する」技術を手に入れることができる。自分が得意なもの、才能を感じるものの中から、専門分野を決め徹底的に精進する。

 

どんなことをやったとしても、その深淵には普遍性があるのだから、心の声をよく聞き極めればよい。あれやこれやと手を出し悩む必要はない。あなたの能力が開花する未来を待っている人たちが、たくさんいるのだから。


独創性ということがよくいわれるが、それは何を意味しているのだろう!われわれが、生れ落ちるとまもなく、世界はわれわれに影響をあたえはじめ、死ぬまでそれがつづくのだ。いつだってそうだよ。一体われわれ自身のものとよぶことができるようなものが、エネルギーと力と意欲の他にあるだろうか!私が偉大な先輩や同時代人に恩恵を蒙っているものの名を一つひとつあげれば、後に残るものはいくらもあるまい

すべてが現状のままであるかぎり、ほとんど何も期待できないということだ。時代のよいものをすべてすばやく自分のものにして、それによってすべてのものをも凌駕するような偉大な才能が現れなければならないのだ。その手段はすべて目の前にあるし、道は示され、軌道まで敷かれている

私は今パソコンで原稿を書いているが、かつては紙だったし、発表だって紙でしかできなかった。今はウェブで簡単に自分の書いたものを公表できる。パソコンは天才たちが血の滲むような努力をした結果存在しているのであり、自分が原稿を書くからといってパソコンから開発しなければならないとしたら、一生を捧げても足りなくなってしまう。

 

多くの知識も同様で、先人たちが人生を削って貢献してきてくれたからこそ、現代の私たちはそれを享受できる。しかし先人たちは先人たちで、さらにその先人たちのお世話になっている。そうやって人間は望む望むまいにかかわらず、先人の遺産を受け継ぎながら生きている。

では、ありとあらゆる遺産を受け継いでいる我々に、独自なものなどあるのだろうか。

 

ゲーテは、それこそが「エネルギーと力と意欲」だと言っている。

 

つまり、あなたが「こうしたい、ああしたい、ああなりたい」という願望を持ち、行動することこそが独創性だ。

 

当たり前だが、この世にいない先人たちは現世で何かを考えることもすることもできない。記録や知識を残していたとしても、現代を生きることができない。

一方で、あなたは生きることができる。あなたにしかない心がある。さまざまな願いや理想を持ち、行動できる。先人たちの知識や経験を利用し、意欲して生きることは、あなたにしかできないのだ。

 

この記事を読んでくれているあなたが、心の声を聞き、先人たちの知識を十分に活用して、独創的に生きていってくれることを、私は心より願っている。

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【孤独感を感じる人へ】孤独感をなくす。辛い時期の乗り越え方 https://poeness.com/kouyanoookami_hesse/ https://poeness.com/kouyanoookami_hesse/#respond Sat, 07 Jul 2018 12:33:52 +0000 https://poeness.com/?p=24 新潮文庫のヘッセの本の中でも、最寄りの本屋に在庫がなかったのが『荒野のおおかみ』だった。本屋の店員さんにたずねてみても在庫はないようで、ウェブで注文しようかなと思いながら何日か経っていった。

ある日またその本屋に寄ると、荒野の狼がなんと2冊も置いてあり、そのうちの1冊を買った。その本屋は客に聞かれた本は売れると考え入荷するのだろうか、とても嬉しかった。見つけた時には、「この本屋で買ってあげなければ」という気持ちになった。

荒野のおおかみは、そのタイトルからしてヘッセ小説の中では最も興味をそそられた。荒野のおおかみとあるだけで、孤独な狼なのかなとか、過酷な環境で生きる狼なのかなとか、あるいはなんらかの比喩なのかなと想像が膨らむ。概要を読めば、ある種の人間はそれを自分自身ではないかと思うものがあるだろう。そして私もそんな一人だ。

ヘッセの小説を読む時は、自分を客観的に見てみたいという気持ちや、自分のような人間がどのように感じ生きているのか、仲間を探す、自分自身を求めるような気持ちになる。自分の感情や思いを自分だけでは消化吸収できない時に、ヘッセのような偉大な先人たちが手助けしてくれる。

荒野のおおかみは「編集者の序文」「ハリー・ハラーの手記」「荒野のおおかみについての論文」「ハリー・ハラーの手記、続き」という四つに分かれる。

「編集者の序文」から読み始めるので、とっつきとしてはあまりよくないというか、「よくわからない感じで始まるなあ」というのが第一印象だった。この「編集者の序文」というのが果たして荒野のおおかみの一部かどうかということも半信半疑で、「ヘッセではなくこの本そのものの編集者が書いた部分なのかな」などと思ったものだ。

かまわず読み進めると、ハリー・ハラーの手記になり、いよいよ本編という感じとなる。ここまでくると「編集者の序文」の意味が分かり、そして荒野のおおかみを読み終えるとさらに深く理解できる。ただ、私の場合はヘッセが伝えたいメッセージや思いや悟りを小説から感じたいと思っているタイプなので、物語としての凝り方はどうでもいいと思ってしまっていた。しかし、この構成は大事だった。

例を出すと、エッカーマンの『ゲーテとの対話』という本では、晩年のゲーテとの対話がまとめられている。ゲーテ自身が著作や詩で残したものももちろん大切だが、『ゲーテとの対話』ではゲーテがエッカーマンの質問に答えたり語ったりするのがとても学びになる。それと同じで、「編集者の序文」という構成はハリー・ハラーを多角的に見る上で必須なものと言える。

 

「編集者の序文」で、印象的な言葉がある。

ただの一秒間のあいだに、人間生活全体の品位と意義にたいする、思索者の、おそらくは透察者の疑惑を残らず雄弁に言いあらわしていました。このまなざしは「見たまえ、われわれはこういうさるなのだ! 見たまえ、人間はこうしたものだ!」と言っていました。すると、精神の名声とか賢さとか成果とか、人間性の中にある崇高さ偉大さ永続への努力は、ことごとく崩壊して、さるまねになってしまいました。

編集者とハリー・ハラーがヨーロッパ的名声のある人の講演を聞きにいった時の言葉だ。この言葉の後、編集者は「根本的にはもう本質的なことをハラーについて言ってしまいました」と言っている。

人間らしい高度なことをやっているように見えて、それこそがさるまねだと言っているのが興味深い。

人間としての精神や賢さこそ意義があると思いこんでいる人間、他の動物にはできない価値ある深い思索をしていると思いこんでいる人間、に対しての悲しさとも言える。これは、人間のしてきたことや仕事そのものにではなく、自分の行為に対して一定の距離を置くことができない人間に対するものだ。この宇宙、この世界、この世には本質的に価値あるものなどないのに、まるでそこにはじめから価値がある、あるいは絶対的価値あるものにしているなどといった傲慢さが見て取れるのだ。本質的に内在する価値があるという誤解の中で、いっぱいいっぱいになっている人間を、ハリー・ハラーは客観視している。

 

他にも、印象的な言葉がある。

人は苦痛を誇るべきであろう。 すべて苦痛はわれわれの位階の高さを想起させるものである

位階とは、功績のある者や在官者などに与えられる栄典の一種、という意味だ。

苦痛は年齢や自己の成長とともに種類が変わる。10年前、あるいは20年前に悩んでいたものを、あなたは今も苦しんでいるだろうか。ある苦痛はいつの間にか乗り越えられていて、今は次の段階の苦痛を私たちは苦しんでいる。どんな苦痛を苦しんでいるかで、自分の「位階」がわかるということだ。それゆえに、苦痛をただ苦痛として捉えるのではなく、これからのステップアップとも捉えることができる。

 

「大多数の人間は、泳げるようにならないうちは、泳ごうとしない」言い得て妙じゃありませんか。もちろん大多数の人間は泳ごうとしません!地面に生れついて、水に生れついてはいません。それからもちろん彼らは考えることを欲しません。生活するようにつくられていて、考えるようにつくられていません!そうです、考える人、考えることを主要事とする人は、その点では大いに成果をあげるでしょうが、まさしく地面を水と取りかえたものであって、いつかはおぼれるでしょう

ユニークな言葉だ。この言葉だけでもこの本を買う価値があったと言っても過言ではない。つい笑ってしまうが、この通りだなと感じる。人間は確かに魚ではないので、水の中で生活はしない。しかし、泳ぎの練習をすれば水の中を泳ぐことができるようになる。では、ずっと水の中で泳ぎながら生きていけるかというと、いつかはおぼれて死んでしまう。

それを引き合いに出して、人間の「考える」性質と「生活する」性質について述べている。人間は考えることはできるが、考えの中にずっといるとおぼれてしまうということを、ハリー・ハラーは言っている。人間は泳ぎの練習をすれば泳ぎに秀でることができるように、考えることに関してもそれを主要事とすれば秀でることができる。しかし、どんなに深く考えられるようになっても、考えの中だけで生活はできない。普通の人が1キロ先も考えられない中で40キロ先のことを考えられたとしても、じゃあ10000キロ先は考えられるかというと、おぼれてしまう。これは泳ぐことや考えることを否定しているのではなく、人間は基本、地面で生活するということを覚えておくべきだということだ。

「編集者の序文」が終わると、「ハリー・ハラーの手記」にうつる。これには「狂人のためだけに」という副題がついている。文字通りで、この手記は狂っていない人のためには書かれていない。これを読んで共感したり学びにしたりしようとする人は、逆を言えば狂人なのかもしれない。

ハリー・ハラーの日記が静かに語られている。愚痴に近いものも多い。ハリー・ハラーは、ヘッセが悟った真実を伝えるための、人形だ。ハリー・ハラーがどんな生活をしていたかというのは焦点ではない。すべてはヘッセが伝えたいことの前座か、ハリー・ハラーの行為言動の中に伝えたいことを含ませるかのどちらかだ。

この本のメインディッシュとも言えるのが「荒野のおおかみについての論文」。『シッダールタ』という作品もだが、物語の途中で真実なるものに出会い、その上でどのようにそれを胸に生きていくかという流れ。「だれでもが読むものにあらず」や「狂人だけのために」といった言葉を見ると、ニーチェの「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」の変化型かと想像できる。

 

 

荒野のおおかみについての論文の中には面白い言葉がたくさんある。

「おれは、人間がいったいどのくらい辛抱できるか見ることに、好奇心を持っているのだ。耐えられる限界に達したら、おれは戸を開きさえすればいいのだ。それでおれは逃げてしまえるのだ」と感じることができた。

他方、自殺者はみな、自殺への誘惑にたいする戦いにも親しんでいる。自殺はたしかに逃げ道ではあるが、いくらかみじめな不法な非常口にすぎないこと、自分の手で倒れるより、生活そのものに負けて倒されるほうが、結局はより気高く美しいことを、だれでも魂のどこかのすみでよく心得ている。

彼らは、盗癖のある者がその悪徳にたいして戦うように、戦う。

自分が悩み苦しんでいる時、朝眠たすぎるのに仕事へ向かわなくてはならない時、最愛の人と離れ離れになってしまった時など、人はまるで死にたくなるような気持ちになることがある。

しかしそうでなくてもふとした時に、自殺願望を抱く人間はここでいう「自殺者」にあたるだろう。どんなに苦しくても、死んだら楽になれるよなと思い慰めにしてしまう。いつでも自分で自分のケリをつけることができるのだという安心感。しかしそう簡単に取れる手段ではなく、あくまで「いくらかみじめな不法な非常口」。自殺願望に襲われるたびに、その願望と「戦う」ように義務付けられている自殺者。

 

市民はなるほど神に仕えようと欲するが、陶酔にも仕えようとする。

ほどよい健康な地帯で暮そうと試みる。それはできないことはないが、そのかわり、絶対的なものと極端なものに向けられた生活が与えるような生活と感情との強烈さを犠牲にしなければならない。市民は何よりも我を(もっとも、発育不全な我を)大切にする。

市民はそれゆえその本性上、生活衝動の弱い生きもので、およそ自分自身を犠牲にすることを恐れてびくびくしており、御しやすいものである。

「市民」に対する痛烈な批判とも呼べる描写がある。二極のどちらかに触れることもなく、自分をなんとか守ろうとする市民。「ほどよい中間」のおかげで市民は「陶酔にも禁欲にも」導かれず、「弱い臆病な人間」となっているだけである。荒野のおおかみたちがいるおかげで、市民階級は生きているとこの論文には書いてある。このあたりはまさにごもっともと言える「一般庶民」の性質で、庶民からしてみれば「それの何が悪い!」と反論されてしまう内容だろう。だからこそこの論文は「誰もが」読むものではない。

 

「荒野のおおかみ」という言葉に対する種明かしのような文章がある。

手っ取り早く言えば、「荒野のおおかみ」は一つの虚構である。ハリーが自分自身をおおかみ人間と感じ、二つの敵対し対立するものから成立すると考えるのは、単純化する神話にすぎない

 

この言葉を皮切りに、『荒野のおおかみ』という作品の中でも最も大事な概念だと思われるものに触れていくことになる。

ハリーは二つの本質からではなく、百、千の本質から成り立っている。彼の生活は(すべての人の生活のように)、本能と精神とか、聖者と放蕩者とかいうような二つの極のあいだだけではなく、数千の、無数の極の組合わせのあいだを、振り子のように揺れているのである。

人間は高度に思索することはできない。最も精神的で教養のある人でも、たえずきわめて素朴な単純化するごまかしの法式のめがねで、世界と自分自身を、 特に自分自身を見ている

各人が自我を一つの統一と考えることは、どうやらすべての人間の生れつきの、まったく否応ない要求

この錯覚はどんなにたびたび、どんなにひどく揺すぶられることがあろうと、いつもまたもとどおりになおってしまう。

ハリーは自分の中におおかみ的な部分と人間的な部分を認め、理解しようとするが、それは単純すぎる二分化だという。それによって得られる理解は「錯覚」で、本当に理解したことにはならない。

確かに人は、「自分とは一つの統一された何かである」と思うのが自然だと思う。自分は自分であって、一つだと思いたい。しかし、人はいつもこの「錯覚」のために苦しんでいるのではないだろうか。

たとえば、「勉強を頑張っている自分」「仕事に生きがいを感じている自分」「家族を愛している自分」などがただ一つの形として、そういう像だけを自分に押し付けてはいないだろうか。時には勉強をがんばれないかもしれないし、仕事の失敗で落胆するかもしれないし、家族と上手くコミュニケーションがとれずギクシャクするかもしれない。その結果、自分はこんなはずではないのに!と、自分の中の自分像と現実が食い違い、悩む。

しかし、もともと人間はたったひとつの何かで解釈できるものではなく、多元的な存在だ。自分の中には無数の自分がいると言ってもいい。

だからある人間が、一元的だと思いこんでいた我を二元性にひろげるところまで進んだとすれば、彼はすでにほとんど天才である

胸やからだはいつだって一つだが、その中に宿っている魂は二つ、あるいは五つではなく、無数である。人間は百もの皮からできた玉ねぎである。

百種、千種の木や花や果実や雑草にみちた庭を思いうかべてみるがよい。この庭の園丁が「食用」と「雑草」という植物学上の区別しか知らないとしたら、彼は自分の庭の十分の九を処理する道を知らないだろう。

もしいきなり「人間は玉ねぎである」と言われても意味不明だと思うが、ここまでくればこの意味がわかるだろう。

人間ひとりに宿る魂は無数で、それらが織り成して人間は成立している。

たとえば、自分や他人に対して「真面目な人」「明るい人」「暗い人」と断定的に判断できるものではない。ある一面が見えやすくなっているにすぎない。

つまり、1人の人間にはすべてがある。自分がとある人のことを気に入らないと思っていても、それは自分の中にある自分の嫌だと思う性質を見ていると考えることもできる。

 

 

人間がどのようなものであるかについて、さらに論文では、

人間はむしろ一つの試み、過渡状態である。

精神に向って、神へと、最も内面的な使命は人間を駆りたてる

自然に向って、母へと、最も深いあこがれは人間を駆りたてる

目を閉じて、自我への絶望的執着、死にたくないという絶望的意志は、永遠の死への最も確実な道であることを、これに反し、死にうること、脱皮すること、変化に向って自我を永遠にささげることが、不滅に通じる

人間という存在は、自然の中の「過渡状態」としての一部である。この世界のひとつの現象として自分がいる。生きることも死ぬことも、自然に委ねてしまえば、永遠性がある

死ぬことを恐れ生にしがみつくなら「死んで」しまう、というのは皮肉なことだ。生きては死に、死んでは生きてを繰り返す流れの中に私たちはいる。自分が死んだとしてもまた生まれる。人生に対して固執しすぎる必要はない。

今の人生をおろそかにしてもいい、という意味ではない。この人生を純粋に謳歌して良いのである。

人生が終わっても、すべてが終わりなのではない。ヘッセの言う「母」がまた私たちを抱きとってくれる。こう言うと、少し宗教的な感じがして拒否反応を起こす人もいるかもしれない。だが、これは宗教の話ではない。また、「母」「永遠」などの言葉に一喜一憂すべきではない。

言葉にすれば、一面を捉えることしかできない。

理解するには、感じることだ。

あとに引き返す道はまったくない。おおかみに帰る道も、子どもに帰る道もない。物のはじめに純真さと単純さがあるわけではない。

純真へ、創造されぬものへ、神への道はうしろにではなく、前に通じている。

自殺してみても、哀れな荒野のおおかみよ、真剣には役にたたないだろう。君はきっと人間となる、もっと長い、もっと骨のおれる、もっと困難な道をたどることだろう。

誕生はすべて全体からの分離、限定、神からの離脱、苦悩にみちた新生を意味する。全体への復帰、苦悩にみちた個体化の止揚、神になることは、すなわち、全体をふたたび包括しうるほどに魂をひろげたことを意味する

自分の子ども時代を懐かしく振り返り、それがまるで完璧な状態だったかのように回想するのは、ひとつの勘違いだと言えよう。子どもの時には子どもの時なりの悩みがあり、また未熟ゆえに苦しみを客観的に見つめることもできず、苦痛を苦痛せねばならない

どんなものでもはじめを神聖視することはよくあることだが、はじめははじめなりで不十分だ。後ろを振り返ってみたところで、そこに何か特別なものがあるわけではない。

たとえすべてを嘆き自殺を選んだとしても、人間存在そのものを自殺により消し去ることはできない。確かに自分が死んだ後、世界は存在するのかという哲学的な問題はあるかもしれない。

だが、これまでも無限の生命が生まれ死んでいっている事実を無視するというわけにもいくまい。死んだとしても、また気がついたときには人間に生まれている。自己を世界において認識できる生物として生まれたなら、それはたとえ人間でなかったとしても同じことだ。

何度も我々は「人間」として生まれ変わり、今自殺を選んだとしても再び苦悩を味わうことになるだろう。何度となく永遠に繰り返される生を否定する自殺は、無駄な抵抗にしかならない

私たちひとりひとり、生き物一匹一匹は、それぞれ具体的だ。永遠、無数の命の流れから具体的に誕生し、生きて死ぬ。具体的に存在する我々は、大きな生命の流れから「分離」して存在していると想像できる。たとえ死んだとしても、大きな流れの中に帰っていくだけだから、今のこの生に固執し苦しまなくてもいい。

有り体に言えば、すべてはなるようになっていくのだから、気楽にやってればいいのだ。

 

 

仏陀を解することのできる人間、人間性の中の天国と深淵とをほのかに感じる人間は、常識や民主主義や市民的共用の支配する世界に生きるべきではないだろう。卑怯なばかりにそこに生きているのである。

真実、本質を理解していても、それを完全に自分のものとして生きていくのは難しい。

「卑怯」であるからこそ一般人の中に紛れ込み、そこから全く外れてしまうことを恐れる。

しかし、思い切って真実に生きればよい。逃げ道など確保せず、喜び勇んで自分を失ってかまわない。

自分という枠にとらわれず、心と魂を世界に開き、自己犠牲だと思うほどの自己もなく世界と溶け合うのだ。

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【冒険と人生】愛欲と放浪の生活を経て悟る人生の答え https://poeness.com/narziss_und_goldmund_hesse/ https://poeness.com/narziss_und_goldmund_hesse/#respond Sat, 30 Jun 2018 15:05:56 +0000 https://poeness.com/?p=19 私がはじめて買ったヘルマン・ヘッセ の本は『シッダールタ』だった。2冊目が『知と愛』である。ヘッセの本を読みたいと思った時に、シッダールタ以後の作品にしようと決めていた。シッダールタという素晴らしい物語を書いた後のヘッセが、一体どんな境地で何を書いたのか興味があった。本当は『荒野の狼』を買おうと思っていたが、近くの書店においていなかった。そういうのもまた、巡り合わせだろう。

シッダールタと比べると知と愛の本の分量は多く、読み終わるのにも時間がかかった。ナルチスとゴルトムントの出会い、別れ、出会い…と進む。

物語を通じて、情景・感情の描写などが細かく、美しい。それは高橋健二の訳ゆえのこともあるだろう、ヘッセの言葉の美しさを日本語でも堪能させてくれる訳者には敬意と感謝を表したい。

ヘッセは自分の言いたいことを作品中の登場人物に言わせ、説得力をもたせるために出会いや旅や決別を作っている。経緯や苦悩をすっ飛ばして真実の言葉があるだけでは人の心に響かず、納得もしないからだ。

ゴルトムントの旅で、読者もゴルトムントの感情や思いを追体験することになる。それぞれの道を歩んで来たナルチスとゴルトムントの再会。再会後、ナルチスはナルチスの、ゴルトムントはゴルトムントの考え、世界観をぶつけ合うことになる。まるで、答え合わせのように。

再会後、ゴルトムントはナルチスに問う

われわれが生きていなければならぬのは、なんという世界だろう? 地獄じゃないだろうか。腹だたしく、鼻もちならんじゃないか

ナルチスは答える

たしかに、世界はそのとおりだ

私は、ゴルトムントとナルチスのこうした問答を見つめ、楽しかった。ゴルトムントは私の代弁者で、ナルチスはどう答えるのか待った。このやり取りの面白いところは、ゴルトムントがナルチスに教わるなどといった一方通行ではなく、お互いに掴んだ真実をぶつけ合うところだ。つまりどちらの言葉にも真実が含まれている。知と愛の衝突だ。

 

ナルチスは問う、

芸術が君にもたらしたもの、君にとって意味したものは、いったい何だったかね?

ゴルトムントは答える、

それは無常の克服だった。人間生活の道化と死の舞踏から、あるものが残り、生きのびるのを、ぼくは知った。それはつまり芸術品だった

苦悩や現実のことだけでなく、ゴルトムントが向き合ってきた芸術についての知見も聞くことができる。読者は芸術とはどんな性質があるものなのかを2人の会話から知ることができる。

ゴルトムントに対し精神よりも芸術に奉仕すべきだと教えたナルチスは、ゴルトムントが芸術について極みにいることを嬉しく思っただろう。多くの苦しみや困難がある中で、よくぞ芸術に生きていてくれたと、そんなナルチスの気持ちを想像すると、胸に来る。

 

ナルチスはこんなことをゴルトムントに言う、

ありがたいことに、君は芸術家になり、形象の世界をものにした。そこで君は創造者となり、支配者となることができる。思索家として不十分な世界にとどまっているかわりに

そしてゴルトムントが作品を完成させたことで、ナルチスはこれまでの自分の芸術の認識を改めさせられる。ゴルトムントから多くのことを教わったナルチスは、

今はじめてわたしは、認識への道がどんなにたくさんあるかということを、精神の道は唯一の道ではなく、おそらく最上の道でもないことを悟った。精神の道はわたしの道だ、たしかに。わたしはその道にとどまるだろう。だが、君は反対の道で、感覚を通る道で、存在の秘密を、大多数の思索家がなしうると同様に深くとらえ、そしてずっとずっと生き生きと表現するのを、わたしは見る

 

それぞれの人間がそれぞれのやり方で物事を見る。

ゴルトムントとナルチスはたしかにやり方や通る道こそ違うかもしれないが、到達する先は同じだということではないだ。どちらの道にも優劣はなく、わたしの道も、そしてこの文章を読んでくれているあなたの道も、等しい。

ニーチェのこんな言葉を思い出した、
「世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。」

知と愛を読んだなら、このニーチェの言葉を深く理解できると思う。これは単純に「お前はお前の道を進めよ!」のような話ではない。人の道はそれぞれ違っているように見え、他人の歩む道に憧れることもあるが、自分の心の声を聞いて自分の道を歩いて行った先にこそ、自分が憧れていたような偉大な人間たちも達した境地があるということだ。

ナルチスの本分である敬虔な勤め、その分野におけるナルチスの発言も非常に興味深い。ゴルトムントは修道院にいる以上、そこの人間としての勤めを果たそうとする。

ナルチス、

神が君の祈りを聞くかどうか、君の想像するような神が存在するかどうか、そんなことを思いめぐらしてはいけない。君の骨おりがたわいないかどうか、そんなことを思いめぐらしてはいけない。われわれの祈りの向けられるところのものに比較すれば、われわれの行為はすべてたわいない。君はお勤めのあいだはそんなおろかしい幼児の考えをまったく封じなければいけない。主の祈りとマリアの歌を唱え、その文句に没頭し、それでみたされきらなければならない

祈りにおいて生じるこの集中は、仏教における瞑想と通じるものがあると思う。シッダールタにおいても川の声を聞くシーンがあるが、通底しているものは同じだろう。

言葉ややり方や表向きの現象が異なるだけで、世界そのものと溶け合うような感覚は、ヘッセ小説のひとつのテーマ。自分が世界とひとつになり、自分が自分と同一化する、自分自身になること。自分は世界であり、世界は自分だということ

ゴルトムントの芸術を賞賛するナルチスだが、一方でゴルトムントは人生の問題に対するナルチス思索がうまくいっているように思えて、うらやむ。

 

ゴルトムントがナルチスに、

君のおちつきを、平静を、平和をぼくはうらやむ

ないものねだり、隣の芝生は青く見えるのは世の常だが、ゴルトムントは素朴な言葉をナルチスにぶつける。

 

冷静沈着、思索、精神の道を極めているかのようなナルチスはゴルトムントに衝撃とも言える告白をする、

君が考えているような平和は存在しない。(略)常にくり返し不断の戦いによって戦い取られ、毎日毎日あらたに戦い取られなければならないような平和があるばかりだ。(略)正しいすべての生活がそうであるように、君の生活もそうであるように、戦いと犠牲なのだ

ばっさりいくナルチス!

修行すれば、人生経験を積めば、いつかは平静な心を手に入れられると思ったら大間違いだ。

どんなに熟練しても、正しく心穏やかに生きていくためには、自分の中で戦い続けなければならないことをナルチスは教えてくれる。

平静を手に入れ悟りの境地に至ったかに見える人も、ざわつく心に対する戦い方を普通の人よりも心得ているだけで、戦わなくて済むのでは決してないこと。こんな赤裸々なことは、現実の人間ではなく知と愛のナルチスしか教えてくれない。

ゴルトムントは再びナルチスのもとを離れ旅に出ることになるが、そんなゴルトムントを心配するナルチスが人間らしくて好きだ。ナルチスはゴルトムントによって豊かにもなり貧しくもなった。

 

厳格な勤めをすこしも怠らなかった。しかし彼は友を失って悩んだ。自分の心は神と役目とにだけささげられるべきであるのに、どんなにこの友に執着しているかということを知って、彼は悩んだ

ナルチスはゴルトムントを思う時に、こんな疑問をめぐらせる、

人間は、神によって作られたとき、官能と衝動、血の気の多いなぞ、罪や享楽や絶望へ走る力をそなえていたのではないか

人間らしさとはなんなのかを考えさせられる。欲に溺れるのも人間、欲を自制するのも人間、いろんな人間のかたちがあり、すべてが人間だ。

いずれにしても、高い定めを持って生れた人間は生活の血の気の多い陶酔的な混乱の中に深く浸り、ちりや血にまみれることはあっても、卑小になることはなく、自分の中の神々しいものを殺すことはなく、深い暗がりに迷うことはあっても、彼の魂の神聖な奥で神々しい光と創造力とが消えることはない、ということをゴルトムントはナルチスに示した。

どんな境遇に陥っても、自分の奥底にある輝きは消えないということだ。そもそもその輝きがなければ意味はないが、その輝きを見つけることが、自分自身の人生を歩んでいる宿命でもあるのかもしれない。

 

 

最後の最後、ナルチスとゴルトムントはさらに再会する、というよりゴルトムントがボロボロになって帰ってくる。ゴルトムントの状態はとても悪い。気の毒で胸が痛むが、ゴルトムント最期の言葉が大事だ。

ゴルトムント、

打ち明けて言ってよければ、ぼくは彼岸を信じていない。彼岸なんてものは存在しない


ぼくが死に興味を持っているのは、自分は母への途上にあるということが、いつも変らずぼくの信仰、あるいは夢であるからにすぎない。死は大きな幸福であるだろう


ぼくをふたたび引きとって、虚無の中へ、純潔の中へ引き戻してくれるのは、かまを持った死ではなくて、母である


ぼくは理屈なしに、死ねなかったのだ

彼岸なんて存在しない、死は大きな幸福など、悟りの言葉を死の間際に発する一方で、理屈なしには死ねなかったと真っ直ぐな気持ちをナルチスに伝える。このバランス感覚がとても印象的だ。

だが、ナルチス、君は母を持たないとしたら、いつかいったいどうして死ぬつもりだろう?母がなくては、愛することはできない。母がなくては、死ぬことはできない

母という言葉はヘッセの詩の中にもよく出てくる。もし『知と愛』しか読んだことがない人なら、ここで母という言葉がいきなり出てきて解釈に悩むかもしれない。しかし、ヘッセを読んでいたら母という言葉は全く珍しくない。ヘッセの小説を理解するには、ヘッセの詩や考えも知っておく必要があるように思う。

 

詩集から引用するなら、

永遠な母だけは、とどまっている、
私たちの生れて来た母だけは。
母の戯れる指が
はかない虚空に私たちの名を書く


星の軌道を縫って静かに、
輝きが私を疲らせ、目くらませ、
ものみながぐるぐるまわり、漂い、
母がまた私を抱きとってくれるまで

 

ゴルトムントの最期は、「母」のことを語ることに終始する。ここで言う「母」は、自分・他人のお母さんなどという限定された存在ではない。しかし、限定された存在でもある。母は具体的であり抽象的で、具体的でなく抽象的でもない。

「母」という言葉の意味だけを考えることは無駄で、感じなければならない。この宇宙や世界が生まれ、生命が生まれ、死んでは生き、生きては死ぬ営みがある。その永遠性の中で自分も生まれ死んでいく。自分という存在も、過去現在未来含めて例外なく永遠の一部で、それは巡り巡るということ。死ぬことも生まれることも、生まれることも死ぬことも「母」にゆだねることが、ゴルトムントが感じた意味だった

たとえ死んだとしても、またしかるべき時に母が抱きとってまた命を吹き込んでくれるのだろうという信頼。それに支えられてこそ「理屈なしに」死ねなかったゴルトムントは安心して死を迎えたのだろう。

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【悟りとは何か】悟りを開く人。悟りの境地に達するには https://poeness.com/siddhartha_hesse/ https://poeness.com/siddhartha_hesse/#respond Fri, 29 Jun 2018 14:30:18 +0000 https://poeness.com/?p=9 はじめて読んだヘルマン・ヘッセの本が『シッダールタ』だった。

その日は喫茶店に行く予定で、「本を買おう」という気持ちになっていた。たまたま『シッダールタ』を見つけた。その偶然がなければ私はずっとヘッセのことを知らなかったかもしれないし、だとしたら今日の自分はなかった。

 

もともと釈迦に興味があり、仏教に関する本はよく読んでいた。岩波文庫の『ブッダの言葉』は何回となく読んだし、他に読んだ仏教書も多々ある。私は釈迦そのものに興味があり、現代の「〇〇宗」のような宗派にはあまり興味がない。

大事なのは釈迦がどのような境地にあったのかを学ぶことだと思っている。

 

仏教的な思想を学んでいたわけだが、ヘッセのシッダールタという作品は知らなかった。本屋の背表紙でシッダールタという言葉を見たとき、すぐに釈迦のことだとわかった。どんな本なのだろうと気になった。

 

概要では、

シッダールタとは、釈尊の出家以前の名である。生に苦しみ出離を求めたシッダールタは、苦行に苦行を重ねたあげく、川の流れから時間を超越することによってのみ幸福が得られることを学び、ついに一切をあるがままに愛する悟りの境地に達する。ーー 成道後の仏陀を賛美するのではなく、悟りに至るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとしたこの作品は、ヘッセ芸術のひとつの頂点である

 

何より引き寄せられた文言は「悟りに至るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとした」という部分。仏教の言葉には多くの慰めがあるものの、実際に苦から解放される境地に達するのは難しい。仏教の本やブッダの言葉でその一瞬は楽になったり、悟りを開いた気になったりすることは確かにある。でも、日常の困難の中で忘れてしまう。

仏教の思想や考え方を自分の生き方にまで消化するのは至難の技と言える。それは当然のことで、簡単にできるというのであれば、誰も苦しむことはない。

この本の概要を見て、釈迦の教えをもとに悟りに向かおうとした人間の苦悩や壁を追体験できるのではないかと期待した。今まで自分にはできなかった苦悩の乗り越え方、悟りを学びたかった。

 

私はシッダールタだけを読んでシッダールタの物語を理解したのではない。他のヘッセの著作も読む中でシッダールタを理解した。はじめてシッダールタを読んだときの衝撃と感動は言葉に言い尽くせないほどだった。主人公シッダールタのリアルな学びが細々と綴られており、この本を読むだけでも多くを知ることができる。

 

シッダールタを読み終わると、「人生のことを知るために、これ以上本をむさぼり読む必要はないんだ」なんて思ったものだが、結果的にはヘッセの魔力とも言える言葉を求めて他の著作を買うことになった。それもまた、自分にとって必要なあがきだった。ゴーヴィンダがさぐり求めるように、欠点を知っていてなおさぐり求めずにはいられない自分に腹が立ったが、さらなるヘッセの言葉を求めた。

 

この文章を読んでくださっているあなたは、きっとシッダールタを読んでいて、「他の人はどんな感想をもったのだろう」と気になったのではないだろうか。私もこうしてシッダールタの感想を書きたいと思ったのは、この本を読んだ同時代の仲間たちとの共感を求めているからだろう。もちろん、あなたは私と違った感想を持っているはずだ。ただ、こうやってあなたと同じようにシッダールタを読んで感動した人間がここにもいることを感じて、微笑してくれたらと思う。

 

シッダールタを読み進めていくと、まさかの仏陀登場である。
シッダールタという作品の主人公はシッダールタ。これはもともと仏陀の名前でもあるが、まさかその主人公が仏陀と出会うという構造になっている。この作品でのシッダールタと仏陀は別人。

旅の中でシッダールタは仏陀と話すが、仏陀のもとにとどまる道を避け、ゴーヴィンダを置いて一人旅に出る。ここがすごい。

現代社会の人間は、仏陀の言葉として残っているものを学ぶことができる。本やお寺もたくさんあり、仏陀の教えにはいつだって触れられる。心が苦しい時、考え方としての仏教に救われることがある。

しかし、先にも言ったようにそれは長続きせず、仏教の教えを体得して苦しむことのない境地に達することは難しい。仏教を学んでも苦しいものは苦しいのが現実なんだ!わからないんだ!なぜなんだ!という人間の気持ちをヘッセは分かってくれている。そしてシッダールタに、それを乗り越える旅をさせてくれる

 

仏陀がシッダールタに伝える言葉が真実だ。その言葉に納得できるのであれば、旅は終わりである。この本はここで終わったとしても内容豊かだ。

 

仏陀は言う、

おん身が私から聞いた教えは私の意見ではない。その目標は、知識をむさぼるもののために世界を説明することではない。その目標は別なものである。その目標は苦悩からの解脱である。それこそゴータマの教えるところであり、他の何ものでもない

 

この言葉に、すべてが詰まっている。

シッダールタ、あるいは読者たちが仏陀の言うことを議論することや、意見を表明することなどには何の意味もないのだということ。意味を求めようががんばろうが何だっていいのだけれど、「人生それによって苦しむ必要はない」という、単純な話だ。

つまり、あなたが苦しんでいないのなら、オールオッケー!である。

苦しむ必要がないのに苦しんでいる人たちがいて、そんな人達のために苦しみから逃れる方法をあれこれ言葉を変えたりしながら仏陀は教えてるだけだ。

仏教は今でこそ多くの宗派があり教えがあるが、本来の仏陀は苦しむ人達に苦しまなくていい方法を教えていただけだ。苦しんでいない人たちに、仏教は意味をなさない。

仏陀は愛に溢れた人だったのだろう。自分が苦しまなければ問題はないのだけれど、苦しんでいる人間たちのために、死ぬまで寄り添っていた仏陀はまさに仏陀。

 

シッダールタはこの本の最後のほうで仏陀についてこのように言っている、

私はゴータマと一致していることを知っている。ゴータマがどうして愛を知らないことがあろう!いっさいの人間存在をその無常において、虚無において認識しながら、しかも人間をあつく愛し、辛苦に満ちた長い人生をひたすら、人間を助け、教えることにささげたゴータマが、どうして愛を知らないことがあろう!

 

悟りを開くと、まるで言葉の少ない無味乾燥な人間になるかのように思う人もいるかもしれないが、そうではない。仏陀はきっと優しい人で、面白くて、頭が良くて、愛を持った人だったんだろう

自分が教えても苦しむ人が絶えないことを仏陀は知っていたはずだ。そしてそれは生命の営みの中で永遠と繰り返されていく。その全てをわかっていてもなお、自分の命を惜しむことなく使った仏陀の行為は、愛だ。

 

「愛」という言葉で人はいろんな意味を思い浮かべる。人によって「愛」という言葉のもつイメージや印象などは異なるに違いない。しかし、言葉の意味に一喜一憂してはいけないこともこの本は教えてくれる。

 

一つの真理は常に、一面的である場合にだけ、表現され、ことばに包まれるのだ。思想でもって考えられ、ことばでもって言われうることは、すべて一面的で半分だ。すべては、全体を欠き、まとまりを欠き、統一を欠いている。


これ以上それについてことばを費やすのはやめよう。ことばは内にひそんでいる意味をそこなうものだ。ひとたび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる、いくらかすりかえられ、いくらか愚かしくなる。

 

どんなことでも人に伝えようとするなら、それは言葉にしなければならない。しかし、言葉は万能ではないということを教えてくれている。言葉の用法や意味に振り回されないように注意して、本質を感じなければならない

「愛」を語るときにも、「愛」という大きな言葉の意味に翻弄されるのではなく、心で感じる必要があるということだ。

 

『シッダールタ』という本は、シッダールタが仏陀に出会うまでと、そこから俗世の生活をする期間と、それを捨てた後の大きく3つに分かれる。読み返すならいつも仏陀の言葉や最後のシッダールタの悟りの言葉を見てしまうが、『シッダールタ』という物語としての骨格を考えるなら、俗世での放蕩生活の期間がとても重要だ。この部分がなければ、シッダールタという本はなんの面白みもないものになってしまう。

 

主人公シッダールタは仏陀の教えを聞いてなお、仏陀の言葉に自分を埋もれさせることなく自分で真実を体験するための旅に出る。私はシッダールタと仏陀が別れた時、とても驚いた。普通、そんな素晴らしい人に出会えたのなら、素晴らしい教えを聞いて悟りを開くかのように進みそうなところを、そうじゃないとして物語は進む。

「この後のシッダールタを書くのはヘッセも大変だっただろう」と想像する。そして何よりもこの部分にこそ、ヘッセの産みの苦しみがあると思う。

 

では、俗世での放蕩生活が終わり、それですんなり悟りの境地で静かに暮らせるのかと思いきや、息子と出会ってしまう。一緒に生活をするものの息子がいなくなり、またもや心がかき乱されることになる。

素晴らしい心を獲得したと思っていても、いとも簡単にその心を失ってしまう難しさ

なにもしていなくても平静でいられるような人生はない。突如として困難が襲ってくる中で、自分の心を保つ闘いをしなければならない現実をもこの本は教えてくれる。

 

ヘッセの本に甘いご都合主義はないが、克服の道があることを示してくれる。困難や苦悩が人生にはつきものだ。それはどうしようもない。

しかし、自分の欲望に翻弄されて生きる生き方には限界がある。

誰からも本当の意味では生き方を学べない

『シッダールタ』からたくさんのことを学ぶことができる。


【当サイト著者自身の「悟り」については下の記事】
「悟り」を開くことができた https://poeness.com/satori20181119/

ヘッセの『シッダールタ』についての当記事を書いた段階(2018年6月)では、筆者の私は「悟り」が開けていませんでした。
筆者自身の「悟り」(2018年11月)に興味がある方は、上記の記事をご覧くだされば幸いです。

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