「きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。」という、一見良いことを言っているように思う言葉だ。一般的な価値観ではこれは「善」であろうし、俗世間で言う「命の大切さ」「生きることの尊さ」などを表していると言えるのだろう。
確かにこれは『ブッダのことば』の中に出てくるのだが、ブッダが言った言葉ではなく、悪魔が言った言葉だ。
普通に『ブッダのことば』(スッタニパータ)を読んだ人ならわかる。
「第三 大いなる章 二、つとめはげむこと」にこの言葉は出てくる。ネーランジャラー河の畔で瞑想していたブッダに悪魔が話しかける。部分的に引用させてもらう。
悪魔「あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」
上記の悪魔の言葉をそのとおりだと思う人は、昔でも今でも「ごく普通の人」だ。自分の命をけずるほどのなにかをすることは避けるだろうし、何より命が大事だという価値観を持っている人たちには、この悪魔の言葉に違和感を感じない。こう言うと、「じゃあ命が大事じゃないっていうのか!人や動物を殺してもよいのか!」という反論を持つ人もいるだろう。だがそれは違う。生きとし生けるものは生まれて生きては死ぬ運命にあり、慈しむべきものだ。多くの人間が「幸せ」や「苦痛なき状態」を求めて苦しんでいる。
一方で、では「命」とは何だろう。自分の感覚器官があり、それを収容する身体があり、それは年を経るごとに朽ち果てていく。死んでしまえば身体は動かなくなり、燃やされるなり埋められるなりして、自然に帰っていく。自分の命とは、つかの間の、感覚器官や身体の働きに他ならない。命に執着することなく、善をなし、心の平安を保つという、言葉は静かだが激烈な生き方こそがブッダの真髄だ。
悪魔の言葉にブッダが応える、
ブッダ「怠け者の親族よ、悪しき者よ、汝は(世間の)善業をを求めてここに来たのだが、わたくしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命をたもつことを尋ねるのか?」
ブッダは続けて、悪魔には八つの軍隊があると説く。
第一の軍隊:欲望
第二の軍隊:嫌悪
第三の軍隊:飢渇
第四の軍隊:妄執
第五の軍隊:ものうさ、睡眠
第六の軍隊:恐怖
第七の軍隊:疑惑
第八の軍隊:みせかけ、強情、誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、自己をほめたたえて他人を軽蔑すること
第一の軍隊の「欲望」だけで、もはや世間の人々は征服される。欲望のおもむくまま、欲しいものを欲し、手に入らないなら苦しむ。たくさんの欲望を叶えた「普通の人間」スペシャリストは、世間からの尊敬を受ける。多くの人達が悪魔とともにいることを望む。最高の喜びにも、最悪の悲しみにも、苦しみがあることを見通すことはできない。
ブッダ「わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。」
悪魔の軍隊に打ちひしがれて従うよりも、現在の命・身体を脱ぎ捨てるほうがよいと考えるのがブッダである。悪魔に引き寄せられて貪るなら、そこに心の平安はないからだ。心の平安に価値を見出だせない世間の人々は、いたずらに楽しみや悲しみや怒りを追いかけ、みずからの感覚器官をもてあそび、結果的にもてあそばれて苦しむ。
最後、悪魔はブッダにつけこむすきがないことを見て、諦める。
岩波文庫の人は「きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。」という言葉を帯に載せる際に、何を思ったのだろう。まさかこれが悪魔の言葉だと知らずに載せたわけではないと信じたい。この言葉が良いと思った人に対して「ブッダのことば」の購入を促せて、実はこの言葉は悪魔の言葉で、この言葉に騙されないような人間にならなくてはならないよというメッセージなのかもしれない。
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面白い本もたくさん含まれているので、本が好きなら本目的でもプライム会員になる価値があるかもしれません。
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さて、今回読んだのは仕事は楽しいかね? (きこ書房)です。
お金持ちの老人が仕事・ビジネスについて有り難いお話を聞かせてくれます。
事業に失敗した過去を持ち、今は”そこそこの給料”をもらっている35歳男と、この老人との出会いからはじまります。
対話形式なので、物語の中に入っていきやすく、難しい言葉を使っている箇所もありません。
全体を通してとても読みやすい本で、読む人に何か一つは学びがある素晴らしい本だと思います。
今日の目標は明日のマンネリ
今日の自分と明日の自分は別人です。今日の自分の目標が必ずしも明日の自分にとっても目標になるとは限りません。
昨日に縛られて今日を生きたり、明日のことを思い今日生きるのはやめねばなりません。
今日、今、いったい私たちは何をすればワクワクできるのか、それを実践することが大切です。
人生は「今」の積み重ねなのですから。
いつも変化していれば、変化を恐れる必要がなくなります。人間はなんにせよ変わっていくものです。自ら「違う自分になっていこう」とすることは、自然に即しています。
今の「状態」にこだわることなく、毎日新しい自分でいたいですね。
人生は進化だ。そして進化の素晴らしいところは、最終的にどこに行き着くか、まったくわからないところなんだ
きみは、最初に陸にあがった魚は長期にわたる目標を持っていたと思うかね?
立派なことを成し遂げた人は、立派なことをしようと思い日々を過ごしてきたわけではないことをよく耳にします。日常の、目の前のことをしっかりやってきたからこそ、偉業は達成されるようです。
人間一人が1日でできることはたかが知れています。ですが、日々できることを精一杯やると、とんでもないところまで前進していたことにいつの日か気づきます。
どんな風になっていくかは予想がつかないけど、今日一日の生き方ならわかるはず。
自分の心の声を聞いて、今日も生きよう。
遊びのつもりでやると、楽しくなってくるからいつまでもやれる。
楽しい仕事はなかなか見つからないかもしれないけど、仕事を楽しくやることは誰にでもできることです。
遊び感覚でやることに勝るものはないんですね。楽しもう!
勉強すると褒められる時代は学生までです。大人は勉強しているからといって、褒めてくれることは少なくなります。褒められることを期待して勉強するのはむしろ大人とは言えないでしょう(笑)。
「先生の言うことをきちんと聞いていれば間違いない」かのように、与えられたことをこなすだけの毎日になっている人が、大人の中にいます。というより大半なのではないでしょうか。
成功したいと思っていても、「成功するにはどうすればいいですか?」なんて聞く。成功者からしてみれば、人それぞれなんだから好きにやれって話なのだと思います。いちいち自分が何かするのにもお伺いを立てるばかり、他人の話を聞いているばかりだからダメなんだと。
「遊び感覚で自由にやってみろ、学校と違って大人は自由なんだ」ということではないでしょうか。
きみたちの事業は、試してみた結果失敗に終わったんじゃない。試すこと自体が欠落してたんだ
挑戦してみてダメなことは当然あります。しかし、概して成功しない人というのは、挑戦の数が足りないようです。もっともっと「試しにやってみる」ことを増やして、むしろ失敗の数こそ増やしていこうとする気持ちが大事です。
変化を恐れず、これでもかというほど毎日違う自分になろう。遊び感覚でワクワクしながらいろんなことを試そう。
私たちのまわりにいる人は99%が普通の人でしょう。普通の常識に縛られて生きています。
でも自分までそうして生きていては、自分も並の人です。
みんなが友達と遊んでいて、家族だんらんをすごしていても、あなたが仕事で成功しようと思うなら仕事をしなくてはならないでしょう。他の人たちが得られるであろう快楽は諦めて、自分が追い求める理想に向かっていかねばなりません。
犠牲なく得られるものはありません。
突然、日常の習慣の中で変えろと言われたら嫌なことが多いです。でも、友達の家に行ってみて「ゲームでもやらない?」と言われたら、「ちょっとやってみようか」となりませんか。ゲームの例を出してみましたが、ゲームでなくてもかまいません。
私たちは「ちょっとやってみよう」が好きなはずなんです。その「ちょっとやってみよう」を、仕事でもプライベートでも実践しましょう。
変化して、前よりも悪くなることがあります。「変えなければよかったのにな」と後悔してしまい、諦めるか前のかたちに戻してしまいます。しかし大事なのは、さらに変わり続ける勇気です。何かにとどまっていようとするのではなく、常に変化することが、現実を軽快に生きていく秘訣なのです。
きみが”試すこと”に喜びを見い出してくれるといいな
アイデアをいっぱい持つこと。ありとあらゆることをやってみること。明日は今日とは違う自分になること。そして朝を待ち焦がれる、幸せなサムライの一人になってくれ
]]>人生は軍務のようなものであるのを諸君は知らないのか。
各人の生活は戦役、しかも長い複雑な戦役のようなものである。君は軍人の本分を守らねばならない、そして将軍の目くばせですべてをやらねばならない。もしできれば、彼の欲していることを見抜いてするのでなくてはならない。
人生についていろいろと思うことは誰しもある。
苦しい時、「なぜこんなに苦しまなくてはならないのか!」と嘆くこともある。
そんな時、エピクテトスは言う。
「人生は軍務みたいなもんだよ。まさか知らなかったの????」と(笑)。
ハッピーうきうきと人生生きていけるわけではない。確かにハッピーなときもあるが、一時的か、勘違いだ。
そもそも人生は楽しむために作られているのではないよな、と。
うまくいっている状況の時でさえ、どこかは妥協していたり、我慢していたり、欲求不満だったりする。
では、苦しむために作られたのかというと、それも違う。
人間が勝手に苦しんでいるだけで、別に苦しみは強制されていない。
苦しまないようにするにはどうすればいいかを考えるがゆえに、哲学や宗教を勉強し始める。
「ああ、別に苦しまなくていいんだな」
「人生って不思議だな。どんなに考えても結局わからないや」
心の底から納得できたとき、むさぼるような「学び」をやめ、
自分の人生の役割を全うするための行動を始める。
わたしの、あなただけの「軍務」がある。
]]>あなたは世界で一人しかいません。生まれも環境も人それぞれ違うので、他人と比較する意味はありません。
たとえば、どんなに野球の才能があっても、野球がない国に生まれて野球を知らなければ、プロの野球選手にはなれません。一方で、大きな才能はなくとも、環境に恵まれて成長する人もいます。
あなたがなりたいと思っているあの人は、なるべくしてそうなる環境に身を置いていたのです。
この世界は、生まれた場所や環境に大きく左右されます。
我々は知らず知らずのうちに、様々なことを経験して、「手持ちのカード」を持っています。逆に言えば、「手持ちのカード」しかないことに、ある時気がつきます。
他人が持っている「カード」を羨んでいても、それはあなたの「手持ちのカード」にはなりません。あなたは今の「手持ちのカード」で勝負するしかないのです。
自分にないものを求めるのではなく、何があるのかを見つけましょう。健康・若さ・お金・時間・過去の経験・能力・感受性・専門知識など、何がありますか?生きている以上、何かは必ず見つかるはずです。どれか一つで十分です。
あなたにあるものを活かしてください。
どんな環境が居心地がいいかというと、自分らしく振る舞える環境です。
素の自分を出したり、自分をわかってくれたりする人たちに囲まれていると、リラックスできます。
身体が強くないのに、肉体労働をすることは大変です。細かいことを考えるのが嫌なのに、デスクワークをするのも厳しいです。
人間は自分の性質に合ったものができると、充実感や幸福感を感じます。
自分の性質に合ったことをなんでもすればいいかというと、そうではありません。犯罪を犯したい欲求に駆られても、負けてはいけません。間違ったことをすれば、辛い報いを受けます。
では、あなたは何をすればいいのでしょうか。どのように生きればいいのでしょうか。自分に合った性質のものはどうやって見つけたらいいのでしょうか。
残念ながら、簡単にそれらが見つかる方法はありません。一生、見つからない人も大勢います。自分がこの世界でどんな風に生きていけばいいのかわからないまま、命を終えます。
でも、いつも自分の心の声に耳を傾けていれば、おのずと何をすれば良いのかわかります。良くないのは、自分の気持ちを無視して、「普通の人はこうしてる」などの常識に左右されることです。あなた自身になることに反する常識があれば、それを乗り越えましょう。
もちろん、どんなに自分の本性に合ったことをしていても、困難や壁にぶち当たります。まったく難しさのない人生など不可能ですし、あったとしても面白くはないでしょう。人生には苦労がつきものだと理解していれば、自分の道を見失うことがありません。どんな道を歩いても困難があるのだから、自分の道で出会える困難ならむしろ温かく迎えることができます。そうして生きていく向こう側には、強くなったあなたがいます。
]]>1. 容姿を磨く
2. 若々しくある
3. ちょっとした、いたずら心を持つ
4. 人懐っこく振る舞う
5. 個性をしっかり持つ
6. 欠点を無理に隠そうとしない
7. 素直であれ
なにはともあれまずは容姿。
化粧、美容室、エステ、できる範囲で最大限の努力。
年齢は関係ない。若くても老けこんでしまった人は魅力的ではない。一方で、歳をとっても健康管理をしてハツラツとした人は、美しい。
人間関係では、礼儀だけが大事なわけではない。ちょっとしたいたずらは、人との距離感を縮めてくれる。かしこまりすぎた人と、いたずら心を少し持って気さくに話してくれる人。あなたならどちらと仲を深めたいと思うか。
人とのコミュニケーションを楽しもう。
たとえ仕事で会う人といえど、一人の人間として友達になるかのようにふるまおう。相手を好きにならなければ、こちらも好きにはなってもらえない。
人懐っこくふるまおう。そうすればあなたの周りには自然と魅力的な人が集まってくる。
自分が好きなこと、自分の考えをしっかり言おう。何を考えているかわからない人や、自分の意見がない人は大切にされない。
確かに周りと上手くやることは大事だが、それとあなたが個性を発揮することとは別。
普通、他人には欠点を見られたくない。欠点を恥じている人も多い。
だからこそ、人は他人の欠点を見ると安心する。一方で、完璧すぎるように見える人には遠慮してしまう。
欠点が出てしまったとしても気にする必要はない。安心したり可愛いと思ったりする人もいるのを忘れないこと。
無理に完璧な自分を演じていても、そのうちボロが出るし、最終的には特にはならない。自然体が良い。
良いと思ったことは取り入れていき、悪いと思ったことは避けよう。
たとえ苦手な人に指摘されたことでも、「なるほどそうだな」と思ったことは吸収する。あまり面白くないドラマだという評判でも、自分が面白いと感じたならそれは面白い。
感じたことと素直に向き合っていれば、人間性が磨かれる。魅力的な人物になれる。
自分に満足することは、良いように見えることがあります。「足るを知る」という言葉があるように、身を滅ぼすほどの欲望は自制するべきでしょう。
しかし、もし自分のことしか考えず、「これで満足だ」と他人に何もしないでいれば、あなたは迷い続けます。
あなたは今、本当に何もしなくていい状態でしょうか。
やるべきことがあるのにやらないでいることは、あなたを苦しめます。何もせずに悠々自適な生活、というと羨ましく思うかもしれません。でも人は裕福で働かなくていいからといって、幸福になるわけではありません。
張り合いのない・自分が生きている意義を感じない日々では空虚な気持ちになります。
何かをしなければならないのではありません。するべきだと感じることをしましょう。
「するべきことがないな」と思うなら、見つける工夫をしましょう。病気でもなく健康であれば、あなたにできることはたくさんあります。病気を抱えながらでも、懸命に自分の果たすべき役割を果たす人もいます。
あなたの能力・仕事で助かる人たちがいることを忘れないでください。
どんなに苦しい状況であっても、「最低最悪」なことばかりが起こるわけではありません。時にはほっとする瞬間があったり、愉快なことが起こったりします。
どれほど苦しくても、一歩引いて冷静に状況を見てください。そうすれば、大変な状況の中にあってもなお、心の「ゆとり」を持つことが可能です。
「不可能だ!」と思うことがあれば、いっそう知恵を絞り、探求してください。「人生でこんなに最低な時はない。何も明るいことがない」と感じる一方で、「いや、これは神様からの試練なんだ。今は悪い状況かもしれないけど、そのうち変わる。止まない雨はないんだ」と、落ち着くことができます。
・何かに惑わされることなく自分の意志を貫く
・避けるべき困難を避ける
大人としての成熟は、この二つを上手くこなすことにあります。
人生には困難なことが降りかかってきます。だからといって困難を100%苦しむ人生を歩まなければならないことはありません。
あなたにはあなたの意志があります。それは本来、外部の影響で消滅させてはならないものです。
困難なことと折り合いをつけながら、なるべく自分の思う通りの人生を歩めるよう努力しましょう。
あなたのこれまでの経験から「これはまずいことになりそうだ」と判断できることは、なるべく避けるべきです。あるいは、予防をしましょう。
当たり前のように思えますが、面倒なことをきちんと避けるのは重要な能力です。
たとえば、「あ、この人の話長くなりそうだな」と思っていても、その場に居続ければ長話を聞く羽目になります。何の得にもならないとわかっているなら、早々に離れるなど対処してください。
人生はただでさえ予期せぬ不幸に見舞われるものです。予想できる「やばいこと」を不必要に味わう必要はありません。頭を使ってそれを避け、あなたのやりたいことを実現してください。
]]>他の人たちが普通に享受できている境遇が自分にはなく、絶望を感じているのでしょうか。なりたくてなっているわけでもないのに、いわゆるニート生活を送る人もいます。
人生を諦めようとまで思ってしまったあなたは、多くの辛いことがあったのでしょう。あるいは、辛い思いから目をそらし、逆にもっと辛い目にあっているのかもしれません。
「人生を諦める」という考え自体は、実はかなり昔からさまざま人たちが抱いたものなのです。
人生への諦め、死を意識した昔の賢い人はどんな名言を残しているか見てみます。
誰かが若くして死ぬと、世間の人は「なぜこんなに早く死なねばならなかったんだ」と、不運を嘆きます。現代の日本では100歳まで生きるのも珍しくありません。しかし、事故や自殺、病気などで突然終わるのが人生です。
一方で、他人に迷惑ばかりかけているように思われる老人がいつまでも生きていると思ったことがあるはずです。歳ばかり食っていて、人間的に成長していないお年寄りもいるものです。
若くして死ぬのは嫌。歳をとって死ぬのも「いい」わけではありません。なるべく生きていたいのです。しかし人生において何かをなすべきだとも思っていません。つまり、「生きようともしなければ死のうともしないなんて変な人たち」です。
生きているうちは「もう自分の命なんてどうでもいいや」と考えることが何度かあるかもしれません。ですが、いざ自分の死が見えると、素直に受け入れることは難しいのです。
「人生を諦めた」と思っている人は、実はこの「生きようとも死のうともしない」人間になっています。
生きようとする気力も、死のうとする気力もありません。ただただ人生に絶望して無気力でいます。生きていても辛いことだらけだし、死ぬのは怖い。いっそ爆弾でも落ちてきてひと思いに死ねたら楽でしょうか。
自殺は、自殺したい人たちができるというものではありません。自殺したくてもできない人たちはたくさんいます。
自殺は生きているからこそできる一つの行動です。たとえば、落ちているゴミを拾える人がいる一方で、気づいても拾わない人がいるのと同じです。自殺という行為ができるタイプとできないタイプとに分かれると言えます。
どちらのタイプも、この人生から消えてしまいたいと思っている点で同じです。経験してきたことは違っても、同じような苦しみを抱えています。生きながら死んでしまい、結果として人生を諦めてしまう人たちは多いのです。
無気力でいても、やる気満々でいても、あなたはそのうち死んでしまいます。死ぬと肉体が取り残されます。生きているうちは水を飲みご飯を食べて生きていますが、死んでしまえばそんなこともできません。
あなたはまさに「死体を持ち運んでいる小さい魂」と言えます。
今は身体を自分の意思で動かすことができます。死むと動かすことはできないのに、驚くべき事実だと思いませんか。
生きているからこそ、動いたり考えたりできるのです。生きていないと生きていることに悩めません。不思議なものですね。
順風満帆に生きてきたように見える人たちも、思い通りに人生を歩んでこれたわけではありません。あなたと同じように、多くの困難に出会っています。
物事は自分が希望している通りに起こるものではありません。なるようになっていきます。なるようにしかならないと言ってもよいかもしれません。
どんなに対策・準備していても苦労するのが人生です。人生に対して余裕を持って接するには、未来の出来事がそのまま起こるように起きたらよいと思えることが大切です。
これから先、あなたの人生への諦めがどのように変化していくかはわかりません。ですが、起こるべくして起こることが必ずあります。それに対して「起こるように起きてくれたらいいや」とゆったりしていましょう。
思い通りの出来事だけを起こそうとするのはやめましょう。うまくいくこともあるかもしれませんが、うまくいかない場合のほうが多いのです。うまくいくはずだと思っているのにうまくいかないことが、無力感につながります。もともと人生なんてままならないことのほうが多いのに、自分に都合よく周りが動くことを期待していては、裏切られて当然です。
起きてくるすべての出来事はきっとあなたに対処できるものだと自信を持ちましょう。人生には積極性ばかりが注目されがちですが、不運に対する受け身が上手い人は人生の達人になれます。
人は裸で生まれ、死んでも持っていけるものはありません。
あなたが「持っている」と思っているものは、生きている間の「借り物」です。ありとあらゆるものがそうなのです。
家族、友人、仕事、趣味、家、気に入ってるもの、すべて当たり前のように存在しています。しかし、どれもいつかはあなたのもとを去ります。自分の身体・命でさえ思い通りにいきません。
人生への諦めを感じているあなたは、多くのものを失ったと感じているかもしれません。
たとえば、お金を持つどころか借金だらけで、仕事をしてもお金がたまらない。借金を知らなかったあの頃に帰りたい。
借金でなくても、何かを「抱えている」ことに苦しんでいるでしょう。その「抱えている」という感覚もまた、幻想なのです。たしかに「抱えている」ものがあると思っているかもしれません。でも、それについて苦しむかどうかはあなた次第です。だれもあなたに苦しめなんて思っていないし、思っている人がいるならその人はあなたより恐ろしく不幸です。
あなたの人生では、必要な時に必要なものが手に入ります。時期が来れば手放さなければなりません。いつまでも自分のものなんてないことを悟り、今てもとにあると感じているものを大切にしましょう。
旅人は旅宿で休みますが、旅宿は旅人の家ではありません。たとえばあなたがホテルの部屋に泊まるとき、その部屋の模様替えをしたり新しい家具を入れたりすることはありません。同様にして、あなたの人生に与えられたものを、まるで他人のものかのように扱いましょう。すると、執着がなくなり自由な気持ちでいられます。
「どうせ死ぬ」と考えることは、人生に無力感を引き起こすこともあります。一方で、無理に欲望することが少なくなります。
たとえば、世界中のお金を集めたとしても、人生はそのうち終わるのです。だからといって、どうせ終わるのだからお金が無意味かというと、そうではありません。生きている間、自分が有意義だなと感じたものにお金を使い、死ぬだけです。
他にも、「どうせクビになってもいいや」という姿勢で仕事をするなら、かなりリラックスして仕事ができます。これはサボってもいいというより、無理に気合いを入れなくて済むということです。気合いを入れても入れなくても、あなたはあなたです。無茶をしても限界がきます。「クビになったらまた新しい仕事探せばいいや。もし次の仕事に就けず食べていけないなら、それは神様にもういいんだって言われてるのかな」などと気楽に考えればよいのです。
人生は、求めたものが何もかも手に入るようにはできていません。「過去に戻りたい」と思っても、一生実現することはないでしょう。
「最悪」を想定することで、尽きぬ欲望を制御できます。人生を生きるコツは、欲望と上手く折り合いをつけることです。攻める時と守る時との切り替えに、「死」の存在はとても役立ちます。
生きていないと死ぬことはできません。
「死」を思えること、人生は「死」すら活かせること、不思議だと思いませんか?
あなたには、今のあなたにふさわしい仕事があります。当然、チャレンジすることを否定しているわけではありません。妥当だと思えるチャレンジをしていくのは良いことです。
でも、たとえばアインシュタインが大リーガーになろうと40歳から野球を始めたとしても、きっとなれなかったでしょう。アインシュタインにはアインシュタインの仕事がありました。
あなたにも何かしらの能力があります。能力の優劣は、人生を送るのにあまり重要ではありません。もしあなたが1時間でゴミを10個拾えるとして、一方ゴミ拾いの達人は20個拾えるとします。あなたがゴミを10個拾ったことは無駄でしょうか?そんなことはありませんね。
あなたが他人と比較してしまい、無力に感じて能力を発揮できなければ、もったいないことです。世の中には多くの会社があります。でも、世界で一番大きな会社があるからといって小さな会社が無意味ということはありません。それと同じで、あなたはあなたという人生の主人です。あなたなりにできることをやってみましょう。
人生を諦めて無気力になると、生きている意味を見失います。その時に、いざ死ぬわけにもいかず、本当にわずかな欲望だけが残ります。ご飯を食べよう、水を飲もう、動画を見よう、ヤフーニュースでも見よう、掲示板に書き込もう、などです。生きている以上、何もしないということは不可能です。
以前は楽しいと思っていたことが楽しくなくなったり、好きなものを見つけられなかったりします。それはそれでいいのです。
さまざまなことに意欲がなくなったまま死んだとします。意欲がないまま死んだ人間だということにすぎません。そういう人は過去に数えきれないほどいます。せっかく「自分だけの苦しみ」を享受している最中なのに、特別な人間でないことが悲しいでしょうか。残念ながらあなたの苦しみは、今までの人類の苦しみでもあったのです。
人生を諦めた人に効く特効薬はありません。気慰みの言葉も、世の中のいかなる薬も、根本的な解決にはならないでしょう。ではこのまま死ぬのか、悔しい、なんだかやりきれない。そんな最後の防波堤があなたにあるなら、それはあなたの本物の魂と言えます。
自分の心の奥底から湧き出るものに耳を傾け、ほんの小さな一歩を踏み出してみたっていいのです。あなたのリベンジを、未来で待っている人たちがきっといますよ。
そこにあるものや、運命によって与えられたものに不満な者は、生き方に教養のない人である。だがこれらを立派に辛抱し、それらに基づくものを筋の通るように使用する者は優良な人と見做される値打がある
引用:岩波文庫『人生談義(下)』エピクテートス 鹿野治助訳より
あなたはこれまで人生を歩んできて、持っているものや得意なことがあるはずです。お金があるなら使うこともできますし、空いた時間を見つけて好きなこともできます。
無い物ねだりや無理な願い、無駄な後悔をしても意味がありません。
今ここからスタートしましょう!
あなたにはあなたにしかないものがあるはずです。お金も時間も無限にはありません。しかし、あなたは今のあなたのままで新しいスタートを切れます。自分のやりたいと思ったことを、少しずつでもいいからできる範囲で進めていきましょう。「自分磨き日記」をノートに書き始めると面白いですよ。今はスマホでも自分磨きのためのアプリがあります。コツコツと続けていけば、気がつくと生まれ変わった自分になっています。
君のものでない長所は何も自慢せぬがいい。もし馬が自慢して「私は美しい」というならば、それは我慢できるだろう、だが君が自慢して「私は美しい馬を持っている」というならば、いいかね、君は馬の優良なことを自慢しているんだ。ところで君のものは何かね
引用:岩波文庫『人生談義(下)』エピクテートス 鹿野治助訳より
立派な家・高級な服・豊かな財産・誇れる地位・高学歴などは、すべてあなたの外側にあるものです。世間ではこれらのある人が尊敬され、あなたも羨ましいと思っているかもしれません。
しかし、あなたはあなたのうちにあるものを磨くべきです。
たとえば、自分磨きの動機が間違っている例を挙げてみます。なんとなくみんながやってるから英会話をはじめる、モテるために外見にお金をかける、友達に見せるために高級車を買う、などです。これらはすべて「他人から見て自分がどうか」を気にしています。羨ましいと思ってもらおうとしたり、好意を手に入れようとしたりするのはやめましょう。結局そのように他人のことばかり見て自分の内側に目を向けなかったから今の状態があるのです。
自分ではどうにもならない「他人の視線」のために自分磨きをしてはいけません。先の例では、英会話でも元々やってみたかったことであれば挑戦するべきです。外見でも、自分が何とかしたいと思っていたり、車でも自分の満足のために欲しかったら買ったりするのも良いでしょう。でもそれらは、「他人にこう思ってもらいたい」というきっかけでスタートしてはいけません。
あなたの心の声を聞き、本当にやってみたかったことを自分のためだけにやりましょう!
肉体に関する事柄で時間を費すこと、例えば長時間運動をしたり、長時間食ったり、長時間飲んだり、長時間排便したり、長時間交接したりすることは才のないしるしである。しかしこれらのことは余事としてなさねばならぬ。君の全注意は心に向け給え
岩波文庫『人生談義(下)』エピクテートス 鹿野治助訳より
今までやったこともない運動を無理にしたり、失恋やストレスを言い訳にして暴飲暴食をしたりするのはやめましょう。確かに運動することも食事することも大切です。でも、それらを自分が見失うほどむさぼってはいけません。
何事も、ほどよくやるのが良いのです。好きなことに没頭するのは素晴らしいことです。しかし、常に心の中では物事に対する距離感を感じて、冷静でいましょう。
進歩した者のしるし ー それは彼が何人をも咎めず、何人をも褒めず、何人をも非難せず、何人をも責めず、自分自身についてひとかどの者であるかのようにも、何かを知っているかのようにも話さないことである
岩波文庫『人生談義(下)』エピクテートス 鹿野治助訳より
あなたは今までにさまざまな経験をして、「自分磨きをしよう!」と思い立ちました。「あいつに馬鹿にされた」「あいつに振られた」「こんな自分じゃダメだ」など、悔しい思いをたくさんしたと思います。
しかしそんな自分を責めても、あるいは他人を責めても現状は変わりません。くわえて、誰にも罪はないことがほとんどです。みんな必死に生きていて、周りを見る余裕もありません。
あなたも、他人も不完全です。だからこそ、向上しようと思うのです。謙虚な気持ちを忘れず、あなた自身が新たに一歩を踏み出せるようにがんばりましょう!
君はもう子供ではなくて既に一人前の大人なのだ。今もし君が不注意でだらしなく、君が君自身に注意する日を次々と定めていつも延期に延期を重ねるならば、君自身はそれと気づかずに進歩することなく、生きても死んでも普通の人として終ることだろう。だから君自身をもう完成し、進歩しつつある者として、生きるに値すると思うがいい、そしてすべて最善と思われるものを君に対して不可侵の法則とするがいい
岩波文庫『人生談義(下)』エピクテートス 鹿野治助訳より
あなたはいつの間にか大人になりました。あなたにあれこれと注意してくれる人は少なくなっていることでしょう。大人は、自分の生き方に自分で責任を持たなければなりません。あなたが変わりたいと思ったら、あなたが自分を変えていくしかないのです。
あなたを向上させられるのはあなただけで、それができなければなんでもない普通の人となります。いつまでも妥協し、いつまでも甘え、いつまでも変わらない。
そんな日々を新しくする挑戦があなたにはできます!
あなたの人生の主役はあなたなのです。
心から歩んでいきたいと思う道を、勇気を持って歩んでください!
新潮文庫のショーペンハウアー著「幸福について ー人生論ー」からショーペンハウアーの名言を引用しています。ショーペンハウアーは19世紀ドイツの有名な哲学者で、偉人です。哲学というと難しく感じるかもしれませんが、そんなことはありません。ショーペンハウアーは他人との接し方や考え方についてわかりやすい言葉で説明してくれています。
当記事ではショーペンハウアーの名言集にもなっているので、ショーペンハウアーの言葉に興味がある人にも役立ちます。
人間関係の悩みを解決するための極意がここにはありますので、ぜひ参考にしてみてください。
6. 気を遣いすぎない
7. 無理やり関わり合うことはない
8. 簡単に人を信じない
9. 一歩引いて見つめる
10. 自分を良く見せようとしない
11. 自分のことは見えていないのが人間
12. 賢さを表にださない
13. とにかく挨拶とお礼を言う
14. 人に説教しない
15. 腹は立てずに冷静に言う
16.自分のことをしゃべりすぎない
人々とともに生きていかなければならない以上、どんな個性をも、どんなに劣悪で憐れむべき愚劣な個性をも、絶対的に排撃することは許されない。個性は何といっても自然によって定められ与えられたものだからである
ずいぶんひどい個性だと思われる場合には、「こうした変り者もあるものだ」と思うがよい。そう思わなければ、相手を侵害して生死を賭ける闘いを挑むことになる。なぜかというに、相手の真の個性すなわちその道徳的性格・認識能力・気質・人相などは、誰もこれをかえることができないからである
職場でも学校でもさまざまな人間関係があり、1人1人が違う人間です。どんな人にも個性があるため、その個性を否定してしまっては、自分の個性も否定することになってしまいます。
なので、他人の個性や人間性を否定しようものなら、それは自然との闘いとも言うべき命がけのことになります。人間性というのは、そうなるべくしてなっているので、無理に変えようとするのは困難です。
同じ人間といえども生まれも育ちも全く違うので、人間どうしうまくいかなくて当然だくらいに思っていたほうがいいでしょう。
「われも生き、人も生かす」という言葉の真の意味はここにある。とはいえ、この要求は公正ではあるが、実行は容易ではない
相手によっては「性質を変えるわけにはいかぬが、まあ利用してやろう」と考えるのが、いちばん賢明な場合が少なくない
もちろん他人にも自分にも個性があるので、個性を出し合えるのがベストです。まずはじめはお互いがやりやすいように、個性を発揮できるような環境にしていくべきでしょう。
しかし、それは理想にすぎず、うまくいかない場合もあります。環境を上手く変えることもできず、苦手な人や仲良くない人といなくてはならない。まさにこの世の地獄!!!
どんなに願っても、相手の人間性は変わらないんです。諦めます。そのかわり、その人間をよく観察して、自分に利用できるかどうか見てみましょう。相手への好き嫌いではなく、「自分の利益になるかどうか」という視点だけで人間関係を考えてみてください。
仕事や学校で仲が良いと思っていた人でも、ひょんなことからすれ違うことがあります。お互いに罪はないのに、タイミングが悪くて誤解が生まれたり、勘違いしたりします。
でもだいたいは、誤解や勘違いであることがわかると時間が解決していくはずです。人間は、その時の気分や体調、忙しさなどに左右されています。バタバタしていれば余裕がなくなりますし、こちらの考えもつかないことが原因で相手の機嫌が悪くなっていることもあります。
つまり、たとえちょっと雰囲気が悪くなったとしても、一喜一憂しないようにしましょう。考えすぎないようにしましょう。うまくいかないときはうまくいかないんです。人間誰しもそういうことはあるんです。そういうものだと思って静かにしていれば、時間が解決してくれます。
相手のことをわかっているつもりでも、あなたなりに理解しているにすぎません。逆も同様で、他人も他人の頭でしかあなたを理解できません。
仕事、職場で言えば上司には上司なりの、部下には部下なりの立場や考えもあり、一見ふらふらしていてもあなたが知らないところで苦労しているかもしれません。
結局、自分は他人を一面的にしか見れないことを理解しておくべきです。一部しか理解できていないのにわかった気になっていても、うまくいかないのは目に見えています。一方、相手も自分のことの一面しか見ていないのだから、何かを言ってきても気にしないようにしましょう。その人はあなたのことを大して理解もしていないのにいろんなことを言う未熟な人なのです。何もかも真剣に聞いてあげる必要はありません。
人間関係において、上手く聞き流して気にしない技術も大切です。
大部分の人間が情操も才能も全く低級で、したがって全く月並みな人間であることを思えば、それを話相手にするには、その間だけはみずから月並みになるほかない
大抵の人間はきわめて主観的で、したがって全く自分だけよりほかには結局何一つ彼らにとって興味のあるものはない
人はそれぞれ考えるレベルが違います。もしあなたが相手よりも高い次元で考えられるなら、相手に同じことを求めてはいけません。高いほうが低いほうに合わせなければ、低いほうは理解できません。あなた自身が相手の理解力に合わせてあげましょう。
一般的な人は常に自分の視点でしか物事を見ていないので、「相手にとって利益になるかどうか」を加味して言葉をかけましょう。全体のことなどは考えていない人が多いですが、自分の利益になるなら人は動きます。そういった人間の性質を理解していると、物事が進みやすくなります。
甘やかせばつけあがる点では、人間はすべて子供みたいなものだ。だから人に対しては寛大過ぎても、やさし過ぎてもいけない
「人を重んじない者は重んじられる」という気の利いたイタリアのことわざがある
犬でさえ親切にし過ぎると、なかなかおとなしくはしていない。まして人間をやである
人にはとにかく優しくしようと思っている人もいるでしょう。きっとそんな人はいい人です。もちろん、人間どうし気を遣い合いながら優しくやっていけるのが理想です。でも、優しくするだけでは相手が甘えてしまうのも事実です。「この人は怒らないから」と自分勝手なふるまいをする人には困ったものですよね。
しかしあなたがなんとか優しくしようと気を遣うあまり無理がきて、「人間関係をリセットしよう」「人間関係の断捨離だ!」などと極端な行動に出てしまえば、せっかくの人間関係が水の泡です。人と人は、出会うべくして出会っているからです。
今、優しくしようしようと心がけている人は、いっそ他人のことは他人に任せて放っておこうという意識を持ってください。おせっかいを焼くのではなく、大きな意味で信頼するのです。必要があれば助けを求めてくるでしょうし、相手が一人でできることなら「一人でやってみてね」と言って、勇気を促すことも必要です。しなければならない指示や連絡があればします。あとは、あれこれ気を遣うことをやめましょう。
こちらが気を遣わないことで、逆に向こうが自分を大事にしてくれるというのは皮肉なものです。過剰に人の気持ちや人の行動を気にしてる人の中には、たんに臆病であるからという人もいます。それゆえに、むしろ人に気を遣わず堂々としている人が「重んじられる」のです。
ごく普通の人は自分のことしか考えていないし、立派な性格をしているわけでもありません。自分勝手なふるまいが当たり前になっていたり、いじめたり、悪口を言い合ったりしています。
無理にみんなと仲良くなろうとする人は、そういう人たちとも仲良くならねばならないことになります。あなたが今どんなに性格が良くても、性格が悪い人たちの間にいれば、どんどん悪くなっていきます。
本当に仲良くなれる人や、交際を続けていきたいと思える立派な人、尊敬できる人は少ないです。不必要に関わり合いを持たないほうが正解です。それは人間的に冷たいということにはつながらないのです。
自分の世界をしっかりと持ちましょう。
もしあなたが初対面から一週間ほどしか一緒にいなかった相手に「あなたのことはすべてわかった」と言われたらどう思いますか?そんなはずはないって思いますよね。たとえ一緒の時間が長い相手でも、知らないことは意外にあるものです。
他人の性格や癖などは、簡単には分からないので、知り合って間もない人を「あの人はいい人だ!」なんて思い込まないようにしましょう。
そう思い込んで期待を裏切られても、相手は悪くありません。
好きや嫌いの感情からいったん離れて相手を見つめてあげると、自然にほどよい距離ができてきます。はじめから無理に距離を近づける必要はありません。
ゆっくりじっくりも、円滑な人間関係に大事なことです。
仕事の仲間どうしでも、やり合う人たちは足の引っ張り合いをしていたり、大人しい人たちでも陰でさまざまな情報戦をしています。
学校でも、表向きは仲良くしているけど、裏では悪口を言っていたり、いじめがあったりします。
人間関係というのは一筋縄ではいかず、ある意味で人間どうしは争う運命にあるのです。
そんな争いの真っ只中に入って、当事者として消耗するのはなるべく避けましょう。争いたい人には争わせておけばよいのです。そのような争いは起こるべくして起こるのであり、人間とはそういうものだと思っていたら、翻弄されることはなくなります。
心の中だけでも、一歩引いて状況を見つめるようにしましょう。
あなたがいい人を演じていても、ゆくゆくは素のあなたが出ます。あるいは上手く演じられているつもりでも、他人から見ればもう化けの皮は剥がれているかもしれません。
一生懸命やることはいいことですし、「評価されたい」と精を出すのは悪いことではありません。しかし、無理が多くなると「がんばっている自分だから評価されているんだ」と思い込むようになり、うまく力を抜くことが難しくなります。
不思議なことに、気を遣いすぎて「演じている」人よりも、失敗していても素でいる人のほうが好かれたり信じられたりします。どっちにしても素がバレるなら、小出しにしていくのもありですよ。
自分にもたくさん欠点があるにもかかわらず、他人の欠点ばかり指摘する人がいます。自分のことは棚に上げまくるのが一般的な人なのかもしれません。
人には欠点があり、間違えることもあります。もちろん、仕事の上で必要な指摘をしたり、やむを得ず注意することはあるでしょう。しかし、必要以上に相手を責めたり怒ったりしないようにしましょう。そんなことをしても相手は変わりません。人間関係を悪化させるだけです。
「私にも欠点はあるな」「私もはじめは間違えてばかりで苦労したな」などと思うことで、相手を許してあげることができれば、あなたのストレスは軽くなります。
知性や分別によって憎しみやうらみをかき立てられるのが、絶対多数の人間である
グラシアンが「人気を得る唯一の手段は動物中の最も愚かな動物の皮を着ることである」と言っている
自分の頭の良さをひけらかす人が嫌われるのは当たり前ですが、わかる分野のことをちょっとひけらかすだけでも、他人は心の底ではそれほどいい思いをしません。もちろん程度にもよります。「へぇー、物知りだね〜」とか「詳しいね!」などとフォローしてくれることはあるでしょう。
しかし、やがて相手はあなたが披露した知識を知らないことに対して劣等感を抱くようになります。そして聞いてもいないのにしゃべっていては、反感を買ってしまいます。
あなたは、一緒にいれば自分がみじめに思えてくるような相手と親しくなりたいと思うでしょうか。なりたくないですよね。
知っていても、それほど多くを口に出さないでおくというのも試してみましょう。
相手が知らないうちに何かを助けてあげたことありますよね。きっとあなたもあなたの知らないところで他人に助けられています。
特に普段から周りにいる人には、お礼を言っておきましょう。お礼を言われて怒る人はそういません。お礼を言って、「え、なんのこと?」と言われるかもしれませんが、かまわないのです。むしろなんでお礼を言われてるのか相手がわからないほど言いましょう。
自分が知っている世界だけがすべてではなく、いろんなところで人は関わり合っています。「ありがとう」と言うことで、心地よい人間関係を築けます。
同様に大切なのが挨拶です。お礼よりも挨拶のほうが日常生活では多いかもしれません。残念ながら、世の中には挨拶程度のこともできない大人がたくさんいます。信じられないことですが、「おはようございます」と言っても「おはようございます」が返せないのです。
なので、挨拶がきちんとできるだけでもあなたは人間関係を有利に進めていくことができます。こまめにいろんな立場の人に挨拶しましょう。たとえば掃除の人や警備の人、受付の人など、自分の周りを支えてくれている人に気持ちよく挨拶できるといいですね。
人の信ずる不合理を一々説いて思いとどまらせようなどと思ったら、メトセラほどの高齢になっても、けりがつくまいということをよく考えてみるがよい
いかに好意があっても人を矯正する意味の言葉は、対談の際、いっさい慎むがよい。人の感情を害するのは容易だが、人を矯正するのは不可能とまではなかなくても、困難だからである
不合理なことを話しあっているのを聞かされる羽目になって、癇癪がおきそうになったら、これは二人の道化者の間に交わされる喜劇の場面だというふうに想像してみる必要がある
人が星占いや血液型占いの話をしているのを聞いて「それって科学的根拠ないでしょ?」のようにわざわざ話していては、誰もあなたに近づくことはなくなるでしょう。あなたにとって価値がないように思われるものでも、他人にとって価値があるものはたくさんあります。
あなたの考えだけがすべてではないので、何か違うなと思っても、そっとしておきましょう。議論していてはただただ年月が経つだけで、意味はありません。たとえ教え諭したとしても、相手が納得する可能性は低く、怒ってしまいます。
つまり、よっぽどのことでもない限り、他人へ忠告すべきではありません。自分にも他人にも利益にならないからです。大人は、誰のためにもならないようなことはやりません。
なるべく誰にも腹を立てぬがよい
怒りでも憎しみでも言葉や表情に表すのは、無益である。危険である。愚かである。笑止である。低級である。だから怒りでも憎しみでも行為に表す以外に、決して表してはならない
自分の判断を人に信用してもらいたければ、冷静に、激情をまじえずに述べるがよい
自分の言うことを相手に受け止めて欲しければ、冷静に言わなければなりません。
怒り混じりに何かを言っても、相手は内容ではなくあなたの怒りの感情に目を向けます。言っている言葉に喜怒哀楽が多すぎると、内容が伝わりにくくなります。たとえば相手がイヤミを言ってきたとしても、こちらが冷静であれば、向こうはしてやられたようになります。
あなたが動じず冷静に言うことによって、相手の感情は鎮められ、結果的にあなたの言い分が通る可能性が高くなります。
自分の身辺のことは秘密にすべきものと心得るべきである。善良な知人に対しても、その人が目で見てわかる以外の事柄は、何も知られないようにしておかねばならない。どんな他愛のないことでも、それが知られたために不利になることが、時と場合によってはあるからである
処世術を説くすべての人たちが、多種多様な論拠を挙げて、きわめて熱心に寡黙ということを薦めてきた
特に印象の強いアラビアの格言をほんの二三記すことにしよう。
「敵に知られたくないことは、味方に言うな」
「自分の秘密を黙っていれば、秘密は自分の捕虜である。秘密を洩らせば、私が秘密の捕虜になる」
「沈黙の木には平和の実がなる」
どんなに親しい家族や友人であっても、あなたが隠しておきたい秘密や思いをしゃべってはいけません。他人にしゃべってしまったら、それはあなただけの秘密ではなくなります。秘密を打ち明けられた人はさらにまた自分の親しい人にしゃべってしまいます。
秘密や思いをどうしても自分の中にしまっておけず、共有したい気持ちはわかります。
でも、あなたのすべてを他人と共有するわけにもいかないでしょうし、する必要はありません。
自分のことを話し一時的に楽になったとしても、それによって得られる利益がどれほどあるかを考えて話すべきです。そのような慎重さを持たなければならないのが大人です。
親しくもない人に、むやみやたらと自分の考えや目標や夢などを語らないほうがいいでしょう。親しい人に対しても、言える内容と言えない内容を区別し、あとで問題が起こらないようにしておきましょう。
]]>岩波文庫、エッカーマン著『ゲーテとの対話(上)』より引用している。
人生何事も、成功しようとするなら、最後までやりとおさねばならない
巨匠の域に達するために、じっくり仕事をつづけるだけの忍耐と才能と勇気を心中に感ずることのできる者は、ほとんど一人もいないことはたしかだ
何かをどんなに上手くやっていても、途中で投げ出しては意味がない。本当に苦しくやめてしまいたいと思うことはよくあるが、なんとか踏ん張ってみよう。
自分の才能から出てきた物事だとしても、やり通すには我慢や忍耐がいる。成功した人は、他の人達が諦めたようなところでも諦めず、最後までやりとげたのだ。
要するに、君は、散漫にならぬように注意して、力を集中させることだよ。私にしたところで、三十年前にこれだけの賢明さがあったなら、まるっきり別の仕事をやっただろう
君にとってなんの成果にもならぬこと、君にふさわしくないようなことは、すべて放棄したまえ
世の中には誘惑が多すぎる。特に現代ではインターネットやスマートフォンの普及により、無料でも多くの娯楽を享受できる時代になった。
だからこそ、現代では何かに集中することが難しくなった。それほどお金をかけなくても楽しいことがすぐに見つかり、手軽なため、すべきことがある場合にも気がそれてしまう。たとえば、現在の職に満足せず、新しい職を得るための勉強をしていても、仕事が終われば動画サイトなどをぼうっと眺めて一日が終わる。いつの間にか本来やりたいことを見失い、今が楽しければそれでいいと(いや、今日を乗り越えるので必死なのかもしれない)、徐々に堕落していく。通勤電車で勉強しようと思っていても、今日だけはいいだろうと自分を甘やかしてしまい、それが日常となってしまう。
誘惑でなくても、現代では職業の自由がある。さまざまな職業があり、自分にあった天職を求める人も多い。やりたい仕事は何なのかわからないまま、しかし今の仕事ではないような気がして、日々を過ごす。やめる自由も続ける自由もあるなかで、今の仕事でいいのかと悩む。
これらの悩みは、これからも人類の悩みであり続けるだろう。無限の選択肢の中で、あっちにいったりこっちにいったりする。
ゲーテでさえ、人生の中で力の使い方に悩み、注意散漫となった。さまざまなものに手を出した。しかし、そんなゲーテは振り返る。
「もっと若いときにあるひとつのことに集中していれば、もっと多くの成果を残せただろう」と。
それゆえに、ゲーテは忠告している、「注意散漫になるな、余計なことはしなくていい、自分にふさわしくないことはするな」と。
あなたの心の声はあなたにしか聞こえない。心の声に耳を傾け実行するのは、あなたにしかできないのだ。
いろいろなことに気が向き、惑わされるだろう。仕方ない。みんなそうなのだ。しかし、戻ってきてほしい。
世界には多くの場所、経験、楽しさがある。それらを体験することこそ、人生の醍醐味だと思うかもしれない。
だが、世界や人類に貢献するためには、限定されたことに焦点をしぼり、集中して仕事しなければならない。人生の時間は限られていて、今のあなただからこそできる仕事がある。それはきっと心の奥底では気づいている何かなのだ。その何かをつかみ、自分にしかできない仕事ができていると感じるとき、真の幸福は訪れる。
さしあたっては、いつももっぱら小さな対象ばかりを相手にし、その日その日に提供されるものを即座にてきぱきとこなしていけば、君は当然いつでもよい仕事をはたして、毎日が君に喜びをあたえてくれることになるだろうよ。
とにかく差し当たって大物は一切お預けにしておくことだね。君はもう十分に長いあいだ努力を重ねてきたのだから、今は人生の明るいのびのびしたところへさしかかったときなのだ。これを味わうには、小さな題材を扱うのが一番だよ。
人間はなぜ生きて死ぬのかといった哲学的問題、宇宙の成り立ちなど、途方もなく大きな問題ばかり考えてはいないだろうか。
それらこそ大事であり他に大事なものなどあるのだろうかと、考えても答えはない問題に取り組み続けてはいないだろうか。
おそらく、あなたは十分すぎるほどそういった問題を考え苦しんだ。
このへんで、小さな、身近な対象に焦点を向け直そう。そして、大きなことを考える機会を将来の自分に託してみてはどうだろう。
将来の自分が答えを出せるかどうかはさて置き、人生の現実的なことを、できることからはじめてみよう。どんな小さなことでもいい。朝起きることや、ご飯をしっかり食べることなど、あなたにできることはあなたが一番わかっているはずだ。大きくなくていい、小さなことをやってみよう。
一般的なものに留まっているかぎりは、誰にでも模倣されてしまうが、特殊なものは、誰もわれわれの模倣をすることができない。なぜかといえば、他の人たちはそれを体験していないからだ
特殊なものは人の共鳴を呼ばないのではないかと心配する必要はない。すべての性格は、どんなに特異なものでも、みな普遍性をもっているし、描かれうるものは、石から人間にいたるまで、すべて普遍性をもっている。なぜなら、万物は回帰するのであって、ただの一度しか存在しないものなんて、この世にはないからだ
重要なのは、小さなものの中に、もっと大きなものを認めるための目と世間知と洞察力を十分持ちあわせていることなのだね。
会社で新しい企画を考えなくてはならないとき、学校で催し物をするときなど、つい今までに上手くいったものから考えたり、人がよく思いつくようなもので安心感を得たりすることがある。他には、自分だけの人生を歩みたいはずなのに、進学するべきか就職するべきかなど、周りを見て左右されることがある。自分で何か作品を作りたいとき、自分でものを書いてみたいときに、あまりにも自分が特殊すぎて自信を持てないこともあるかもしれない。
しかし、自分の欲求や夢、願いなどが特殊であればあるほど、個性的になる。
どうせ自分にしかわからないだろうからと、生じた欲求を押し込めてはならない。思い切って表現してみるべきだ。むしろ、誰にも理解されないと思うものほど表に出してみよう。そして、それはどんなものであったとしても、何らかの意味やほかのものとの共通性がある。
たとえば、野球選手とサッカー選手では全くスポーツの種類が違うが、一流の人が言う言葉は共通しているなと思ったことはないだろうか。野球やサッカーでなくてもいい。
つまり、物事の表面が違っていても、行き着く先は同じである。だから、あなたがどんな特殊なものを極めたとしても、必ず普遍的なものがあるから、安心して打ち込んでみよう。
これが果たして将来の私の全集におさめるだけの値打ちがあるかどうかを、私は知りたいわけなのだ。私自身はこれともうあまりにも距離ができすぎてしまっているので、判断ができないのさ
ゲーテが自分の若い頃の作品のどれを全集に入れようか悩んでいる時、エッカーマンに発した言葉。
若い頃の感覚と、年老いた今の感覚との違いを客観的に認識し、自分が判断できないものに関しては、判断できる人に任せている。
私たちも迷ったり悩んだりしたときに、自分だけではどうにも決めることができないことがある。そんなときは、いっそ信頼がおける人に相談してみて、その答えをもとに行動してみてはどうだろうか。
どんなすぐれた人たちでも、大家の才能をもち、この上なしの立派な努力を重ねる人たちこそ、大作で苦労する。私もそれで苦労したし、どんなマイナスを経験したか、よくわかっている
長期スパンの大きな仕事をする、時間も手間もかかる作品を生み出すなど、誰しも大きなものに立ち向かうときがあるだろう。
賢明なゲーテでさえ、大作に苦労した。学生であれば、卒業論文などを例に出せるかもしれない。書いたことがないような文章量、内容で、果たして終わりがあるのか、きちんとまとめきることができるのかと、不安になる。完成させないと落ち着かず、完成できなければそれまでの努力も水の泡になってしまう。大作に取り組んでいる間は、その大作に翻弄される。
大作で苦労するのは、どんなに能力がある人でも同じなのだ。簡単に大作を生み出せる人はいない。コツコツ積み重ねて努力をし、あせらずに進もう。
現在には現在の権利がある。その日その日に詩人の内部の思想や感情につきあげてくるものは、みな表現されることを求めているし、表現されるべきものだ。
現在のあなたの気持ちや思いを大事にしよう。それは、今だからこそ持っているもので、決して否定されるものではない。
確かに10年や20年経ったら今の気持ちなど忘れてどうでもよくなっているかもしれない。
しかし、今のあなたを認識してあげることは大切だ。できるなら、日記帳でも携帯のメモでも現在の状況や気持ちを書き留めてみよう。将来振り返った時に、想い出深いものとなるに違いない。
彼らの多くには、軽妙な生きいきした描写の能力が欠けているよ。自分の力以上のことをやろうとばかりしてね。この点で、私は彼らのことを無理をする才能とよびたいのだ。
自分をよく見せようと、人は自分の力以上のものを他人に認めさせたがることがある。向上心は自分の能力や自信を高めることがあるが、背伸びをしすぎてしまうと肩に力が入ってしまう。
普段どおりリラックスしてやるほうが結果的によくできることも多いのだ。小難しく考えるのではなく、気持ちを素直に感じて、気張らずにやってよいのである。
私の常として、すべてを静かに胸にしまって、完成されるまで誰にも知らせない
あなたの心の中には、人には言えない夢や希望があるだろう。言いたい気持ち、誰かに理解され応援してもらいたいと思うのは自然なことだ。むしろ現代では有言実行という言葉があるように、宣言することで自分を鼓舞することすら推奨されている。
だが、本当に大事な気持ちは自分の中にしまっておこう。他人に言ってしまうと、何もないかもしれないが、あなただけにある気持ちではなくなってしまう。
ひそかな夢や希望は、他人に知ってもらう必要がない。自分で持っていれば十分だ。他人に不必要に晒して折られてしまっても、気持ちはもとどおりにならない。
人との共有や共感が大事な場面もある一方で、口を開かないでおくということも同じくらい大事である。
つらい思いも忍耐も学んできた
苦労と仕事以外のなにものでもなかったのだよ。七十五年の生涯で、一月でも本当に愉快な気持で過ごした時などなかったと、いっていい
有名人がテレビなどでちやほやされているのを見て羨ましく思うことがあるかもしれない。しかし彼らは人知れないところで人々の想像を超える努力をしている。
ゲーテですら、つらい思いや忍耐の日々で、「苦労と仕事以外のなにものでもなかった」と人生を振り返っている。
何かを成し遂げた人というのは、何かを犠牲にしていること、遊びほうけながら富や名声を獲得したのでは決してないことを覚えておかなければならない。
むろんあなたもそういう人物になりたいと思うなら、多くのことを犠牲にする覚悟が必要だ。
精力を散漫に浪費しないように注意すれば、彼は、相当なものになれるだろう
才能があるだけではどうにもならない。
たとえばあなたにフィギュアスケートをする世界一の才能があったとしても、スケートすらしたことがなく、周辺にスケート場がなければ才能に気づくこともないだろう。
自分の中にある才能を運良く見つけられたとしたら、徹底的に磨こう。才能とまで言わなくても、得意だと思うことや、これだったら精神的負担が少なくがんばれるといった物事に取り組もう。
そして最も大事なのは、注意散漫にならず集中することだ。
どんなに勉強の才能があっても、勉強時間がほとんどなければ、試験に通ることは難しい。たとえ仕事で多くの収入を得ていても、浪費が激しければ億万長者にはなれない。
「相当なもの」になるためには能力だけでなく集中して取り組む環境や心が大事なのだ。
実際、人間には、自分がその中で生れ、そのために生れた状態だけが、ふさわしいのだからね。偉大な目的のために異郷へかりたてられる者以外は、家に留まっているほうがはるかに幸福なのだ
世の中にはさまざまな人がいる。
地方から都会に引っ越して一旗あげようという人や、海外に出ていく人、東京生まれ東京育ちで地方に住んだことがない人、田舎で生まれ仕事をして生涯を終える人など、多種多様だ。
生き方には、正しさも間違いもない。冒険に出ていきたい人は、心にどうしても嘘がつけなくて、冒険へ出る。冒険に出かけなければならないわけではない。やむを得ない人だけが冒険へ出るのだ。もしあなたにそのような感情がない場合、冒険する必要はない。
結局は各々が、自分の心の要求にしたがって行動すればよい。
一方をやれば、他方はおろそかになり、忘れられてしまう。だから、賢明な人というものは、気を散らすような要求は一切しりぞけて、自分を一つの専門に限定し、一つの専門に通暁するわけだよ
同じ仕事にしてみても、さらにその中に何種類かあるのが普通だ。たとえば医者にしても、内科と外科では違うし、耳鼻科と皮膚科では違うだろう。
では、歯と耳鼻と皮膚と精神の専門家になろうという医者がいたとして、成功するだろうか。どれかの分野では知識や技術が弱くなってしまう。
確かに興味があることは何もかもしてみたいのは普通で、「挑戦」という言葉を借りるなら肯定されることもあろう。
だが、ついには中途半端になってしまう。中途半端が悪いのではない。
もしあなたが一つのことをやっていれば、到達できるのが100として、注意散漫になってしまったら50や60になってしまう。もったいないのだ。
あなたの100の到達点でなければ救われない人たちがいる。あなたの能力の開花を待っている人たちがいる。だから、やるべき領域を限定し極めることが大切だ。
時代というものは不思議なものだよ。暴君のようなもので、むら気であり、世紀がかわるたびにひとの言動に対して、別人のような顔をしてみせる
かつて江戸時代の日本は鎖国されていて、自由に海外との交流ができなかった。今となってはどうだろう。
以前正しいとされていなかったことが今では正しく、かつて正しいとされていたことが正しくなくなっている。
昔だと普通だったことが現代では問題になるなど、時代によって人々の意識は変わる。
今あなたが批判や非難を受けていたとしても、現代の人々の気まぐれかもしれない。いやおうなく聞こえてくる周りの意見もあろうが、絶対的だと捉える必要はない。あなたはあなたが思う道を歩き、あなた自身が理解していればよいのだ。
世の中の状況というのは、永遠に、あちらへ揺れ、こちらへ揺れ動き、一方が幸せに暮らしているのに、他方は苦しむだろうし、利己主義と嫉みとは、悪霊のようにいつまでも人びとをもてあそぶだろうし、党派の争いも、はてしなくつづくだろう
いちばん合理的なのは、つねに各人が、自分のもって生れた仕事、習いおぼえた仕事にいそしみ、他人が自分のつとめを果すのを妨害しないということだ
たとえばデパートが田舎に進出してきたら、その地域の商店街の人達はお客さんを奪われるかもしれない。一方で、デパートで働きはじめた人たちは家族を養い、幸せに生きていけるかもしれない。
状況というのは、「永遠に、あちらへ揺れ、こちらへ揺れ」動くものである。
どこかの会社の利己主義はどこかの会社を蝕むだろうし、そうしてみんな生きている。100円の原価のものを1000円で売ることに罪悪感を抱いていては、商売あがったりだ。仲間をつくっては自分たちの利益を追い求め、違う集団と対立する。そんなことを繰り返しているのが世界だ。
そういう世界で唯一「合理的」なのは、それぞれの人間が自分の仕事を全うすることだ。
他人にしてみても他人なりにつとめがあるわけで、それを邪魔しないようにすることが大切だ。
争ったり憎み合ったりするかもしれないが、それはお互いがやりたいようにやった結果生じる仕方ないものだ。やるべきことを自分がやれているのなら良い。
利己主義や嫉み、争いまでも否定してしまっては、人間は何もすることができない。衝突を恐れてはならない。やるべきことをやり、相手にもやるべきことをやらせてやる。
現代で具体的に言うなら、スポーツマンシップだろう。お互いに敬意を払い全力を尽くし合う。スポーツでなくとも、そのような意識が大事だ。
霊魂不滅を信ずるものは、ひそかに幸福にひたっていればいいので、それを自慢するいわれなどないのだ
森羅万象の中に理性をもちこもうとしても、人間の卑小な立場からでは、全くの徒労に終るだけだ。人間の理性と神の理性とは、まるっきり違ったものだからね
死を考えても、私は泰然自若としていられる。なぜなら、われわれの精神は、絶対に滅びることのない存在であり、永遠から永遠に向かってたえず活動していくものだとかたく確信しているからだ。それは、太陽と似ており、太陽も、地上にいるわれわれの目には、沈んでいくように見えても、実は、けっして沈むことなく、いつも輝きつづけているのだからね
君が生涯の信念としてもてることを教えてあげよう。自然の世界には、われわれが近づきうるものと近づきえないものがあるということだ。これを区別し、十分考慮し、それを尊重することだ。(中略)これがわからない人は、おそらく一生涯、近づきえないものに取りくんで苦労し、結局、真理に近づくこともできないだろうよ。ところが、これを知る賢い人は、近づきうるものだけをよりどころにするだろう。
あなたはいずれ死ぬ。しかし、生き物は生まれては死ぬことを永遠に繰り返しているのであり、「あなた」という生は終わっても、生命の死ではない。
ある日生を受けて、ある日死を受ける。生命は生死の繰り返しの中にある。たとえ地球がなくなったとしても宇宙のどこかで、あるいは何兆年でもかけてまた地球のような星と生命が生まれる。
あなたはあなたの人生を終えたとしても、完全に終わりではない。すべての生命の連鎖の中にいる。
ある国で太陽が昇っている時、ある国では太陽が沈んでいる。太陽は変わらず輝き続けているが、見え方が変わっているだけなのだ。
同じように人間の生死も、その姿かたちが変わっているだけで、生命の泉はいつも輝いている。
理性では理解できない大いなる存在があると認めたとき、それは他人に言わなくても自分で享受していればよい。
人間が誇る科学でも、現象を説明することはできるかもしれないが、根本的になぜそのような現象があるのか説明することはできない。たとえば宇宙がどのようにしてできたか説明できたとしても、なぜ宇宙がそのようにしてできる状況にあったのか説明することはできない。人間に目は2つあるが、なぜ10個や20個でないのかは説明できないように、人間が理解できることは少ない。
ただ、想像もつかないようなことがこの世界、宇宙にはあると思うことはできる。わかることとわからないこと、できることとできないことの区別を知るとき、あなたは追求すべきものを知る。そのときに初めて、人間ではどうしようもできないことに対する追求をやめる。それこそが、人間の成熟だ。
この世ですでにれっきとしたものになろうと思い、そのため、毎日毎日努力したり、戦ったり、活動したりしなければならない有能な人間は、来世のことは来世にまかせて、この世で仕事をし、役にたとうとするものだ。その上、不死の思想などというものは、現世の幸福にかけては、最も不運であった人たちのためにあるのだよ
この世で「すでに」れっきとしたものになろうという、この「すでに」という部分が面白い。人間として無限に生命を受けることができるなら、必ずしも今の人生でがんばる必要はないとも言えるかもしれないからだ。
しかし、今の自分のこの人生、つまり「この世」でれっきとしたものになろうとするなら、死んだ後のことなど考えないことだ。
死なないようにしようという愚かな考え方を持つことは、生命の神秘からかけ離れた考え方である。この世界の不思議さを理解できていないという点であまりにも気の毒と言えよう。言葉を変えれば、人生は死ぬからこそ素晴らしいと言える。
死んでも決して終わりではないと思える不思議さこそが、現在の生を謳歌する重要な考え方となるからだ。
純粋の、真に偉大な才能ならば、制作することに至上の幸福を見いだすはずだ
あなたの中にくすぶった才能があるならば、それを表現することが幸福につながる。
何か物を作るということだけが「制作」ではない。プロのスポーツ選手なら試合でのパフォーマンスだし、演奏家なら曲の演奏だろう。
自分の才能から何かを生み出すということをしていれば、自然に満たされていく。
心の中にしまってある才能はないだろうか。それが余すところなく世に出た時、あなたは満足するだろう。
比較的才能のとぼしい連中というのは、芸術そのものに満足しないものだ。彼らは、制作中も、作品の完成によって手に入れたいと望む利益のことばかり、いつも目の前に思い浮かべている。だが、そんな世俗的な目的や志向をもつようでは、偉大な作品など生れるはずがないさ
たとえば受験勉強にしても、あの学校に受かればみんなが尊敬してくれるなどといった期待を抱いて勉強しても偉大にはなれない。
この話で言うなら、勉強そのものに価値を感じ、勉強すること自体から喜びを感じなければならない。
仕事にしても、会社や同僚から認められること、得られるお金のことばかり気にしていては、本当に良い方向へは進んでいけない。仕事の内容や意義に集中し取り組むことで、より大きな仕事を果たすことができるようになる。
必要もないというのに、そんなものにかかわりあうことはないよ
馬鹿は馬鹿のするにまかせておこう。馬鹿につける薬はないさ。それに、本当の才能ある人はちゃんと自分の道を見つけるものなのだ
人はただ自分の愛する人からだけ学ぶものだ
本当に他人の心を動かそうと思うなら、決して非難したりしてはいけない。まちがったことなど気にかけず、どこまでも良いことだけを行なうようにすればいい。大事なのは、破壊することでなくて、人間が純粋な喜びを覚えるようなものを建設することだからだ
他人を責めたところで何にもならない。
時には他人のことに納得がいかず、怒りを覚えることは、人間として自然なことかもしれない。しかし、非難してもどうにもならない。ただ反感を買うだけで、その人が行為を改めたり反省したりすることはまれだ。それに、人間はみな間違うので、むやみやたらに間違いを指摘しても意味がない。
結局、人は自分で変わろうとしたときにだけ変わっていく。好きな人、信頼している人の言うことを聞く。
あまり細かいことは気にせず、人間が喜びを感じるようなことに集中して取り組もう。
いたるところで、一人ひとりが自分を立派に見せようとしている。どこへいっても、全体のため、仕事のために自分自身のことなど気にならないような誠実な努力家は見あたらない
耳が痛くなるような言葉だ。
実力を必要以上に大きく見せたり、自分だけは特別だとアピールしたりすることに必死な人たちがいる。組織のためではなく自分の立場や利益のために動く、あるいは自分がかまってほしいばかりに、他人の邪魔をする人もいる。
どのように見られるかなど気にすることはない。
できる努力を精一杯続ける人間こそ、素晴らしい。
たいていの人間にとっては学問というものは飯の種になる限りにおいて意味があるのであって、彼らの生きていくのに都合のよいことでさえあれば、誤謬さえも神聖なものになってしまうということだったよ
大学でも、職にありつきやすい学部とありつきにくい学部がある。専門分野が実生活と関わりが薄い場合、飯の種にならないかもしれない。
人間は生活に左右されているので、お金になるかならないかはとても重要である。
本来学問は人間の生活の次元とは別の領域にあるものだ。しかし、人間はあまりにも「飯の種」に左右されている。その結果、ある事柄が真実であろうがなかろうが、「飯の種」になるなら「むやみやたらに触れなくてよい(触らぬ神に祟りなし)」とされ、そうでなければ意味をなさないことも多いのが現実だ。
学問に限ったことではなく、報道にも言える。大事なことであっても、大衆の関心がないと見てもらえない。質の善し悪し、真実かどうかは別にして、大衆の関心を引けそうなものから報道される。
学問を志す者は、飯の種のためだけに学問があるのではないと認識しておかなければならない。先人たちの学問の遺産を受け継ぎ、次の世代へ渡せる遺産となるように、今の自分の才能に合う学問的追求を行うことが大切だ。
たとえば***は、偉大な才能とか世界的な学識を持っているのだから、国民にとって大物になりえたにちがいない。ところが、性格がもろくて弱いために、国民になみなみならぬ影響を及ぼすこともできなければ、自分自身も国民の尊敬を得ることができなかった
レッシングのような男が、われわれには必要なのだ。彼が偉大なのは、その性格や意志の強固さによるもので、それ以外に何がある!あれくらい賢明で、あれくらい教養のある人物なら、他にもたくさんいるが、あれくらいの性格がどこにある!
ゲーテは、性格や意志の強固さがいかに大事かを述べている。
頭が良くて能力があっても、性格や意志がそれに伴っていなければ大成しない。
逆を言えば、秀でた才能はなくて頭が少し悪くても、ひとつのことに向かう性格と意志があるなら、立派になれる。
生まれ持った才能は変えられないかもしれない。
しかし、挫けない気持ちを持ってひとつのことに打ち込むことなら、あなたにも可能なことだ。
じつに才たけて知識も豊かな人は大勢いるが、同時に、虚栄心も強い。近視眼的な大衆から才気のある人とほめられたい一心で、恥も外聞もなくしてしまう。彼らにとっては、神聖なものなどまったく存在しないのだ
どんなにあらゆる点で才たけていても、結局それだけでは世のためにもならないし、それだけでは少しも建設的なところもない
才能ある人間はありとあらゆるところにいる。
だが、才能ある多くの人は自分の才能をなんとか認めてもらうために努力しており、努力すべきものに集中して行動できていない。人に認めてもらうこと、あるいはお金のことばかり考えているので、視野もせまくなってしまう。才能の誇示や人からの注目ばかりに気を患っていては、何の成果ももたらさない。
自分がやる仕事は本来、心の奥底から湧き上がってきた「神聖なもの」だ。
その仕事に没頭することこそが、自分と世の中を照らす。
われわれは、いっそう高い格言を、それが世のためになるかぎりにおいてのみ述べるべきだろう。それ以外のものは、自分ひとりの胸中にしまっておけばいい
示唆に富む良い言葉を、人のためにもならないような解釈で述べる必要はない。
なにか上手くいっていない人がいた時に、「どうすればよいか」と聞かれたら、その人のことを考えて、良い言葉をかけてあげるべきだ。確かにその人には欠点もあり、過ちもあったかもしれない。しかし、誰しもそうなのだ。
余計なことは言わず、ただひたすら人のためになる言葉を出そう。
われわれの行動には、すべて結果がともなうが、利口な正しい行動が、必ずしも好ましい結果をもたらすとはかぎらないし、その逆の行動が必ずしも悪い結果を生むわけでもなく、むしろ、しばしばまるっきり正反対の結果になることさえあるね。(中略)こういうことをよく心得ている世間人は、じつに大胆に、横着に仕事をしているのが目につくよ
勇気だけはふるいおこして、すみやかに決断しなければならない。それはちょうど、海水浴のとき、水を見て尻込みしているようなものだ。ただもうひと思いに飛びこんでしまえばいいのさ。そうすれば、水の方が、われわれの思うままになってくれるよ
大してがんばっていないのに良い結果が出たりする一方で、すごくがんばったのに結果が出なかったりすることがある。
他にも、相手が喜ぶと思っていなかったのに喜んでもらえた時などは、不思議な気持ちがするものだ。
人生は時に、上手くやったつもりでも怒られるような理不尽なことがある。よくわからないようにできている人生では、肩肘張ってみたところで、だめな時はだめなのだ。
だから、一喜一憂しないでいい。怯えることなく、むしろふてぶてしいほどに思い切って歩んでいこう。そうすれば、状況の方からあなたになじんでくれる。
実は一人ひとりが自分を特殊な存在につくりあげなければならないのだ。しかし、一方また、みんなが一緒になれば何ができるかという概念をも得るように努力しなければならない
結局、最も偉大な技術とは、自分を限定し、他から隔離するものをいうのだ
私はまったく多くの時間を浪費しすぎた(中略)自分の本来の専門でもないことにね。(中略)私は、もっと自分の本来の仕事に専念すべきだった
一つの事に徹して、偉大であるということはどういう意味なのか、またそのために何が必要なのか、ということを、いつも今さらのように悟ることになる。
ひとりとして同じ人間はいないのだから、それぞれに個性があって当然である。しかし、その個性を放っておくだけでは、世の中に貢献することは難しい。
「その他大勢」という言葉もあるように、いたって特徴が見えてこない人たちのほうが多いかもしれない。
それぞれの人間が自分にしかできないことに邁進するなら、すごい世界になるだろう。それこそ理想だ。
たしかに世の中には、あまり人がやりたがらない仕事も多くある。しかし、その仕事にはその仕事なりの意義や素晴らしさがある。各々が、意義を感じ生きがいにできるような仕事ができれば良い。
自分にしかできない仕事を極め続けることで、「自分を限定し、他から隔離する」技術を手に入れることができる。自分が得意なもの、才能を感じるものの中から、専門分野を決め徹底的に精進する。
どんなことをやったとしても、その深淵には普遍性があるのだから、心の声をよく聞き極めればよい。あれやこれやと手を出し悩む必要はない。あなたの能力が開花する未来を待っている人たちが、たくさんいるのだから。
独創性ということがよくいわれるが、それは何を意味しているのだろう!われわれが、生れ落ちるとまもなく、世界はわれわれに影響をあたえはじめ、死ぬまでそれがつづくのだ。いつだってそうだよ。一体われわれ自身のものとよぶことができるようなものが、エネルギーと力と意欲の他にあるだろうか!私が偉大な先輩や同時代人に恩恵を蒙っているものの名を一つひとつあげれば、後に残るものはいくらもあるまい
すべてが現状のままであるかぎり、ほとんど何も期待できないということだ。時代のよいものをすべてすばやく自分のものにして、それによってすべてのものをも凌駕するような偉大な才能が現れなければならないのだ。その手段はすべて目の前にあるし、道は示され、軌道まで敷かれている
私は今パソコンで原稿を書いているが、かつては紙だったし、発表だって紙でしかできなかった。今はウェブで簡単に自分の書いたものを公表できる。パソコンは天才たちが血の滲むような努力をした結果存在しているのであり、自分が原稿を書くからといってパソコンから開発しなければならないとしたら、一生を捧げても足りなくなってしまう。
多くの知識も同様で、先人たちが人生を削って貢献してきてくれたからこそ、現代の私たちはそれを享受できる。しかし先人たちは先人たちで、さらにその先人たちのお世話になっている。そうやって人間は望む望むまいにかかわらず、先人の遺産を受け継ぎながら生きている。
では、ありとあらゆる遺産を受け継いでいる我々に、独自なものなどあるのだろうか。
ゲーテは、それこそが「エネルギーと力と意欲」だと言っている。
つまり、あなたが「こうしたい、ああしたい、ああなりたい」という願望を持ち、行動することこそが独創性だ。
当たり前だが、この世にいない先人たちは現世で何かを考えることもすることもできない。記録や知識を残していたとしても、現代を生きることができない。
一方で、あなたは生きることができる。あなたにしかない心がある。さまざまな願いや理想を持ち、行動できる。先人たちの知識や経験を利用し、意欲して生きることは、あなたにしかできないのだ。
この記事を読んでくれているあなたが、心の声を聞き、先人たちの知識を十分に活用して、独創的に生きていってくれることを、私は心より願っている。
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