人間をやめたい、あるいは人生を諦めたら

苦しい、辛いと思うたび、人は意味を作り出してしまう。
苦しむ限り、意味は生まれる

たとえば、お腹が減った、のどが渇いたと感じた瞬間、食材・飲み物を買いたいと思う。
望む望むまいと関わらず、生きている限りあなたは誰かの生業の助けになってしまうのが世の中の仕組みだ。

仕事をしたくない・もうなにもしたくないと感じるとき、誰かの需要を満たすために働くのはまっぴらごめんだというケースがある。本来は、他人の欲望を満たすことが仕事であり、元来もっていなかったような欲望でさえ開発してしまい、新しい需要を生み出すのが「ビジネス」だ。しかし、人間の欲望には際限がなく、それを満たしたところでなんになると思ってしまったら、どんなに優秀な人でも仕事をする気力がなくなる。とは言うものの、他人の欲望を満たす「ビジネス」をしなければお金を得ることはできず、必然的に自分の生活が危うくなるという定め。生涯を終えるまでの十分な蓄えがない人が人であり続けるためには、意味があろうがなんだろうが他人の欲望を満たしその対価の金を受け取り、生活の糧を手に入れなければならない。

では、他人へ「つまらない価値」を与えることにうんざりし、自分も他人から「つまらない価値」を受け取りたくないと感じてしまったら?

それは自分や他人、すなわち人類存在自体の否定であるが、実際には存在し続けているため、脳みそが錯乱してしまうだろう。行動力がある人なら、自殺を選択してしまうかもしれない。たいていの「考える」人間は、自分の仕事なんか大した意味はないし、そもそも世界自体に意味はないのだから、せいぜい楽しくやるよというラインで折り合いをつける。人生そのものがゲームだと感じる哲学が、人を救うこともある。だからこそ、人類はゲームをつくりだして、人生というゲームの中にさらにゲームを内包することで、人生ゲームをより人生ゲームらしくおどけて見せられるのである。

他人の「汚らわしい」欲望を満たしたくもなく、他人から「もらってもしかたない」価値を受け取ることを拒む人に、救いはあるだろうか。はっきり言えるが、そう思う人に救いはない。この世界は「真面目過ぎる」人のために作られているわけではないからだ。なぜ勘違いする人が後をたたないのか。地球や宇宙があなたに理解可能で、あなたの存在もあなたの頭で考えてわかるものだと本気で思っているのか。

あなたがこれまでの人生で、人の優しさに少しでも触れて温かい気持ちになったことがあるのなら、思い出してほしい。
たったそれだけのことが、人生の価値でありうるのだ。本当に無念なことだろうが、あなたはただ生きているだけで誰かのためになっている。

残念であることはわかる。誰からも理解されたことがないような人、人生に悩む人が求めている答えはこの世界にはない。
理解不可能なものへの無力を認める雪辱は、あなたがあなたの存在を消すことで、晴れるはずがない。
これは、残酷な真実であるとともに、美しい自由である。

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