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仏教 | アルティメットフィルター https://poeness.com 趣味、読書、仕事、世の中、人生、なんでも Fri, 13 Jan 2023 08:43:14 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.9.26 「悟り」を開くことができた https://poeness.com/satori20181119/ https://poeness.com/satori20181119/#respond Mon, 19 Nov 2018 12:24:41 +0000 https://poeness.com/?p=510 2018年11月18日日曜日、「悟り」を開くことができた。

「悟り」を改めて確信することができた、本日2018年11月19日月曜日。

あえてかぎかっこ付きで「悟り」としているのは、「悟り」の意味が人によって違うからである。

書いてもしょうがないかと最初は考えた。それでも、「悟り」を求める人に、あるいは「悟り」を得たと思うがこれでいいのかと疑問を持つ人に向けて、少しのヒントにでもなればと思った。異論はもちろん認める。「悟り」とはまったくもって一般的な意味で言う「個人」の範疇にあるからだ。

「悟り」を開く前と後では、確かに景色が違うのだが、一変するというものではない。

勉強や瞑想実践により、徐々に人間が変わっていった。

そして最後、大きな一歩を踏み出した時に、これ以上進むところがないということに気づく。
「気づき」が大事で、知っているかのようで知らなかったことに気づく、とでも表現しようか。「逆転の発想」ともまた違う。

例をひとつ出せば、美女に惹かれる自分がいるとする。「美女」というのは名称と形態に左右された「私」が解釈した結果で、なおかつ「糞袋」だと理解したとする。でも、どうしても欲情してしまう自分に悩む。「しょせん人間のちょっとした目鼻立ちで可愛いと思ってしまうなんて、なんと愚かな自分!自分は顔かたちに惹かれており、皮膚を愛しているのか!触覚にも左右されていて、あの膨らみに触れたい!でもこんなのじゃダメだ、乗り越えねばならない!」などと考える。理解していないからこそ欲情してしまい、欲情は「苦」につながるから、本当に理解すれば情欲がなくなり「苦」の消滅にもなると考える。だが、一見して正しそうなこの姿勢こそが、自分を無明へ引き込んでいる。「そうか、あっちの女の人はブサイクだしどうでもいいが、この女の人は美人で話してみたいと自分は思っているんだな」と観察することが大切なのだ。つまり、過去から大量に積み重ねてきた「業」(ここで言うなら、昔から誰かを可愛いと思ったりしてきた無数の過去)により「美人だなあ、付き合いたいなあ」と思っていて、今目の前にいる美人に対しても同様に思うのである。それを否定するからこそ、「苦」が生まれる。誤解を恐れずに言えば、「美女」に惹かれないことが「悟り」なのではない。「美しい」と思ったなら、「美しいと思ったな」と思うだけで、あとはなにもない。それだけである。「美しい」と思うことを否定する必要はなくて、「美しい」と感じたときにはそう感じた自分を把握していればよい。

確かに瞑想を極めていけば、外を歩いている人ももはや人とは認識しないほどの「目」を手に入れることができる。
でも、そうして世の中を観ることが別に「正しい」わけではない。
もし何かを「美しい」「素晴らしい」と思うなら、そのままそう思う自分を観ればいい。

ゴータマ・ブッダの教えの「真髄」は「苦」の消滅である。それ以上でもそれ以下でもない教えだ。人生を生きていれば「苦しむ」からこそ、「苦しみ」を取り除き、「苦しみ」がそもそも生起しないようにする。この基本軸が理解できていなければ、仏教は難しい。「苦しみ」がないならもうそれは「悟り」なのだが、そう言えるほど、仏教実践者には自信がなかったり、「傲慢だ」と非難されることを恐れる。いつまでも「悟り」を目指す過程にいれば、「まだまだ修行中です」と言い訳ができる。しかし本当は、さっさと「悟り」を開いて、残りの人生を生きるほうが楽しい。「悟り」を開けば、「苦しむ」ことが不可能になるからだ。ゴータマ・ブッダの教えを理解し体得するのは一般的には難しいと言える。理解と体得の難しさは、ゴータマ・ブッダ自身が経典を書いたわけではないところも大きい。だから、スッタニパータやダンマパダを読んだだけでは、とても「悟り」の境地に達することはできない。加えて、「悟り」を開くためには文献の勉強や僧侶の話を聞くだけでなく、「実践」が大事だ。論理的に考えるだけでは不十分で、会得・体得すべき「気づき」の実践が必須となる。「思考」を乗り越えねばならない。実践は瞑想であり、マインドフルネスと言ってもよい。瞑想は座って行う瞑想にこだわる必要はなく、立つ瞑想や歩く瞑想もある。生きていること自体が「瞑想的」になるのがよい。

現代人を「悟り」から遠ざけている大きな要因は「世のため人のため」の発想だろう。先にも言ったが、ゴータマ・ブッダの教えの「真髄」は「苦」の消滅だ。簡単に言えば、あなたや私が「苦しまなければ」それでいい。「苦」からの解放の教えなのだ。「苦」から解放された結果、人助けをするかしないかは自由だ。勘違いしてはならないのは、人助けをするために「苦」から自分を解放するわけではないということだ。あまりにも社会に順応しすぎている現代人は「人のために」何かをしなければと思いすぎていて、それが現代人を無明に引き止めている。「悟り」を開いて、「苦」を滅したあと、どうやって生きていけばいいかは、ゴータマ・ブッダからしてみれば「勝手に考えろ」ということだと思う。ゴータマ・ブッダはそもそも、覚った後、この教えを誰かに話すか話さないかと考えた。「苦」から解放される道があるけど、どう考えても普通の人間には理解できない境地だ。でも、「苦」からの解放の教えを理解して、「苦しまなくて」すむ人も少なからずいるだろうから、教えようということになった。どうだろう、この部分のどこに「人間は人のために何かをして生きよ」などという意味を含んでいるだろうか。誤解を与えたくはない、人のために何かをすることは「苦しみ」を生みにくく、心が充実することなので、「良い」ことだ。しかし、人や自分のために何かをしなければならないと思い、あなたが「苦しむ」なら、それはなしなのである。それほどまでに、ゴータマ・ブッダの教えは「苦しまない」ことに関して徹底している。

一般的に思われているかどうかすらも分からないが、「悟り」を開いたから立派な人間なわけでも、品行方正な人間なわけでも、素晴らしい人間なわけでもない。ただ単純に「苦」を滅した人だというだけである。「悟り」を開いた人が現代社会に貢献するかどうかはわからない。完全にその人しだいであり、「悟った」人に過度に何かを期待しても意味はない。

「苦しむ」ことが不可能になってしまった境地に達したら「悟り」であり、私は到達することができた。ミャンマーに行き瞑想する必要もなく、これから文献をあさりにあさることもない。瞑想は続けるだろうが、「瞑想をしなければならない」などと思うことはない。何かを「しなければならない」と思う義務感は、心の余裕をなくし、「苦」を生むからだ。

ゴータマ・ブッダの教えという「筏(いかだ)」は、私にはもう必要がなくなった。

激流を渡り終えた私は、「彼岸」へ到達した。私の人生は続く。

ゴータマ・ブッダと、ゴータマ・ブッダの教えをさまざまなかたちで伝えてきた数えきれないほどの先人たち、現代人に感謝する。

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『悟りを開く前の男の煩悶』 https://poeness.com/otoko_hanmon/ https://poeness.com/otoko_hanmon/#respond Tue, 13 Nov 2018 02:40:20 +0000 https://poeness.com/?p=504 男は一人、部屋の中で考えている。

「快楽を求める動きはすべて間違っている。不快はわかりやすいが、快楽もまた苦しみを生むからである。

快楽を求めるのではなく、必要なものを最低限満たす。そこに快楽は存在しない。

なぜこれほどまでに快楽とは魅力的なのであろうか。しかし、今までの快楽は、自分に何をしてくれたと言うのだろう。結局今思い悩むのは、快楽を求めてそれを受ける生き方が間違っていたからではなかろうか。迷いがなくなれば、仏教を学ぶことも終わる。

快も不快もない状態、安穏こそ最上であるという確信に至るのは、難しい。本当にそれを理解しているとするなら、快を追いかけることなく、不快に苛まれることもないからだ。心の底からは、釈迦の教えの真髄を理解できていないのが現状だ。快楽に未練があり、快楽が良いものだと思っている。

現代の「つとめ励む」とは、仕事することである。快楽にも不快にも左右されず、仕事に邁進したとしたら、多くの財産を得ることになるだろう。しかしこの財産は、自分の快楽を満たすためではなく、自分の「つとめ励み」に活きるよう使えばいい。そうすれば快楽に溺れる必要がない。「善」にお金を使えばいい。

女性に対する欲も捨てなければならない。最強の関門と呼べるかもしれない。性欲に突き動かされて、今までどれだけの人間たちが間違った道を歩んだことだろう。身体の不浄を知っていても、体得するのが難しい。
そしてなにより、成功しても女性を求めてはならないのなら、何のために成功するのかと思うほどに、女性は魅力を放っている。禁欲している人間が、絶世の美女と添い遂げるチャンスがあったとして、どれだけ心動かさずに退けることができるだろう。

人生では心の安穏が最上位である、と思っていないからこそ、苦しみを伴う最上の快楽への憧れが生まれる。俺は快楽を楽しむのではなく、快楽の向こう側の苦しみを苦しみたいのか?快楽が苦しみなら、苦しむことは快楽なのか?
快楽が苦しみしか生まず、苦しみも快楽もいらないと心底思うのは、たくさんの快楽と苦しみを味わってこそなのだろうか。でもそれは、まるで大金持ちになった人が「お金はもういらないや」と言っているのと違いがあるのか?

新しい生き方を求めているからこそ、仏教を学んでいるということは確かだ。今までの生き方ではダメだと思うから、違う生き方を模索している。

答えがわかっているのに、解法を見出だせない。

これが仏教なのか。」

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【買ってみた感想です】【世界遺産 真言宗総本山 東寺 正式監修】帝釈天(たいしゃくてん)【空海 立体曼荼羅 NO.4/15】 https://poeness.com/taishakuten/ https://poeness.com/taishakuten/#respond Sat, 10 Nov 2018 13:54:56 +0000 https://poeness.com/?p=481 帝釈天の仏像が欲しいと思い、アマゾンで購入しました。

商品名は、【世界遺産 真言宗総本山 東寺 正式監修】帝釈天(たいしゃくてん)【空海 立体曼荼羅 NO.4/15】です。

詳細は以下。

アマゾンで注文すると、いつもながら大きめのダンボールで届きました。

ダンボールをあけると、以下のように箱が入っています。
東寺 国宝 帝釈天」という文字。

箱の大きさがどれくらいかを直感的に知るため、標準的なハサミを乗せてみました。

箱の中には、以下のような説明書が。
帝釈天の仏像についてや、東寺が監修してます的な文言。

実際に帝釈天の仏像が入っているのは発泡スチロールの中です。
以下のような感じ。

半分あけてみます。
おおおおおおおおーーーーーーーー!帝釈天がいる!当たり前か

かっこいいです。かっこよすぎますね。

実物は、思ったより大きくはありません。ミニ仏像なので、大きさを求めてはいけません。コンパクトであることが利点です。机の上においてもスペースをとりません。それでいて帝釈天に見守ってもらえます。

本当によくできていて、私は買ってよかったと思っています。嬉しいです。

帝釈天は、インド神話に出てくるインドラ神が仏教に取り入れられて、仏教の護法善神となったものです。もともと武勇に優れていて、簡単に言えばめちゃくちゃべらぼうに強いということです。金剛杵(読み方は「こんごうしょ」)という武器を持っていて、雷を操ります。

いろんな逸話を持つインドラ神ですが、つとめ励んだことが認められ、神々の中でも最高の者となります。

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)にも、帝釈天について述べた言葉があります。

マガヴァー(インドラ神)は、つとめはげんだので、神々のなかでの最高の者となった。つとめはげむことを人々はほめたたえる。放逸なることはつねに非難される。
ブッダの真理の言葉 第二章 はげみ より引用

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人生における仕事との向き合い方。仕事の意義を感じない、仕事を辞めたい、仕事に行きたくない人へ。 https://poeness.com/work_life/ https://poeness.com/work_life/#respond Wed, 24 Oct 2018 13:31:54 +0000 https://poeness.com/?p=440 現代の日本で大人になれば、仕事と自分との関係が生まれます。

もちろん、仕事をしないで生きていける裕福な人もいるでしょう。

普通の人でも仕事をしないで生きていけますが、
生活保護を受けたり、養ってもらったりすることになります。

ここでは、生きていく前提で、かつそのためには仕事をする必要がある人を対象にして書きたいと思います。

仕事にそもそも意義、やりがいを感じない人。
人間関係が良くない・プレッシャーが強すぎる・思うように行かない現状の仕事を辞めたい人。
仕事を思うだけで朝起きるのも辛い・人間関係で悩んでいる・仕事ができないから仕事に行きたくない人。

仕事をしている人の数だけ悩みがあります。

仕事を辞めたい・仕事を変えたい・転職したい・行きたくない人

今の仕事が嫌なだけで、他の仕事に魅力を感じる人がなすべきことは簡単です。魅力を感じる仕事への転職活動をがんばればよいだけです。今の仕事が終わったら新しい仕事に向けての勉強に励んだり、休日もそのために費やせばいいでしょう。転職をしたい、余暇も過ごしたいというのもけっこうです。でも、人生の時間には限りがあります。1日24時間の中で時間を割り振り、納得のいくように活動しましょう。

今の仕事をやめると生きていけるか不安だと感じるなら、具体的にどのような状態にあれば不安がなくなるのか考えましょう。たとえば、とりあえず3ヶ月生活費があればよい、などです。その間に転職活動をします。失業手当がある人など、状況は一人ひとり違うので、自分にあった答えを出すしかありません。正解はありません。強いて言えば、あなたが必死に出した答えはすべて正解です。

あまりに仕事について不安・心配なら、あなたが過剰に「自己保存」をしている結果です。自分を大切にしすぎているんです。
仕事に行きたくないと思う人は、怒られるからでしょうか、怒鳴られるからでしょうか。みんなの期待に応えなければとプレッシャーを感じているのでしょうか。
あなたに降り掛かっている問題は、解決可能だと信じましょう。つまり、どうしようもないなら、神様が悪いとでも思っていれば良いですし、任せられた仕事がうまくできなかったなら、任せてきた上司が悪いのです。

人間とは、現象にすぎません。あなたや私は人間の身体という、一種の「借り物」をこの世界で身につけているだけです。あなたも私も100年経たないうちに火葬場で燃え、骨となっています。生きている間は、五感でさまざまなことを感じることができます。脳みそでたくさんのことを考えて、世界を解釈します。そして死にます。必死になって「あなた」を守って、大切にして、本能のなされるがままに生存欲求に屈するのは、精神を持つ人間として悔しいでしょう。思うままに生きていくことが、われわれ人間にはできるのです。

そもそもすべての仕事に絶対的な意義はない

仕事に意義ややりがいを感じない人は、普通です。そう感じる人は鋭い人、世の中のことに対して冷めた見方をしがちな人、世界に距離感を感じる人、といったタイプでしょうか。

簡単な話で、すべての人間はいつかは死に、できたものはいずれ壊れます。医者は病気を治す手助けをしますが、患者の寿命が少し伸びたり、苦痛を和らげる・なくすことしかできません。何年後か何十年後には死ぬ人たちの治療を行います。もし”絶対的な意義”を求めるなら、死ぬ運命にある人間の延命をする医師の仕事は無意味でしょう。

建物を作る人だって、その建物は未来永劫残り続けるわけではありません。食料を生産している人だって、今生きている人たちの胃袋を満たしていますが、どんな食べ物であったとしても人間を永遠に生かすことはできません。

一般的に立場が良い・尊敬されるような仕事でさえ、根本的なところを突き詰めていけば”絶対的な意義”はありません。短い人生の中で「あの仕事は立派だ」「あいつは出世して偉い」などと言って、妄想に翻弄されて生涯を終えるのが大半の人たちです。

現代日本において、仕事をどのように捉えればよいか

現代日本では、ホームレスの人たちもホームレスなりの仕事をしています。路上で乞食をして生きていくことが非常に困難、ほぼ不可能だからです。働かずに収入を得るにはさまざまな手段がありますが、積極的な不労所得という意味では資産運用の配当などがあります。しかし多くの人には関係のない話です。
他に、生活保護や年金などもあります。これらは自分がそのお金を受け取る資格があるかどうかが大事です。生活保護を不正に受給すれば、その不正をした人生を背負うことになります。人生の幸福は心の清らかさ・平安にあるので、間違ったことをしていれば報いを受け、苦しむことになってしまいます。生活保護などは、自分がどうしてもそういう状態になってしまったときに考えればよいのです。

遺産や貯金がない人は、基本的に仕事をして生きていくことになります。
仕事の種類・労働時間・労働環境・向き不向き・給料の多い少ない、などの問題と向き合います。

具体的な問題で悩んでいる人は、解決が簡単です。給料が少ないなら残業をして長時間働くか、給料が高い職への転職を考えねばなりません。

「それが簡単にできるなら苦労しない!」と言うなら、不可能なことを考えて悩んでいるようなので、不思議です。
太陽はなぜ西から昇らないのかと腹を立てているのと同じです。

どうしようもない状況であるならば、ジタバタする必要はありません。やれるところまでやって、やれなくなったら終わる、それだけです。

人生を生きる意味・意義がわからず、それにともなって、生きていくためだけにする仕事に疑問を持つ人はどう考えればよいでしょうか。
よくある話では、「会社と家の往復だけ。仕事は忙しく、家では寝るだけ。好きなことも特になく、休日は寝て過ごしてしまう。こんな人生にいったい何の意味があるのだろう」などです。

人生は楽しいことをするためにあるものではありません。楽しんでもよいですが、楽しまなくてもよいのです。あまりにも楽しいことをしてしまうと、楽しい記憶を引きずってしまい、楽しくないときに苦しみます。降ってくる「楽しさ」を享受するくらいが人生にはちょうどよく、「楽しさ」を追いかけてしまうと、欲望の奴隷になってしまいます。「楽しさ」も、あるいは「苦しさ」も永遠には続かないことを知り、心穏やかに日々を送りましょう。

仕事とは、「あなたが生きている間に人々とどのように関わり合っていくか」である

すべての仕事において、”絶対的な意義”はありません。医者だって弁護士だって農業従事者だって工業従事者だってサービス業の人だって、どんな仕事だって”絶対的な意義”は持ち合わせていません。

かつて釈迦は教えを説いて、弟子たちは仏教としてまとめあげました。仏教は現代の人間の”苦しみ”を取り除けているでしょうか。イエス・キリストは苦悩を救えているでしょうか。

本屋に行けば多くの「お悩み解決本」が存在し、巷には精神科や心療内科も多くあります。
しかし、人間たちの努力をあざ笑うがごとく、現代でも困難に満ち溢れた人が大勢います。

すべての人間がいつか終わりを迎える人生で、仕事をどのように捉えればよいか。

仕事とは、あなたが生きている間に人々とどのように関わり合っていくかです。
あなたの良心に反しない限り、どんな仕事をしてもかまいません。犯罪や悪に関わる仕事、やましく感じてしまう仕事は避けるようにしましょう。そのときはよくても精神をむしばみ、大きな苦しみを生む原因になります。

すべての人間が死ぬ運命にあるこの世界で、仕事の意義を求めることは不可能です。求めることができるのは、”ある”ものだけです。”ない”ものを求めてさまよってはいけません。

生きている限り、あなたはどんな努力をしてもかまいません。間違ったことをしていないと思える努力なら、たとえ誰かが無駄だと思っていても、関係ありません。大いに、あなたの能力を発揮しましょう。

あなたに能力があるかないか、大きな仕事ができるかできないか、出世するかしないか、お金を稼げるか稼げないか。多くの人が気にするこれらのような事柄は、究極的には無意味です。

大切なのは、一人一人の人間が自分の人生において、どのように人と関わり合いながら生きていくかなのです。

人とどのように関わっていけばいいか。なるべく人とは離れて生きていくのか、それとも多くの人と関わって生きていくのか。そういった答えは、あなた自身が導き出すものです。他人に言われたから、人生を生きるのではありません。

間違ったことをすれば報いを受けて苦しみますし、妄想に囚われていては思うように生きられないでしょう。

冷静に物事を見て、正しく行動しさえすれば、あなたが会社員であろうが社長、野球選手、サッカー選手であろうが関係ありません。

あなたがする一つ一つのことがあなたをつくり、この世は無常であるがゆえに大小に関係はありません。あなたが歩道でゴミを一個拾って捨てれば、その歩道にはゴミが一個無くなって綺麗になるでしょう。ゴミを十個拾った人が別にいたとしても、あなたが一個のゴミを拾った尊さがなくなるわけではありません。

あなたと世界との関わり方が、あなたにとってのすべてなのです。

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【悟りとは何か】悟りを開く人。悟りの境地に達するには https://poeness.com/siddhartha_hesse/ https://poeness.com/siddhartha_hesse/#respond Fri, 29 Jun 2018 14:30:18 +0000 https://poeness.com/?p=9 はじめて読んだヘルマン・ヘッセの本が『シッダールタ』だった。

その日は喫茶店に行く予定で、「本を買おう」という気持ちになっていた。たまたま『シッダールタ』を見つけた。その偶然がなければ私はずっとヘッセのことを知らなかったかもしれないし、だとしたら今日の自分はなかった。

 

もともと釈迦に興味があり、仏教に関する本はよく読んでいた。岩波文庫の『ブッダの言葉』は何回となく読んだし、他に読んだ仏教書も多々ある。私は釈迦そのものに興味があり、現代の「〇〇宗」のような宗派にはあまり興味がない。

大事なのは釈迦がどのような境地にあったのかを学ぶことだと思っている。

 

仏教的な思想を学んでいたわけだが、ヘッセのシッダールタという作品は知らなかった。本屋の背表紙でシッダールタという言葉を見たとき、すぐに釈迦のことだとわかった。どんな本なのだろうと気になった。

 

概要では、

シッダールタとは、釈尊の出家以前の名である。生に苦しみ出離を求めたシッダールタは、苦行に苦行を重ねたあげく、川の流れから時間を超越することによってのみ幸福が得られることを学び、ついに一切をあるがままに愛する悟りの境地に達する。ーー 成道後の仏陀を賛美するのではなく、悟りに至るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとしたこの作品は、ヘッセ芸術のひとつの頂点である

 

何より引き寄せられた文言は「悟りに至るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとした」という部分。仏教の言葉には多くの慰めがあるものの、実際に苦から解放される境地に達するのは難しい。仏教の本やブッダの言葉でその一瞬は楽になったり、悟りを開いた気になったりすることは確かにある。でも、日常の困難の中で忘れてしまう。

仏教の思想や考え方を自分の生き方にまで消化するのは至難の技と言える。それは当然のことで、簡単にできるというのであれば、誰も苦しむことはない。

この本の概要を見て、釈迦の教えをもとに悟りに向かおうとした人間の苦悩や壁を追体験できるのではないかと期待した。今まで自分にはできなかった苦悩の乗り越え方、悟りを学びたかった。

 

私はシッダールタだけを読んでシッダールタの物語を理解したのではない。他のヘッセの著作も読む中でシッダールタを理解した。はじめてシッダールタを読んだときの衝撃と感動は言葉に言い尽くせないほどだった。主人公シッダールタのリアルな学びが細々と綴られており、この本を読むだけでも多くを知ることができる。

 

シッダールタを読み終わると、「人生のことを知るために、これ以上本をむさぼり読む必要はないんだ」なんて思ったものだが、結果的にはヘッセの魔力とも言える言葉を求めて他の著作を買うことになった。それもまた、自分にとって必要なあがきだった。ゴーヴィンダがさぐり求めるように、欠点を知っていてなおさぐり求めずにはいられない自分に腹が立ったが、さらなるヘッセの言葉を求めた。

 

この文章を読んでくださっているあなたは、きっとシッダールタを読んでいて、「他の人はどんな感想をもったのだろう」と気になったのではないだろうか。私もこうしてシッダールタの感想を書きたいと思ったのは、この本を読んだ同時代の仲間たちとの共感を求めているからだろう。もちろん、あなたは私と違った感想を持っているはずだ。ただ、こうやってあなたと同じようにシッダールタを読んで感動した人間がここにもいることを感じて、微笑してくれたらと思う。

 

シッダールタを読み進めていくと、まさかの仏陀登場である。
シッダールタという作品の主人公はシッダールタ。これはもともと仏陀の名前でもあるが、まさかその主人公が仏陀と出会うという構造になっている。この作品でのシッダールタと仏陀は別人。

旅の中でシッダールタは仏陀と話すが、仏陀のもとにとどまる道を避け、ゴーヴィンダを置いて一人旅に出る。ここがすごい。

現代社会の人間は、仏陀の言葉として残っているものを学ぶことができる。本やお寺もたくさんあり、仏陀の教えにはいつだって触れられる。心が苦しい時、考え方としての仏教に救われることがある。

しかし、先にも言ったようにそれは長続きせず、仏教の教えを体得して苦しむことのない境地に達することは難しい。仏教を学んでも苦しいものは苦しいのが現実なんだ!わからないんだ!なぜなんだ!という人間の気持ちをヘッセは分かってくれている。そしてシッダールタに、それを乗り越える旅をさせてくれる

 

仏陀がシッダールタに伝える言葉が真実だ。その言葉に納得できるのであれば、旅は終わりである。この本はここで終わったとしても内容豊かだ。

 

仏陀は言う、

おん身が私から聞いた教えは私の意見ではない。その目標は、知識をむさぼるもののために世界を説明することではない。その目標は別なものである。その目標は苦悩からの解脱である。それこそゴータマの教えるところであり、他の何ものでもない

 

この言葉に、すべてが詰まっている。

シッダールタ、あるいは読者たちが仏陀の言うことを議論することや、意見を表明することなどには何の意味もないのだということ。意味を求めようががんばろうが何だっていいのだけれど、「人生それによって苦しむ必要はない」という、単純な話だ。

つまり、あなたが苦しんでいないのなら、オールオッケー!である。

苦しむ必要がないのに苦しんでいる人たちがいて、そんな人達のために苦しみから逃れる方法をあれこれ言葉を変えたりしながら仏陀は教えてるだけだ。

仏教は今でこそ多くの宗派があり教えがあるが、本来の仏陀は苦しむ人達に苦しまなくていい方法を教えていただけだ。苦しんでいない人たちに、仏教は意味をなさない。

仏陀は愛に溢れた人だったのだろう。自分が苦しまなければ問題はないのだけれど、苦しんでいる人間たちのために、死ぬまで寄り添っていた仏陀はまさに仏陀。

 

シッダールタはこの本の最後のほうで仏陀についてこのように言っている、

私はゴータマと一致していることを知っている。ゴータマがどうして愛を知らないことがあろう!いっさいの人間存在をその無常において、虚無において認識しながら、しかも人間をあつく愛し、辛苦に満ちた長い人生をひたすら、人間を助け、教えることにささげたゴータマが、どうして愛を知らないことがあろう!

 

悟りを開くと、まるで言葉の少ない無味乾燥な人間になるかのように思う人もいるかもしれないが、そうではない。仏陀はきっと優しい人で、面白くて、頭が良くて、愛を持った人だったんだろう

自分が教えても苦しむ人が絶えないことを仏陀は知っていたはずだ。そしてそれは生命の営みの中で永遠と繰り返されていく。その全てをわかっていてもなお、自分の命を惜しむことなく使った仏陀の行為は、愛だ。

 

「愛」という言葉で人はいろんな意味を思い浮かべる。人によって「愛」という言葉のもつイメージや印象などは異なるに違いない。しかし、言葉の意味に一喜一憂してはいけないこともこの本は教えてくれる。

 

一つの真理は常に、一面的である場合にだけ、表現され、ことばに包まれるのだ。思想でもって考えられ、ことばでもって言われうることは、すべて一面的で半分だ。すべては、全体を欠き、まとまりを欠き、統一を欠いている。


これ以上それについてことばを費やすのはやめよう。ことばは内にひそんでいる意味をそこなうものだ。ひとたび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる、いくらかすりかえられ、いくらか愚かしくなる。

 

どんなことでも人に伝えようとするなら、それは言葉にしなければならない。しかし、言葉は万能ではないということを教えてくれている。言葉の用法や意味に振り回されないように注意して、本質を感じなければならない

「愛」を語るときにも、「愛」という大きな言葉の意味に翻弄されるのではなく、心で感じる必要があるということだ。

 

『シッダールタ』という本は、シッダールタが仏陀に出会うまでと、そこから俗世の生活をする期間と、それを捨てた後の大きく3つに分かれる。読み返すならいつも仏陀の言葉や最後のシッダールタの悟りの言葉を見てしまうが、『シッダールタ』という物語としての骨格を考えるなら、俗世での放蕩生活の期間がとても重要だ。この部分がなければ、シッダールタという本はなんの面白みもないものになってしまう。

 

主人公シッダールタは仏陀の教えを聞いてなお、仏陀の言葉に自分を埋もれさせることなく自分で真実を体験するための旅に出る。私はシッダールタと仏陀が別れた時、とても驚いた。普通、そんな素晴らしい人に出会えたのなら、素晴らしい教えを聞いて悟りを開くかのように進みそうなところを、そうじゃないとして物語は進む。

「この後のシッダールタを書くのはヘッセも大変だっただろう」と想像する。そして何よりもこの部分にこそ、ヘッセの産みの苦しみがあると思う。

 

では、俗世での放蕩生活が終わり、それですんなり悟りの境地で静かに暮らせるのかと思いきや、息子と出会ってしまう。一緒に生活をするものの息子がいなくなり、またもや心がかき乱されることになる。

素晴らしい心を獲得したと思っていても、いとも簡単にその心を失ってしまう難しさ

なにもしていなくても平静でいられるような人生はない。突如として困難が襲ってくる中で、自分の心を保つ闘いをしなければならない現実をもこの本は教えてくれる。

 

ヘッセの本に甘いご都合主義はないが、克服の道があることを示してくれる。困難や苦悩が人生にはつきものだ。それはどうしようもない。

しかし、自分の欲望に翻弄されて生きる生き方には限界がある。

誰からも本当の意味では生き方を学べない

『シッダールタ』からたくさんのことを学ぶことができる。


【当サイト著者自身の「悟り」については下の記事】
「悟り」を開くことができた https://poeness.com/satori20181119/

ヘッセの『シッダールタ』についての当記事を書いた段階(2018年6月)では、筆者の私は「悟り」が開けていませんでした。
筆者自身の「悟り」(2018年11月)に興味がある方は、上記の記事をご覧くだされば幸いです。

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