【経験者は語る】悩み続ける日々が終わる。人生の意味、生きる意義を見失った人へ。

おそらくあなたと同じように、私自身も長らく人生のさまざまなことに悩んでいた。人生の意味、生きる意義を見つけようとして、多くの哲学書や宗教書を読み漁った。振り返ってみれば、10歳くらいの頃から「そもそも人生とは何なのだろう?」と考え続けてきた。もちろん、学生時代にいつもいつも人生のことについて考えてきたわけではないが、折に触れて物思いに耽るほうだった。

いわゆる「哲学」は一切自分を「救って」はくれなかった。人生について考える人は、ほとんどの場合「救い」を求めている。人生は思うようにいかないことや、不満が多い。理不尽なことにも耐えなければならないし、一生懸命がんばった先にあるものが見えない。今の現実が楽しくないことに加え、歳をとればとるほど肉体的にも衰え、最後には死に至る。何かをがんばったところで、すべては泡となって消えるなら、人生の意味って何?と問うのは当たり前のことだ。

「哲学」はあなたに生きる意味を与えてはくれない。哲学者というのは「哲学する」ために哲学した結果を本にしているだけであり、あなたのように人生の意味を見失っているような人に向けた商売をしない限り、生活できない人間だからだ。あなたと同様に人生について考えている「同類の」人間であり、同類の人間ではあなたの悩みを解決することはできない。「机は机だ」というような至極明白なことについて、哲学者は駄文を連ね、何の成果も生み出せないことを悔いている。しかしここまで言ってみたものの、過去の「偉大な」哲学者たちは、私の良き友人だった。現代に生きているあまりにも鈍感な「知識人」たちよりも、ずっと慰めを与えてくれた。もはや過去の友人で、多くの日々をともに過ごしてきたことが懐かしい。

「自己啓発」もあなたを変えてはくれなかったのだろう。もし自己啓発書があなたを変えていて、あなたが納得した人生を歩んでいるなら、この記事にたどり着くことはあり得ない。きっとあなたは「明るくて鈍感な」自己啓発書にはうんざりしている。キラキラしていて、押し付けがましい。本質を見通す洞察力に欠けていることが多く、野蛮人が狩りの仕方を教えてくれているだけだ。だからといって暗いこと一辺倒なのも吐き気がする。ただでさえ自分が暗いのに、他人の暗い気持ちを受け取っている場合ではないからだ。自己啓発書は、本質を見通せていない人にとっては、一時的に恵みを与えてくれるだろう。だが、自己啓発書は「悟り」を開いた人間が書いているわけではないので、砂上の楼閣にすぎない。「悟り」を開いた私が書くこの文章を読むあなたであれば、この世に出版されている自己啓発書ではとても啓発されないだろう。

現代の心療内科や精神科に行ったとしても根本的に悩みが解決しないと思っている人は、そもそもそんなところへは行かない。心療内科や精神科の先生よりも、自分のほうが信頼できると思っているあなたであろうし、薬で思考回路を変えても厳然としている現実が変わらないことくらいわかるだろう。

他にも述べるなら、「宗教」について。あなたを「救って」くれただろうか。今この記事をご覧頂いているということは、きっと救ってもらえなかった。あなたはあまりにも鋭く敏感なために、ちょっとやそっとでは宗教の開祖様にすべてを委ねることなどできない。「あなたは前世ではこういう感じでした」「あなたの来世は極楽浄土でしょう」こんなことを心から信じられるほどには、理性を失っていない。もちろん友人や恋人と占いや診断を楽しむことはあろうが、それを真に受けるのはおかしいと思っているはずだ。

世界にはさまざまな宗教があるが、私にとって最も役にたったのは仏教だった。ご存知の通り、仏教とは紀元前のインドでガウタマ・シッダールタ(お釈迦様)が説いた教えが元となっている。教えの根幹は「苦」の消滅である。「苦」とは多様な概念を含んでいて、一般的に「苦しい」という状態以上の意味がある。

仏教と一口に言っても、数えきれないほど多くの宗派がある。日本でよく知られているのは大乗仏教と呼ばれる仏教の一部だろう。どの宗派も名目上はお釈迦様の教えをもとにしているが、あまりにも仏教は種類が多すぎて、お寺や仏像など日本人にとって身近な存在であるにも関わらず、日本人の心に寄り添っているとは言い難い状況にある。現代のお坊さんは、多くの日本人にとってはお葬式や故人に関わる行事の時に相見えるだけで、苦しみをなくそうと説法して回っているわけでもなければ修行しているかどうかもよくわからない種族だろう。そもそも現代のお坊さんは世俗にまみれすぎていて、お坊さんに対して「救い」を求めようという気すら起きない、お坊さんに頼るくらいなら自分で何とかすると思っているのが普通かもしれない。

仏教を勉強する、というよりも、ガウタマ・シッダールタ(お釈迦様、ブッダ)が悟った内容を会得することが、悩み続ける日々を終わらせる前提条件となる。人類の大半が「悟り」を開くことなく生涯を終える。仏教の修行者になっても、一生「悟り」を求め続けるだけで終わる人たちが多い。人生の真髄に達するためには、普通の人が一生を賭けても到達できない「悟りの境地」に達することが必要で、しかしながらそれだけでは半分にすぎない。とは言うものの、嬉しいことに、お釈迦様の教えを体得すれば人生の半分に片がつく。これはとてつもなくすごいことなのだ。勘違いしてはならないのは、「悟り」を開いても人生の半分が解決するだけだということ。具体例をあげるなら、「悟り」を開いても、明日の朝は何時に起きるべきだとか、お昼ご飯は何を食べようとか、どんな仕事をしようか、どんなふうに仕事しようか、家族のプレゼントは何にしようか、などといった生活の実の部分はちゃんと考えなければならない。お釈迦様の時代と、現代日本ではわけが違う。社会が違う、気候がちがう、当然托鉢をして飯を食うこともできない。修行者に対する一般理解もないため、修行をしているだけで生きていける状況にはない。

お釈迦様の教えの真髄は「苦」の消滅である。簡単に言えば、あなたが本当に悩むということが不可能になる。人生を送る上で、「苦」が滅せられるというのは有り難いことだ。仏教の中でも、人生の真髄を知るためには初期仏教にあたるのが良い。お釈迦様の言葉、お釈迦様が生きていた時代になるべく近い仏典を勉強するべきだ。スッタニパータやダンマパダなどである。しかし、「ブッダの言葉」ということで出版されているが、お釈迦様自身は書物を書いていない。弟子たちが「お釈迦様がこんなふうに言ってたよ」というのをまとめたものだ。仏教の勉強、お釈迦様の教えを体得する難しさはここにある。本人が書いたものじゃないので、内容に混乱してしまうことがあるのだ。仏教を知った人間たちが、好き勝手な解釈をしていて、仏教はほとんど「無法地帯」となっている。そんな玉石混交の中から、真実を見つけねばならない。

お釈迦様は「悟り」を求めて苦行などの修行もしたうえで、苦行は無意味だと理解し、瞑想により「悟り」を得た。ガウタマ・シッダールタからブッダ(目覚めた人)となったのである。お釈迦様は苦行は意味がないからやめろと言っているから、あなたも苦行をする必要はない。お釈迦様がすでに苦行には意味がないと言っているのに、あらためて苦行をするというのは気がどうかしている。「苦行」という修行ではなくても、あなたが日常生活において「苦しんでいるから価値がある」と思い込んで我慢しているなら、無駄なことはやめよう。苦しむから良い、ということはない。

お釈迦様の教えは勉強するだけでは身につかず、瞑想を基本とする実践が必要だ。最近ではマインドフルネスという言葉でも知られている。瞑想にも種類があり、「気づき」の瞑想であるヴィパッサナー瞑想が恩恵を与えてくれる。あなたは今この文章を読んでいるが、実際のところ呼吸もしている。自分の呼吸に「気づく」ことから瞑想は始まる。人間はとにかくさまざまな妄想をして苦しんでいるのだが、瞑想をすることで自分の思考を「手放せる」ようになる。「考えている自分」を客観的に見ることができて、「考えている内容」を観察することができれば、「悟り」に一歩近づける。自分の世界観や思考そのものに左右されて生きているのが普通の人だ。しかし瞑想を極めれば、思考の上にある「抽象世界」のようなものを手に入れることができる。たとえば、普通の人は怒りを覚えれば怒っていて、ストレスがたまる。一方で瞑想ができる人は、怒りが自分の頭にわきおこったことを観察して、「ああ、怒りを覚えたな」と客観的に認識する。自分の思考を「手放し」て、ただそこに生きている状態にいつでもなれる。思考や感情に支配されないのである。

現代では「論理的思考力」を重要視する人もいる。だが、論理的思考には限界がある。論理的思考とは、スプーンのようなものである。スープを飲むこと、カレーを食べることができるなど、便利である。しかし、スプーンではステーキを切ることはできない。論理的思考に達者で、「賢い」人たちは、自分の頭の良さを過信してしまう。つまり、考えれば何もかもわかると思う罠に陥る。多くの人間を苦悩させているのは、思考の「罠」ゆえなのだ。人間にわかることは多くも少なくもなく、わかるものだけがわかるということだ。たとえば、空がどのような仕組みをしていて青く見えるのかを科学的に説明することはできるが、「なぜ」空がそういう状態で今地球上に存在しているかを問うことはできない。「人間には脳みそがあり、考えることができる」と説明できたとしても、なぜ人間が今のような脳みそを持つに至ったかを問うことはできない。

ここで一つの真理に行き着く。人間には「どのように」という部分しか探求することができず、「なぜ」を問うことができないということだ。「どのように」と「なぜ」という2つの言葉を混同して使っているからこそ、悩むのである。

あなたが人生の意味や生きる意義がわからないと言っている理由は、人生に対して「なぜ生きる?」と問うているからである。本来、「なぜ?」と問うことができないもの対して「なぜ生きる?」と疑問を持っているので、永久に解決することはない。つまり、「なぜ?」と問うことを無意味・不可能だと知ることが必要である。

では、なぜと問うことができない人生をどのように考えればよいか。それは、不可能である問い「なぜ?」を発したくなる心理に注目すればよい。人生では、ある日突然自分が生きているという事実を知る。物心がつけば、いろいろなことを考えて、行動するようになる。赤ちゃんの時と違い思考力がつくので、生きていることに気がつくことができる。そう、人間はある日、気がついたら生きているのである。自分が望んで「生まれたい!」と言って生まれてきたわけではない。唐突に生命を受けている。しかも、生命は必ず死ぬ運命にある。せっかく生まれて生きているのに、いつかは死ぬという現実がある。これこそが人生の謎と醍醐味である。

たとえて話してみよう。人生とは、「贈り物」のようなものである。人生とは、「いきなり100兆円がタダで手に入った」ようなものである。人間は、なんだかよくわからないけど「贈り物」をもらった状態になっている。なぜ「贈り物」が送られて来たのかわからない。思いがけず手に入っているので、ある人にとっては「ラッキー!使い倒してやろう!」と思うし、ある人にとっては「意味がわからないよ。なんでこんな贈り物もらえたの?誰かの下心でもあるの?早く返したい。」と思う。100兆円のたとえでも、人によっては「やったぜ。よくわからんが100兆円ゲット!なくなるまで楽しんで使おう!」となるし、他には「100兆円なんかあっても使い切れないし。まああんまり使わなくてもいいか、めんどくさいし」「100兆円の使い方なんてわからないから、いち早く逃げ出したい。意味がわからないし怖い」などである。

人生は突然与えられた「超高性能のゲーム」ともたとえることができるが、「ゲーム」と言ってしまうと誤解が生まれてしまう。ご存知の通り、ゲームはリセットボタンがあり、いつでもはじめからやり直せる。ゲームの中では人を亡きものにしても現実で逮捕されるようなことはない。人はそのようなゲームの性質を知っているため、人生をゲームだと言ってしまうのに抵抗が生まれる。本来は「人生はプレゼントされたゲームのようなものだ。ゲームオーバーになるまで楽しめばいいんだよ」という言葉でも問題ないのだが、さきほど言ったような性質により、誤解がつきまとう。これは言葉の限界と言える。人間は人間に何かを伝える時、言葉が便利で頼ってしまう。しかし、同じ言葉を語っても人によって言葉への理解が違うために、意図した内容が伝わらないことがある。言葉を信じすぎてはならない。

人生の意味、生きる意義を追いかける悩み多き人は、おそらくとても「良い」人なのだ。突然与えられた「人生」「生命」に対して、「え、こんなすごいものをタダでもらっていいのか?この命は何のためにもらえたんだ?裏があるのか?どうすればいいんだ?何をすればいいんだ?」などと考えている。そう考えるあまり、発想の転換ができなくなっている。加えて、欲望があるために「何かをしなければ」、他人のことを気にするあまり「誰かのためにならなければ」といった思考の網にとらわれてしまう。あなたにも、他の人間にも、人生は実は何も求めていない。あえて、強いて言えば、「生きる」ことだけが望まれたと言える。なぜなら、あなたは今生きているのだから。

人生は、意味や意義を超えているのである。あまりにも凄まじい「プレゼント」であるがゆえに、感性を持つ人なら遠慮するし訳がわからなくなるほどの恩恵だ。誤解を恐れずに言うなら、人生は「遊び場」である。プレゼントされた「遊び道具」がたくさんありすぎて、にわかには信じがたい。もしあなたが道を歩いていて、たまたま通りすがりの人に「この100万円、使わないからあげますよ」と言われて、受け取れるだろうか?それよりもすごいことが「生命」であり、あなたの「人生」なのだ。

人生とは贈り物のようなものであり、好きなように使ってよい。あなたが捨てるべきなのは、人生に対する「遠慮」である。人生には期限があるし、それはいつになるかはわからないが、その期限が来るまでどんなふうにしてもかまわない。自由なのである。仕事をしていても、あなたの心のうちでは遊んでいたらいい。もちろん仕事を「真剣に」している人が多い中で、「遊んでいる」雰囲気を出すのは、この人生「ゲーム」を攻略していくには不適切だろう。しかし、あなたは心の中でいつだってどんなことをしていても楽しんだらいい。あなたは、ゲームをプレゼントされた小さな子どものようなものである。小さな子どもが「なぜ僕にはこんなゲームがもらえたんだ?おかしいんじゃないか?このゲームをすることにより何が求められている?ゲームをすることの意味や意義はなんだ?」などと考えていたとしたら、滑稽だろう。きっと、「やったあ!ゲームがもらえた!楽しもう!」がすべてだ。