人生が変わる、心に響くゲーテ名言・格言集。『ゲーテとの対話』より

岩波文庫エッカーマン著『ゲーテとの対話(上)』・『ゲーテとの対話(中)』・『ゲーテとの対話(下)』より引用している。


これが果たして将来の私の全集におさめるだけの値打ちがあるかどうかを、私は知りたいわけなのだ。私自身はこれともうあまりにも距離ができすぎてしまっているので、判断ができないのさ。


どんなすぐれた人たちでも、大家の才能をもち、この上なしの立派な努力を重ねる人たちこそ、大作で苦労する。私もそれで苦労したし、どんなマイナスを経験したか、よくわかっている。


現在には現在の権利がある。その日その日に詩人の内部の思想や感情につきあげてくるものは、みな表現されることを求めているし、表現されるべきものだ。


さしあたっては、いつももっぱら小さな対象ばかりを相手にし、その日その日に提供されるものを即座にてきぱきとこなしていけば、君は当然いつでもよい仕事をはたして、毎日が君に喜びをあたえてくれることになるだろうよ。


とにかく差し当たって大物は一切お預けにしておくことだね。君はもう十分に長いあいだ努力を重ねてきたのだから、今は人生の明るいのびのびしたところへさしかかったときなのだ。これを味わうには、小さな題材を扱うのが一番だよ。


彼らの多くには、軽妙な生きいきした描写の能力が欠けているよ。自分の力以上のことをやろうとばかりしてね。この点で、私は彼らのことを無理をする才能とよびたいのだ。


一般的なものに留まっているかぎりは、誰にでも模倣されてしまうが、特殊なものは、誰もわれわれの模倣をすることができない。なぜかといえば、他の人たちはそれを体験していないからだ


特殊なものは人の共鳴を呼ばないのではないかと心配する必要はない。すべての性格は、どんなに特異なものでも、みな普遍性をもっているし、描かれうるものは、石から人間にいたるまで、すべて普遍性をもっている。なぜなら、万物は回帰するのであって、ただの一度しか存在しないものなんて、この世にはないからだ


重要なのは、小さなものの中に、もっと大きなものを認めるための目と世間知と洞察力を十分持ちあわせていることなのだね。


私の常として、すべてを静かに胸にしまって、完成されるまで誰にも知らせない


つらい思いも忍耐も学んできた


苦労と仕事以外のなにものでもなかったのだよ。七十五年の生涯で、一月でも本当に愉快な気持で過ごした時などなかったと、いっていい


精力を散漫に浪費しないように注意すれば、彼は、相当なものになれるだろう


実際、人間には、自分がその中で生れ、そのために生れた状態だけが、ふさわしいのだからね。偉大な目的のために異郷へかりたてられる者以外は、家に留まっているほうがはるかに幸福なのだ


一方をやれば、他方はおろそかになり、忘れられてしまう。だから、賢明な人というものは、気を散らすような要求は一切しりぞけて、自分を一つの専門に限定し、一つの専門に通暁するわけだよ


時代というものは不思議なものだよ。暴君のようなもので、むら気であり、世紀がかわるたびにひとの言動に対して、別人のような顔をしてみせる


世の中の状況というのは、永遠に、あちらへ揺れ、こちらへ揺れ動き、一方が幸せに暮らしているのに、他方は苦しむだろうし、利己主義と嫉みとは、悪霊のようにいつまでも人びとをもてあそぶだろうし、党派の争いも、はてしなくつづくだろう


いちばん合理的なのは、つねに各人が、自分のもって生れた仕事、習いおぼえた仕事にいそしみ、他人が自分のつとめを果すのを妨害しないということだ


霊魂不滅を信ずるものは、ひそかに幸福にひたっていればいいので、それを自慢するいわれなどないのだ


森羅万象の中に理性をもちこもうとしても、人間の卑小な立場からでは、全くの徒労に終るだけだ。人間の理性と神の理性とは、まるっきり違ったものだからね


死を考えても、私は泰然自若としていられる。なぜなら、われわれの精神は、絶対に滅びることのない存在であり、永遠から永遠に向かってたえず活動していくものだとかたく確信しているからだ。それは、太陽と似ており、太陽も、地上にいるわれわれの目には、沈んでいくように見えても、実は、けっして沈むことなく、いつも輝きつづけているのだからね


君が生涯の信念としてもてることを教えてあげよう。自然の世界には、われわれが近づきうるものと近づきえないものがあるということだ。これを区別し、十分考慮し、それを尊重することだ。(中略)これがわからない人は、おそらく一生涯、近づきえないものに取りくんで苦労し、結局、真理に近づくこともできないだろうよ。ところが、これを知る賢い人は、近づきうるものだけをよりどころにするだろう。


この世ですでにれっきとしたものになろうと思い、そのため、毎日毎日努力したり、戦ったり、活動したりしなければならない有能な人間は、来世のことは来世にまかせて、この世で仕事をし、役にたとうとするものだ。その上、不死の思想などというものは、現世の幸福にかけては、最も不運であった人たちのためにあるのだよ


純粋の、真に偉大な才能ならば、制作することに至上の幸福を見いだすはずだ


比較的才能のとぼしい連中というのは、芸術そのものに満足しないものだ。彼らは、制作中も、作品の完成によって手に入れたいと望む利益のことばかり、いつも目の前に思い浮かべている。だが、そんな世俗的な目的や志向をもつようでは、偉大な作品など生れるはずがないさ


人生何事も、成功しようとするなら、最後までやりとおさねばならない


巨匠の域に達するために、じっくり仕事をつづけるだけの忍耐と才能と勇気を心中に感ずることのできる者は、ほとんど一人もいないことはたしかだ


要するに、君は、散漫にならぬように注意して、力を集中させることだよ。私にしたところで、三十年前にこれだけの賢明さがあったなら、まるっきり別の仕事をやっただろう


君にとってなんの成果にもならぬこと、君にふさわしくないようなことは、すべて放棄したまえ


必要もないというのに、そんなものにかかわりあうことはないよ


馬鹿は馬鹿のするにまかせておこう。馬鹿につける薬はないさ。それに、本当の才能ある人はちゃんと自分の道を見つけるものなのだ


人はただ自分の愛する人からだけ学ぶものだ


本当に他人の心を動かそうと思うなら、決して非難したりしてはいけない。まちがったことなど気にかけず、どこまでも良いことだけを行なうようにすればいい。大事なのは、破壊することでなくて、人間が純粋な喜びを覚えるようなものを建設することだからだ


いたるところで、一人ひとりが自分を立派に見せようとしている。どこへいっても、全体のため、仕事のために自分自身のことなど気にならないような誠実な努力家は見あたらない


実は一人ひとりが自分を特殊な存在につくりあげなければならないのだ。しかし、一方また、みんなが一緒になれば何ができるかという概念をも得るように努力しなければならない


結局、最も偉大な技術とは、自分を限定し、他から隔離するものをいうのだ


私はまったく多くの時間を浪費しすぎた(中略)自分の本来の専門でもないことにね。(中略)私は、もっと自分の本来の仕事に専念すべきだった


一つの事に徹して、偉大であるということはどういう意味なのか、またそのために何が必要なのか、ということを、いつも今さらのように悟ることになる。


独創性ということがよくいわれるが、それは何を意味しているのだろう!われわれが、生れ落ちるとまもなく、世界はわれわれに影響をあたえはじめ、死ぬまでそれがつづくのだ。いつだってそうだよ。一体われわれ自身のものとよぶことができるようなものが、エネルギーと力と意欲の他にあるだろうか!私が偉大な先輩や同時代人に恩恵を蒙っているものの名を一つひとつあげれば、後に残るものはいくらもあるまい


すべてが現状のままであるかぎり、ほとんど何も期待できないということだ。時代のよいものをすべてすばやく自分のものにして、それによってすべてのものをも凌駕するような偉大な才能が現れなければならないのだ。その手段はすべて目の前にあるし、道は示され、軌道まで敷かれている


たいていの人間にとっては学問というものは飯の種になる限りにおいて意味があるのであって、彼らの生きていくのに都合のよいことでさえあれば、誤謬さえも神聖なものになってしまうということだったよ


たとえば***は、偉大な才能とか世界的な学識を持っているのだから、国民にとって大物になりえたにちがいない。ところが、性格がもろくて弱いために、国民になみなみならぬ影響を及ぼすこともできなければ、自分自身も国民の尊敬を得ることができなかった


レッシングのような男が、われわれには必要なのだ。彼が偉大なのは、その性格や意志の強固さによるもので、それ以外に何がある!あれくらい賢明で、あれくらい教養のある人物なら、他にもたくさんいるが、あれくらいの性格がどこにある!


じつに才たけて知識も豊かな人は大勢いるが、同時に、虚栄心も強い。近視眼的な大衆から才気のある人とほめられたい一心で、恥も外聞もなくしてしまう。彼らにとっては、神聖なものなどまったく存在しないのだ


どんなにあらゆる点で才たけていても、結局それだけでは世のためにもならないし、それだけでは少しも建設的なところもない


われわれは、いっそう高い格言を、それが世のためになるかぎりにおいてのみ述べるべきだろう。それ以外のものは、自分ひとりの胸中にしまっておけばいい


われわれの行動には、すべて結果がともなうが、利口な正しい行動が、必ずしも好ましい結果をもたらすとはかぎらないし、その逆の行動が必ずしも悪い結果を生むわけでもなく、むしろ、しばしばまるっきり正反対の結果になることさえあるね。(中略)こういうことをよく心得ている世間人は、じつに大胆に、横着に仕事をしているのが目につくよ


勇気だけはふるいおこして、すみやかに決断しなければならない。それはちょうど、海水浴のとき、水を見て尻込みしているようなものだ。ただもうひと思いに飛びこんでしまえばいいのさ。そうすれば、水の方が、われわれの思うままになってくれるよ


あの人よりも自分の方が先にあの世へ行くと思っていたよ。しかし神は、神がよいと思われる通りになさるものだ。われわれあわれな人間には、できるだけよく、できるだけ長く、ただ耐え忍びながら、自分をもちこたえる以外に手がないのさ


われわれはいつだって何かしら制約を感じている。自分たちを取り囲む人とか物とかに影響をうけている。お茶のスプーンは銀にかぎるというわけで、金のが出たりすると、さっそく気をもむ。こういった次第で、いろいろと気兼ねしているうちに、いつしか心も麻痺してしまい、われわれの天性に備わっているかもしれない何か偉大なものを自由に表現するまでにはいたらないのさ。われわれは、外界の事物の奴隷にすぎず、事物がわれわれを萎縮させるか、のびのびさせるかに応じて、われわれは、つまらない人間にも見えれば、偉い人間にも見えるのだよ


概して人間というものは、自分の情熱や運命のおかげでもう十分に陰うつになっている


人間には、明るさと晴朗さが必要なのだ


こうしたことが実際起こったのだと認める方が、私は理性的なことだと思う。しかし、それがどうして起こったか、などと思い煩うことは、無駄な話だよ。そんなことは、解決できない問題にかかずらって喜んでいて、他のこととなるとからきし駄目な連中に、勝手にやらせておけばいいのさ


私の作品は大衆のために書いたものではなく、同じようなものを好んだり求めたり、同じような傾向をとろうとしているほんの一握りの人たちのためのものなのだ


ひとかどのものを作るためには、自分もひとかどのものになることが必要だ


私は、ギリシャ人やフランス人に多くのものを負うているし、シェークスピアやスターンやゴールドスミスにも限りない恩恵をこうむっている。だからといって、それだけでは私の教養の源泉だとは、決めつけられない。いちいち数えあげるとなると、きりがないし、第一そんな必要もなかろう。大事なことは、真実を愛する魂、真実を見出したらそれを摂取するだけの魂を持っていることだよ


この世界は、現在では老年期に達していて、数千年このかたじつに多くの偉人たちが生活し、いろいろと思索してきたのだから、いまさら新しいことなどそうざらに見つかるわけもないし、言えるわけもないよ


真理というものはたえず反復して取り上げられねばならないのだ。誤謬が、私たちのまわりで、たえず語られているからだ。しかも個人個人によってではなく、大衆によって説かれているのだからね。新聞でも、百科全書でも、学校でも、大学でも、いたるところで誤謬はわがもの顔をしている。自分の味方が大勢いると感じるから、いい気になっているわけさ


キリスト教は、それ自体強力なものであり、むしろ時には落ちぶれたり、悩んだりする人類は、いつも、キリスト教によってみずからを立ち直らせてきた。キリスト教にこうした働きのあることを認める以上、それはあらゆる哲学を超越したものであり、哲学の力を借りる必要など毛頭ないわけだ。同様に、哲学者の方も、ある種の説、たとえば霊魂不滅説のようなものを証明するために、宗教の名声に頼る必要などないのだ。人間は、不死を信じていいのであり、人間は、そうする権利を持っているし、それが人間の本性にかなっているのであり、宗教の約束するものを期待していいのだよ。だが、哲学者がわれわれの霊魂の不滅を、伝説を用いて証明しようとしたら、それはじつに説得力がとぼしく、たいして意味のないことになる。私にとっては、われわれの霊魂不滅の信念は、活動という概念から生れてくるのだ。なぜなら、私が人生の終焉まで休むことなく活動して、私の精神が現在の生存の形式ではもはやもちこたえられないときには、自然はかならず私に別の生存の形式を与えてくれる筈だからね


フランス人の詩的な能力はヴォルテールに集約されたのだよ。こういう民族の旗頭は、彼らが活躍する時代においては、偉大だ。後世まで、影響をあたえる人物もいるにはいるが、大部分は、他の頭にとってかわられ、次の時代には忘れられてしまうのさ


それに経験を積むとなると、先立つものは金だよ。私がとばす洒落の一つ一つにも、財布一ぱいの金貨がかかっているのだ。今自分の知っていることを学ぶために、五十万の私の財産が消えていったよ。父の全財産だけでなく、私の俸給も、五十年余にわたる相当な額の文筆収入も、そうだ


才能があるというだけでは、十分とはいえない。利口になるには、それ以上のものが必要なのだ。大きな社会の中に生活してみることも必要だし、当代一流の士のカルタ遊びを見たり、自分も勝負に加わってみることも必要だね


すべてのものは、多かれ少なかれ、屈折しており、揺れ動いており、多かれ少なかれ、人の意のままになるものだ。しかし、自然は、けっして冗談というものを理解してくれない。自然は、つねに真実であり、つねにまじめであり、つねに厳しいものだ。自然はつねに正しく、もし過失や誤謬がありとすれば、犯人は人間だ。自然は、生半可な人間を軽蔑し、ただ、力の充実した者、真実で純粋な者だけに服従して、秘密を打ち明ける


悟性は、結局、自然には到達できないのだ。神性に触れるためには、人間は自分を最高の理性にまで高めるだけの力がなければだめだ


神性は、生きているものの中に働いており、死んだものの中には働かないのだ。生成し変化するものの中にはあるが、生成の終ったもの、固まってしまったもの、の中にはない。だから、神性へ向う傾向のある理性は、もっぱら生成しつつあるもの、生きているものだけを相手にする


豪華な建物や部屋などというものは、王侯や金持ちのためのものだ。そんなところに暮していると、安楽をむさぼり、太平楽になれて、もうそれ以上なにもしたくなくなる


君も、これからの人生でだんだんわかってくるだろうが、世の中には、当然立つべき立場に立っていることのできる人間というものは、ほんの僅かしかいない


人間は、高級であればあるほど

ますますデーモンの影響を受ける。だから、自分の主体的な意志が横道にそれないように、たえず気をつけなければいけない


われわれのより良い性質を終始たくましく維持して、デーモンが不当に跳梁しないようにすることは、どうして、じつに難しい


誰も、自ら進んで他人に仕える者はいないよ。だが、そうすることが結局自分のためになると知れば、誰だって喜んでそうするものさ。ナポレオンは、人間を十二分に知りつくしていた。それで、人間のこの弱点を存分に利用することができたのだね


クロード・ロランは、現実の世界を隅から隅まで、すらすら空でいえるほどしりつくしていた。それを彼は自らの美しい魂の世界を表現するための手段として用いた。これこそまさに本当の理想性だよ。現実を手段として利用しながら、真実に見えてくることがまるで現実であるかのように思いこませることを知っているのだ


自分自身を知るように努めよ、とね。しかしこれは考えてみると、おかしな要求だな、今までだれもこの要求を満足に果せたものなどいないし、もともと、誰にも果せるはずはない。人間というものは、どんなことを志しても、どんなものを得ようとしても、外界、つまり自分をとりまく世界に頼るものだ。そしてなすべきことといえば、自分の目的に必要な限り、外界を知り、それを自分に役立たせることだ。自分自身を知るのは、楽しんでいるときか、悩んでいるときだけだ。また、悩みと喜びを通してのみ、自分が何を求め何を避けねばならぬかを教えられる。だが、それにしても人間というものは、不可解な存在であって、自分がどこから来てどこへ行くのかもわからず、世の中のこともろくろくわかっていないし、ましてや自分自身のことになると何よりもわからないのだ


困るのは

人生において誤った傾向にさんざん邪魔されているのに、それからきっぱりと離れられないうちは、そういう誤った傾向に気づかなかったことだ


誤った傾向は

生産的ではない。そういうばあいには、生み出されたものにも何の価値もない。他人をみてこれに気づくのは、それほどむずかしいことではないが、自分自身にそれを認めることとなると稀有な話で、どうしても、偉大な精神の自由さが求められる。たとえ自分で知ったところで、それが力になるとはかぎらない。遅疑逡巡していて、なかなか決心がつかないからだ。ちょうど、不実の証拠を長いあいだくり返し見せつけられているというのに、恋する娘から離れるのがむずかしいようなものさ


彼はこれほどの事故にあっても、じつに落ちつきはらっていて、『小生はひとつの経験をいたしました、これを無駄にしないつもりです』なんて、ぬけぬけと書いているのさ。こういう男こそ、まさに男一匹、一人前の人間といえよう。愚痴もこぼさず、すぐにまた仕事にとりかかり、いつもじっとしていないところを見ると、じつに楽しくなるな。どう思うかね、実に立派じゃないか?


肝心なのは、克己・自制することを学ぶことだ。もし私が誰にも妨げられず、したい放題にふるまったとしたら、きっと自分自身はもちろんのこと、まわりの者も破滅させてしまったにちがいないね


精神の意志の力で成功しないような場合には、好機の到来を待つほかないね


人は信仰と溌剌とした勇気によってどんなに困難なことにでも打ち勝てるが、そのかわり発作的なほんの僅かな疑いでもたちまち破滅してしまうという高遠な教えがあらわれているよ


忠告を求める者は目先きがきかず、与える者は僭越だということだ


すぐれた人格を感じとり、尊敬するためには自分自身もまた、ひとかどの者でなければいけない。エウリピデスの崇高さを否定した連中は、すべて頭のからっぽなあわれな者だし、そのような崇高さはわからないのだよ。あるいは、僭越にも貧弱な世間を前にして実際の自分よりもよく見せようとし、また事実そう見せることのできた恥知らずな詐欺師どもなのだ


作家は、自分の人生のそれぞれの年代に記念碑を遺そうとするならば、生れつきの素質と善意を手放さないこと、どの年代でも純粋に見、感じること、そして二次的な目的をもたず、考えた通りまっすぐ忠実に表現すること、それがとくに大切だ


未完の第四幕のところには、白紙を入れておいた。こうして出来上ったものを纏めてみると、それに惹かれ、刺戟されて、まだ出来ていないものも完成しようという気になるものだ。そういった感情的なものも、意外にばかにならぬものだから、あれこれ手をつくして精神的なものを助けるようにしなければならない


若い人は、何でもみな一日で事が成ると思っている


安楽で、上品な家具を身のまわりにおくと、考えがまとまらず、気楽な受動的状態になってしまうのだ。若いときからそうした環境になれているなら別だが、きらびやかな部屋や、しゃれた家具とかいったものは、思想ももたず、また、もとうともしない人たちのためのものだよ


恋愛と知性がなにか関係でもあるというのかね?われわれが若い女性を愛するのは、知性のためではなく、別のもののためさ。美しさや、若々しさや、いじわるさや、人なつっこさや、個性、欠点、気まぐれ、その他一切の言いようのないものをわれわれは愛しはするが、彼女の知性を愛するわけではないよ。彼女の知能が光っていれば、われわれはそれを尊敬しよう。またそれによって娘はわれわれにとって無限に尊く見えるかもしれない。けれども、知性は、われわれを夢中にし、情熱を目覚ます力のあるものではないのだよ


偉大なものは、ひたむきで、純心な、夢遊病者のような創造力によってのみ産み出される


このくだらない数百年の間に、生活自体がなんと手垢にまみれ、虚弱になってしまったことだろう!どこへ行けば、今なお独創的な天才が素っ裸でわれわれを迎えてくれるというのか!だれが本物の力、ありのままの自己を示す力を持っているのか!


時代はたえず進歩しつつある。人間のやることなどは、五十年ごとに違った形態をとるのだから、一八〇〇年には完全であった制度も、一八五〇年にはもう欠陥となってしまうだろう


ある国民の中に大きな改革への真の欲求があるなら、神はその国民とともにあり、その改革は成功する


願わくば

われわれがみな良い助手である以上に何者かになろうなどとしないことだ!われわれは、それ以上の者になろうとしたり、哲学や仮説といった大仕掛けな道具をところかまわず持ち出すからこそ、駄目になるというわけさ


贅沢三昧のできない人や、若さにまかせて仕放題のできない人には、劇場ほど快適な場所はまず見つからない。君は、何ひとつ要求されないし、気が向かねば口を開かなくてもよい。それどころか、王様みたいにいい気持で腰かけたまま、のんびりと一切を閲見し、ただ望みどおりに自分の精神と感覚をもてなしてもらえる


厳しくやればかなりの効果があがるが、愛情をもってした方が、もっとききめがある


しかし一番いいのは、見識をもち、誰にも組みしない公平な立場をとり、人をわけへだてしないということだよ


私を危険におとし入れかねない敵が二つあったな。第一の敵は、才能のある者を熱烈に愛してしまうことで、これはややもすると私を不公平にしてしまう。もう一つの敵は、これは言いたくないことだが、君ならおわかりだろう。われわれの劇場には、美しい上に若くて、しかもたいへん心も優雅なご婦人方がいないわけではなかったのだよ


私はあくまで純粋に身を持して、いつも自分自身を抑えてきたから、それで劇場の方も取り仕切ることができたのだし、尊敬を失うようなことも決してなかった


二流、三流の脚本も、一流の力のある配役によって、信じがたいほど高められ、じつにすばらしいものとなる


人間というものは単純なものだ。たとえ、どんなに豊かで、多様で、測りがたい人間でも、その人間のいろんな状況がつくっている軌道など、たちどころに一巡されてしまうものさ


シュレーゲルのような人間には

モリエールほどの有能な天才は、もちろん、目の上のたんこぶみたいに邪魔なのだね。『人間嫌い』は、私など世界で一番好きな戯曲として繰り返し読んでいるものだが、それがシュレーゲルには気に食わない


彼の異常な博識ぶりと厖大な読書量というものは、驚くばかりだ。けれども、それだけでは不十分なのだ。どんなに学識をそなえていようとも、批評家にはなれない


生れが同時代、仕事が同業、といった身近な人から学ぶ必要はない。何世紀も不変な価値、不変の名声を保ってきた作品を持つ過去の偉大な人物にこそ学ぶことだ。こんなことをいわなくても、現にすぐれた天分に恵まれた人なら、心の中でその必要を感じるだろうし、逆に偉大な先人と交わりたいという欲求こそ、高度な素質のある証拠なのだ


小才しかない人間は、古代の偉大な精神に毎日接したところで、少しも大きくはならないだろう。だが、将来偉大な人物となり、崇高な精神の持主となるべき力を、その魂の中に宿しているような気高い人物ならば、古代ギリシャやローマの崇高な天才たちと親しく交わり、付き合ううちに、この上なく見事な進歩をとげ、日々に目に見えて成長し、ついにはそれと比肩するほどの偉大さに到達するだろう


さあ、もういいかげんに勇を奮って、いろんな印象に熱中してみたらどうかね。手放しで楽しんだり、感激したり、奮起させられたり、また教えに耳を傾けたり、何か偉大なものへ情熱を燃やして、勇気づけられたらどうかね。しかし、抽象的な思想や理念でないと一切が空しい、などと思いこんでしまってはいけないのだ!


文学作品は測り難ければ測り難いほど、知性で理解できなければ理解できないほど、それだけすぐれた作品になる


人は、窮屈な家の中にいると、ちぢこまってしまう。ここへ来ると、目の前に見る大自然のように、気持ちが大きくなり、のびのびする。人は、本来いつもこうであるべしなのだ


例の有名なトリストラムの父親で、半生の間というもの、戸の軋る音にいらいら腹を立てながら数滴の油をさすだけで、日々の不愉快な思いをせずにすむものを、その決心がつかなかった男だと


けれども、われわれはだれしもそんなものだ。人間の蒙昧さと開悟とがその運命をつくる。デーモンが毎日、われわれを引き廻して、たえずあれをしろこれをしろと命令したり、尻を叩いたりしてくれれば苦労はないさ。ところが、善い霊に見放されると、われわれはたちまちだらけてしまって、暗中を模索することになる


ところが、ナポレオンは大した男だった!いつも開悟し、いつも明晰で、決断力があった。どんな時でも、有利だと認めたこと、必要だと認めたことなら、即刻実行に移すだけの力をそなえていた。彼の生涯は、戦いから戦いへ、勝利から勝利へと進む半神の歩みだった


なにも詩や芝居を作ることだけが生産的なのではないよ。行為という生産性だってあるのだ


天才というのは、神や自然の前でも恥かしくない行為、まさにそれでこそ影響力をもち永続性のある行為を生む生産力にほかならない


文学の世界には、その生存中、偉大な天才だと思われて名声を馳せながら、その影響がその生涯とともに途絶えて、自他ともに考えていたほどの者ではなかったことがわかる例があるものだよ」なぜなら、先ほど言ったとおり、生産的な影響を与えつづけないような天才は存在しないからだよ


作品や事業の量が多いからといって、生産的な人間とはいえない


ゴールドスミスは数こそ問題にならぬほどほんのわずかな詩しか書かなかったが、それにもかかわらず、私は、彼をあくまで詩人としてまことに生産的だったと断言せざるをえないのだよ。しかも、その理由は、彼のそのわずかな作品が、永続しうる生命を内に蔵しているからなのさ


ナポレオンは花崗岩でできた人間だといわれたが、これはとくにその身体についていえることだよ。この人はどんな無理なことでもやったし、またそうするだけの力もあったではないか!熱砂のシリア砂漠から、モスクワの雪原に至るまで、その間にどれほど数えきれない進軍や戦闘や夜営があったか知れないのだ!またその際、どれほどの苦難や肉体的困苦にも耐えねばならなかったことか!わずかな睡眠とわずかな食事、しかも不断の最高度の精神活動!ブリュメール十八日の恐しい緊張と興奮の際に、真夜中になっても彼はまだ一日中何も食事を摂っていなかった。それでも、彼の念頭には、食べもののことなどなく、深更に至ってもなお、フランス国民へのかの有名な布告を起草するだけの力を十分身内に感じていたのだ


あらゆる最高級の生産力、あらゆる偉大な創意、あらゆる発明、実を結び成果を上げるあらゆる偉大な思想は、だれかの思うままになるものではない。それは一切の現世の力を超越しているよ。人間はこうしたものを、天からの思いがけない賜物、純粋な神の子と見なして、ありがたく感謝の心で受け取り、尊敬しなければならないね。それは、人間を思うままに圧倒的な力で引きまわすデモーニッシュなもの、人間が自発的に行動していると信じながら、じつは知らず知らずのうちにそれに身を献げているデモーニッシュなもの、に似ているのだ。こういうばあい、人間は、世界を統治あそばす神の道具、神の感化を受け入れるにふさわしい容器と見なされるべきだ


私がすすめたいのは、けっして無理をしないことだ。生産的でない日や時間にはいつでも、むしろ雑談をするなり、居眠りでもしていたほうがいいよ。そんなときにものを書いたって、後で、いやな思いをするだけだからね


生産的にする力は、休息や睡眠の中にある。また、逆に、運動の中にもある


戸外の新鮮な空気は、もともとわれわれにはお誂えの場所だ。まるで、そこでは、神の精神がじかに人間にふきつけ、神の力が影響を及ぼしてくるかのように思われるからね


人間というものは、ふたたび無に帰するよりほかないものさ


並みはずれた人間なら誰でも、使命をにない、その遂行を天職としているのだ。彼はそれを遂行してしまうと、もはやその姿のままでこの地上にいる必要はないわけだよ。そして、彼は神の摂理によって、ふたたび別のことに使われる。しかし、この地上では、何事も自然の運行のとおりに起こるから、悪魔どもがひっきりなしに彼の足を引っぱり、ついには彼を倒してしまう


われわれがもうほとんど希望を失ってしまったときにかぎって、われわれにとって良いことが準備されるのだよ。私の生涯にも、涙にくれて眠りこむような時が幾たびかあった。けれども、そのとき、夢の中にまことに愛らしい姿が現れて、私を慰め、喜ばせてくれた。だから、翌朝は、ふたたび元気になって、嬉々として起き上ったものだ


人類がどれほど長く続くとしても、人類を悩ます邪魔物はけっしてなくならないだろうし、結局は人類の力を伸ばすことになるいろいろな苦難は後を絶つまい。彼らはいっそう利口になり、先が見えるようになるだろうが、いっそう良くも、幸福にも、活動的にも、ならないだろうね


まだ何千年も何千年も、この愛すべき昔ながらの地上で、おなじみのさまざまな戯れが行なわれていくだろう


有能な人、なんでもひじょうに手ぎわよく話される人は多い。しかし、そういう人は、底が浅いよ。ただ表面を撫でているにすぎない


人間が名を顕すのは、その人に有名になる素質が備わっているからだよ。名声は求めて得られるものではない


問題の選びかたにこそ、その人がどういう人物であるか、どういう精神の持主であるかがあらわれるものだ


本の読みかたを学ぶには、どんなに時間と労力がかかるかをご存知ない。私は、そのために八十年を費したよ。そして、まだ今でも目的に到達しているとはいえないな


私の言う創造力とは、実在しないものを空想するようなあやふやなものではない。私の考える創造力とは、現実の基盤から遊離したものではなく、現実的な周知のものに照らして、物事を予想し、推測しようとすることなのだよ


生活の仕方に一種の規則性と確固たる原則を持っていて、思慮深くて、人生の出来事をいいかげんにあしらわないような傑物は、皮相な見方しかしない連中の目に、えてしてペダントリーとして映るものだ


私は無理にも仕事をしなければならない

そして気を取り直して、この突然の別離を受け入れねばならない。それにしても、死は奇妙なものだ。いくら経験しても、自分の親しい者には起こらないように思っている。死は、いつも信じられないときに、思いがけなく起こる。死は、いわば不可能なことが、突然、現実となるようなものだ。私たちのなじみのこの世界から、まったく未知な別の世界への移動は、無理矢理に行なわれるものだから、後に残された者は、深刻な動揺を受けずにはいられないのさ


神の与え給うたところに従って、めいめいが自分の最善を尽せばいいのだ。私は、五十年このかた骨身を惜しまず働いてきた。自然が私の日課と決めてくれたことに夜も昼も熱中し、うまずたゆまず、たえず努力・研究し、できるだけのことをしてきた、といえよう。めいめい一人ひとりが自分についてこういえたら、すべてがうまくいくだろうね


愚昧な輩が、高貴な人間を迫害するのなら、まだしもだ!いや、それだけではない!天分に恵まれ、才能もある人たちが、おたがいに迫害し合っている。プラーテンはハイネを怒らせ、ハイネはプラーテンを怒らせる。こういったぐあいに猫も杓子も、ほかの者を誹謗し、いがみ合おうとしているが、世の中というのは、平和に暮して働いていくには、十分広くて大きいのだよ。それなのに、めいめいが、自分自身の才能といういわば獅子身中の虫のほかに、ごていねいにも敵をつくり出しているのだからね


良いことをやり抜くためには、困難があるものだね


子供のばあいですら、一冊の本や芝居が与える影響はそれほど心配する必要はないね。日々の生活のほうが、今も言ったとおり、どんな刺激的な本よりも影響が大きいよ


私ほど

若い人材を養護するために生涯をかけて貴重な時間と金を費やしてきた者はいないだろう。しかも、その連中ときたら、最初はきわめて期待を抱かせるのだが、結局はまるで何者にもならない


誰しも、自分自身の足元からはじめ、自分の幸福をまず築かねばならないと思う。そうすれば、結局まちがいなく全体の幸福も生れてくるだろう


私がひたすら目指してきたのは、自分自身というものをさらに賢明に、さらに良くすること、自分自身の人格内容を高める、さらに自分が善だ、真実だと認めたものを表現することであった


われわれが自分の欲するままにふるまっていると思っても、結局のところわれわれもみな集合体なのだ。われわれが最も純粋な意味でこれこそ自分たちのものだといえるようなものは、実にわずかなものではないか。われわれはみな、われわれ以前に存在していた人たち、およびわれわれとともに存在している人たちからも受け入れ、学ぶべきなのだ。どんなにすぐれた天才であれ、すべてを自分自身のおかげだと思うとしたら、それ以上進歩はできないだろう。しかし、きわめて多くの善良な人たちはこのことに気づかず、独創性の残骸にふりまわされて人生の大半を暗中模索しているのだよ


私は自分の作品を決して私自身の知恵ばかりに負うているとは思っていない。そのために材料を提供してくれた、私を取りまく無数の事物や人物にも負うていると思っているよ


結局のところ、何を自分で得るのか、それを他人から得るのか、また自力で活動するか、他人の力をかりて活動するかというようなことは、すべて愚問だね。つまり大事なことは、すぐれた意志をもっているかどうか、そしてそれを成就するだけの技能と忍耐力をもっているかどうかだよ。その他のことはみな、どうでもいいのだ


神は、今も絶えず、より低いものを引き上げるために、より高い人たちの裡で活動しつづけているのだよ