【名言・内容まとめ】『ゲーテとの対話 下』 (岩波文庫) | エッカーマン, 山下 肇

岩波文庫エッカーマン著『ゲーテとの対話(下)』より引用している。
『ゲーテとの対話』は、かの有名な哲学者ニーチェも絶賛していた名著。一度は読んでみることをおすすめする。


恋愛と知性がなにか関係でもあるというのかね?われわれが若い女性を愛するのは、知性のためではなく、別のもののためさ。美しさや、若々しさや、いじわるさや、人なつっこさや、個性、欠点、気まぐれ、その他一切の言いようのないものをわれわれは愛しはするが、彼女の知性を愛するわけではないよ。彼女の知能が光っていれば、われわれはそれを尊敬しよう。またそれによって娘はわれわれにとって無限に尊く見えるかもしれない。けれども、知性は、われわれを夢中にし、情熱を目覚ます力のあるものではないのだよ


偉大なものは、ひたむきで、純心な、夢遊病者のような創造力によってのみ産み出される


このくだらない数百年の間に、生活自体がなんと手垢にまみれ、虚弱になってしまったことだろう!どこへ行けば、今なお独創的な天才が素っ裸でわれわれを迎えてくれるというのか!だれが本物の力、ありのままの自己を示す力を持っているのか!


時代はたえず進歩しつつある。人間のやることなどは、五十年ごとに違った形態をとるのだから、一八〇〇年には完全であった制度も、一八五〇年にはもう欠陥となってしまうだろう


ある国民の中に大きな改革への真の欲求があるなら、神はその国民とともにあり、その改革は成功する


願わくば

われわれがみな良い助手である以上に何者かになろうなどとしないことだ!われわれは、それ以上の者になろうとしたり、哲学や仮説といった大仕掛けな道具をところかまわず持ち出すからこそ、駄目になるというわけさ


贅沢三昧のできない人や、若さにまかせて仕放題のできない人には、劇場ほど快適な場所はまず見つからない。君は、何ひとつ要求されないし、気が向かねば口を開かなくてもよい。それどころか、王様みたいにいい気持で腰かけたまま、のんびりと一切を閲見し、ただ望みどおりに自分の精神と感覚をもてなしてもらえる


厳しくやればかなりの効果があがるが、愛情をもってした方が、もっとききめがある


しかし一番いいのは、見識をもち、誰にも組みしない公平な立場をとり、人をわけへだてしないということだよ


私を危険におとし入れかねない敵が二つあったな。第一の敵は、才能のある者を熱烈に愛してしまうことで、これはややもすると私を不公平にしてしまう。もう一つの敵は、これは言いたくないことだが、君ならおわかりだろう。われわれの劇場には、美しい上に若くて、しかもたいへん心も優雅なご婦人方がいないわけではなかったのだよ


私はあくまで純粋に身を持して、いつも自分自身を抑えてきたから、それで劇場の方も取り仕切ることができたのだし、尊敬を失うようなことも決してなかった


二流、三流の脚本も、一流の力のある配役によって、信じがたいほど高められ、じつにすばらしいものとなる


人間というものは単純なものだ。たとえ、どんなに豊かで、多様で、測りがたい人間でも、その人間のいろんな状況がつくっている軌道など、たちどころに一巡されてしまうものさ


シュレーゲルのような人間には

モリエールほどの有能な天才は、もちろん、目の上のたんこぶみたいに邪魔なのだね。『人間嫌い』は、私など世界で一番好きな戯曲として繰り返し読んでいるものだが、それがシュレーゲルには気に食わない


彼の異常な博識ぶりと厖大な読書量というものは、驚くばかりだ。けれども、それだけでは不十分なのだ。どんなに学識をそなえていようとも、批評家にはなれない


生れが同時代、仕事が同業、といった身近な人から学ぶ必要はない。何世紀も不変な価値、不変の名声を保ってきた作品を持つ過去の偉大な人物にこそ学ぶことだ。こんなことをいわなくても、現にすぐれた天分に恵まれた人なら、心の中でその必要を感じるだろうし、逆に偉大な先人と交わりたいという欲求こそ、高度な素質のある証拠なのだ


小才しかない人間は、古代の偉大な精神に毎日接したところで、少しも大きくはならないだろう。だが、将来偉大な人物となり、崇高な精神の持主となるべき力を、その魂の中に宿しているような気高い人物ならば、古代ギリシャやローマの崇高な天才たちと親しく交わり、付き合ううちに、この上なく見事な進歩をとげ、日々に目に見えて成長し、ついにはそれと比肩するほどの偉大さに到達するだろう


さあ、もういいかげんに勇を奮って、いろんな印象に熱中してみたらどうかね。手放しで楽しんだり、感激したり、奮起させられたり、また教えに耳を傾けたり、何か偉大なものへ情熱を燃やして、勇気づけられたらどうかね。しかし、抽象的な思想や理念でないと一切が空しい、などと思いこんでしまってはいけないのだ!


文学作品は測り難ければ測り難いほど、知性で理解できなければ理解できないほど、それだけすぐれた作品になる


人は、窮屈な家の中にいると、ちぢこまってしまう。ここへ来ると、目の前に見る大自然のように、気持ちが大きくなり、のびのびする。人は、本来いつもこうであるべしなのだ


例の有名なトリストラムの父親で、半生の間というもの、戸の軋る音にいらいら腹を立てながら数滴の油をさすだけで、日々の不愉快な思いをせずにすむものを、その決心がつかなかった男だと


けれども、われわれはだれしもそんなものだ。人間の蒙昧さと開悟とがその運命をつくる。デーモンが毎日、われわれを引き廻して、たえずあれをしろこれをしろと命令したり、尻を叩いたりしてくれれば苦労はないさ。ところが、善い霊に見放されると、われわれはたちまちだらけてしまって、暗中を模索することになる


ところが、ナポレオンは大した男だった!いつも開悟し、いつも明晰で、決断力があった。どんな時でも、有利だと認めたこと、必要だと認めたことなら、即刻実行に移すだけの力をそなえていた。彼の生涯は、戦いから戦いへ、勝利から勝利へと進む半神の歩みだった


なにも詩や芝居を作ることだけが生産的なのではないよ。行為という生産性だってあるのだ


天才というのは、神や自然の前でも恥かしくない行為、まさにそれでこそ影響力をもち永続性のある行為を生む生産力にほかならない


文学の世界には、その生存中、偉大な天才だと思われて名声を馳せながら、その影響がその生涯とともに途絶えて、自他ともに考えていたほどの者ではなかったことがわかる例があるものだよ」なぜなら、先ほど言ったとおり、生産的な影響を与えつづけないような天才は存在しないからだよ


作品や事業の量が多いからといって、生産的な人間とはいえない


ゴールドスミスは数こそ問題にならぬほどほんのわずかな詩しか書かなかったが、それにもかかわらず、私は、彼をあくまで詩人としてまことに生産的だったと断言せざるをえないのだよ。しかも、その理由は、彼のそのわずかな作品が、永続しうる生命を内に蔵しているからなのさ


ナポレオンは花崗岩でできた人間だといわれたが、これはとくにその身体についていえることだよ。この人はどんな無理なことでもやったし、またそうするだけの力もあったではないか!熱砂のシリア砂漠から、モスクワの雪原に至るまで、その間にどれほど数えきれない進軍や戦闘や夜営があったか知れないのだ!またその際、どれほどの苦難や肉体的困苦にも耐えねばならなかったことか!わずかな睡眠とわずかな食事、しかも不断の最高度の精神活動!ブリュメール十八日の恐しい緊張と興奮の際に、真夜中になっても彼はまだ一日中何も食事を摂っていなかった。それでも、彼の念頭には、食べもののことなどなく、深更に至ってもなお、フランス国民へのかの有名な布告を起草するだけの力を十分身内に感じていたのだ


あらゆる最高級の生産力、あらゆる偉大な創意、あらゆる発明、実を結び成果を上げるあらゆる偉大な思想は、だれかの思うままになるものではない。それは一切の現世の力を超越しているよ。人間はこうしたものを、天からの思いがけない賜物、純粋な神の子と見なして、ありがたく感謝の心で受け取り、尊敬しなければならないね。それは、人間を思うままに圧倒的な力で引きまわすデモーニッシュなもの、人間が自発的に行動していると信じながら、じつは知らず知らずのうちにそれに身を献げているデモーニッシュなもの、に似ているのだ。こういうばあい、人間は、世界を統治あそばす神の道具、神の感化を受け入れるにふさわしい容器と見なされるべきだ


私がすすめたいのは、けっして無理をしないことだ。生産的でない日や時間にはいつでも、むしろ雑談をするなり、居眠りでもしていたほうがいいよ。そんなときにものを書いたって、後で、いやな思いをするだけだからね


生産的にする力は、休息や睡眠の中にある。また、逆に、運動の中にもある


戸外の新鮮な空気は、もともとわれわれにはお誂えの場所だ。まるで、そこでは、神の精神がじかに人間にふきつけ、神の力が影響を及ぼしてくるかのように思われるからね


人間というものは、ふたたび無に帰するよりほかないものさ


並みはずれた人間なら誰でも、使命をにない、その遂行を天職としているのだ。彼はそれを遂行してしまうと、もはやその姿のままでこの地上にいる必要はないわけだよ。そして、彼は神の摂理によって、ふたたび別のことに使われる。しかし、この地上では、何事も自然の運行のとおりに起こるから、悪魔どもがひっきりなしに彼の足を引っぱり、ついには彼を倒してしまう


われわれがもうほとんど希望を失ってしまったときにかぎって、われわれにとって良いことが準備されるのだよ。私の生涯にも、涙にくれて眠りこむような時が幾たびかあった。けれども、そのとき、夢の中にまことに愛らしい姿が現れて、私を慰め、喜ばせてくれた。だから、翌朝は、ふたたび元気になって、嬉々として起き上ったものだ


人類がどれほど長く続くとしても、人類を悩ます邪魔物はけっしてなくならないだろうし、結局は人類の力を伸ばすことになるいろいろな苦難は後を絶つまい。彼らはいっそう利口になり、先が見えるようになるだろうが、いっそう良くも、幸福にも、活動的にも、ならないだろうね


まだ何千年も何千年も、この愛すべき昔ながらの地上で、おなじみのさまざまな戯れが行なわれていくだろう


有能な人、なんでもひじょうに手ぎわよく話される人は多い。しかし、そういう人は、底が浅いよ。ただ表面を撫でているにすぎない


人間が名を顕すのは、その人に有名になる素質が備わっているからだよ。名声は求めて得られるものではない


問題の選びかたにこそ、その人がどういう人物であるか、どういう精神の持主であるかがあらわれるものだ


本の読みかたを学ぶには、どんなに時間と労力がかかるかをご存知ない。私は、そのために八十年を費したよ。そして、まだ今でも目的に到達しているとはいえないな


私の言う創造力とは、実在しないものを空想するようなあやふやなものではない。私の考える創造力とは、現実の基盤から遊離したものではなく、現実的な周知のものに照らして、物事を予想し、推測しようとすることなのだよ


生活の仕方に一種の規則性と確固たる原則を持っていて、思慮深くて、人生の出来事をいいかげんにあしらわないような傑物は、皮相な見方しかしない連中の目に、えてしてペダントリーとして映るものだ


私は無理にも仕事をしなければならない

そして気を取り直して、この突然の別離を受け入れねばならない。それにしても、死は奇妙なものだ。いくら経験しても、自分の親しい者には起こらないように思っている。死は、いつも信じられないときに、思いがけなく起こる。死は、いわば不可能なことが、突然、現実となるようなものだ。私たちのなじみのこの世界から、まったく未知な別の世界への移動は、無理矢理に行なわれるものだから、後に残された者は、深刻な動揺を受けずにはいられないのさ


神の与え給うたところに従って、めいめいが自分の最善を尽せばいいのだ。私は、五十年このかた骨身を惜しまず働いてきた。自然が私の日課と決めてくれたことに夜も昼も熱中し、うまずたゆまず、たえず努力・研究し、できるだけのことをしてきた、といえよう。めいめい一人ひとりが自分についてこういえたら、すべてがうまくいくだろうね


愚昧な輩が、高貴な人間を迫害するのなら、まだしもだ!いや、それだけではない!天分に恵まれ、才能もある人たちが、おたがいに迫害し合っている。プラーテンはハイネを怒らせ、ハイネはプラーテンを怒らせる。こういったぐあいに猫も杓子も、ほかの者を誹謗し、いがみ合おうとしているが、世の中というのは、平和に暮して働いていくには、十分広くて大きいのだよ。それなのに、めいめいが、自分自身の才能といういわば獅子身中の虫のほかに、ごていねいにも敵をつくり出しているのだからね


良いことをやり抜くためには、困難があるものだね


子供のばあいですら、一冊の本や芝居が与える影響はそれほど心配する必要はないね。日々の生活のほうが、今も言ったとおり、どんな刺激的な本よりも影響が大きいよ


私ほど

若い人材を養護するために生涯をかけて貴重な時間と金を費やしてきた者はいないだろう。しかも、その連中ときたら、最初はきわめて期待を抱かせるのだが、結局はまるで何者にもならない


誰しも、自分自身の足元からはじめ、自分の幸福をまず築かねばならないと思う。そうすれば、結局まちがいなく全体の幸福も生れてくるだろう


私がひたすら目指してきたのは、自分自身というものをさらに賢明に、さらに良くすること、自分自身の人格内容を高める、さらに自分が善だ、真実だと認めたものを表現することであった


われわれが自分の欲するままにふるまっていると思っても、結局のところわれわれもみな集合体なのだ。われわれが最も純粋な意味でこれこそ自分たちのものだといえるようなものは、実にわずかなものではないか。われわれはみな、われわれ以前に存在していた人たち、およびわれわれとともに存在している人たちからも受け入れ、学ぶべきなのだ。どんなにすぐれた天才であれ、すべてを自分自身のおかげだと思うとしたら、それ以上進歩はできないだろう。しかし、きわめて多くの善良な人たちはこのことに気づかず、独創性の残骸にふりまわされて人生の大半を暗中模索しているのだよ


私は自分の作品を決して私自身の知恵ばかりに負うているとは思っていない。そのために材料を提供してくれた、私を取りまく無数の事物や人物にも負うていると思っているよ


結局のところ、何を自分で得るのか、それを他人から得るのか、また自力で活動するか、他人の力をかりて活動するかというようなことは、すべて愚問だね。つまり大事なことは、すぐれた意志をもっているかどうか、そしてそれを成就するだけの技能と忍耐力をもっているかどうかだよ。その他のことはみな、どうでもいいのだ


神は、今も絶えず、より低いものを引き上げるために、より高い人たちの裡で活動しつづけているのだよ