だが、お金は「目」がいい人にとっては単なる「ベール」にすぎず、
「ベール」の中身を知る人にとっては、無意味だ。
お金という「ベール」で隠れていた真実に気づかず死ぬことができれば、
「目」が悪い、言い換えれば人生に対するセンスのなさは人類が愛する「幸福」の一助となるだろう。
お金が覆ってくれていない真実はあまりにもグロテスクで、直視すればたちまち精神がおかしくなる可能性が高い。真実を知っていてなお、お金を利用する人は、お金の限界がわかっている。それはたとえるなら、人間は排泄をする生き物だが、いちいち人の汚物を直視などしないことと同じである。どうせ知っているけど、鮮明に見るには耐えないから、この生涯を終える間は一時的に蓋をする。
真実、事実を直視したいなら、お金は必要ない。
そういう人にとっては、お金はつまらない飾りだろう。
飯を食わなければ飢餓があり、衣服がなければ凍えがある。お金がない人間には世界が純粋な「重さ」でのしかかる。それを現実と呼ぶ人もいる。
だが、勘違いしてはならない。人間が現実と呼び打ちひしがれるものは、すべての人に平等に存在する。我々は、お金を利用して「覆い」をかぶせるか、知恵という武器によって現実という強大な敵をやっつけるかしかない。もしお金も知恵もなければ、死ぬまでお金という「覆い」を求めて、真実に背後から追い回されることになる。そんな人間は言う。「お金さえあれば…」
せめて知恵があれば、お金の限界を知っているから、汚物を見つけたときに、「まあ、目をそらしておけばいいか」で済んでしまう。現実をお金で倒すことはできないのである。お金は「覆い」にすぎない(ただし、その「覆い」は「目」が悪い人にとっては効果的で、「幸福」を実現してくれる)。
現実は、本質的に倒すことができない。なぜなら、現実はその人個人が認知するファンタジーであるからだ。夢破れた人は現実に打ちひしがれるかもしれないが、その夢を持っていない他人にとっては何の関係もないことを想像してもらえればいい。現実だと認識した瞬間に、まるで現実がこの世にあるかのように錯覚する。生きている以上は世界を何らかのかたちでは認識するから、現実が生じないことはほぼありえないが、とは言うものの、その程度のことなのである。いちいち、現実に翻弄される必要はない。
]]>第1位 愛する人に「ありがとう」と伝えなかったこと
第2位 美味しいものを食べておかなかったこと
第3位 自分の生きた証を残さなかったこと
第4位 自分のやりたいことをやらなかったこと
第5位 行きたい場所に行かなかったこと
第6位 タバコを止めなかったこと
第7位 子どもを育てなかったこと
第8位 仕事ばかりだったこと
第9位 感情に振り回された一生を過ごしたこと
第10位 健康を大切にしなかったことhttps://matome.naver.jp/odai/2133674223250274601 より引用
「人生の後悔ランキング」を見てみると、人間の願望・欲望の反映である。「人生の後悔ランキング」に載ってある項目は、そもそもすべて生きているうちに実行可能なのかという点と、すべて実行したとして後悔せずに人生を終えることができるのかという点が問題になる。
私の考えでは、「人生の後悔ランキング」をすべて実行したとしても、後悔する人は後悔する。「後悔する人」というのは後悔するから、という理由に尽きる。
人生は思うままにならないものだ。確かに自分の希望通りになるものもある。しかし、すべてが希望通りにはならない。たとえば第2位の「美味しいものを食べておかなかったこと」にしても、食通の大富豪なら世界中の絶品料理をすべて食べられなかったと死の間際に嘆くかもしれない。普通の人はここまで思っていないが、あなたが何気なく希望していることは、誰かにとって恐ろしく贅沢かもしれない。個々人によって願望も欲望も差があるため、「後悔ランキング」に汎用性がないのが残念だ。
「後悔」ということを考える際に忘れてはならない事実がある。「後悔」とは、してもしなくてもよいということだ。簡単に言えば、後悔したければすればいいし、後悔が必要ない人は後悔しない。上記の「人生の後悔ランキング」が何一つできない人でも、そもそも後悔しない人は後悔しないのである。
「人生の後悔ランキング」を真剣に考えている人は、自分にとって「後悔する」という行為があまりにも普通になっているため、「後悔しない人生」を送ることが難しいと思っている。「人生の後悔ランキング」を参考にして自分がそれを実行すれば、「後悔しない人生」を送れると信じている。しかし、先にも言ったように「人生の後悔ランキング」は欲望の反映なので、なにか一つの欲望を満たすことができたとしても、次の新たな欲望の虜になるだけである。永遠に「人生の後悔ランキング」が更新され続けることになってしまう。
では、「人生の後悔ランキング」において大事なことは何なのか。まず、「後悔」は自発的な思考の結果生まれるものである。そして、思考そのものは自分でコントロールできると知ることが重要だ。たとえば、大好きな趣味に熱中しているときに、過去の後悔をしているだろうか。友達や家族と楽しく過ごしている時に、過去の後悔をしているだろうか。過去のことすら考えず、現在を楽しんでいるはずだ。「後悔」は思考の結果生み出される想念の一つにすぎない。思考や感情のコントロールを意識しよう。
「人生の後悔ランキング」を参考にして、「後悔しない人生を送ろう!」と行動を起こすのはもちろん良いことだ。大いに人生を謳歌すればいいし、その権利は誰にでもある。
だが、「後悔」そのものすら自分でコントロールできるということを知った時、人間はもっと自由になれるのだ。
]]>「瞑想」という言葉だけでは、かなり幅の広い意味合いになってしまう。現実生活で役立つための「瞑想」という意味で、この記事ではマインドフルネスという言葉を利用してみる。
本来の瞑想は「苦」から解脱するための、仏教修行の一つだ。
しかし、現代のマインドフルネスは瞑想の効果の一部を利用して、日常や仕事に活かそうと試みている。マインドフルネスは特に欧米で使われるようになった言葉で、日本でもこの言葉が広まりつつある。書店にはマインドフルネスという言葉が入った書籍が多くある。
マインドフルネスを利用しようという動きは、興味深い。「悟り」を開くために瞑想をするのではなく、あくまで現実生活のために”マインドフルネス”をするわけだ。このあたりがいかにも欧米チックでいい。
「苦」から解放されるためにゴータマ・ブッダの教えを学び、その実践修行として瞑想がある。一方、マインドフルネスでは現実世界での利益を求めている。仕事に対する”集中力”という点では、たとえばマインドフルネスに熟達すれば「あーー、なんかなんとなくしんどいなーーー」のような感情を吹っ飛ばすことができる。マインドフルネスで心の動きを観察することに慣れれば、仕事中に感じた”不利益”になる感情に対処できる。感情を客観的に見つめ、肯定的な感情に変換するのである。
疑問に思う点としては、わざわざ「苦」を生み出す仕事に懸命になり、その「苦」の対処にマインドフルネスの効果を利用することだ。マッサージを受けるお金を稼ぐために残業をして、その残業代でマッサージを受けにいくというたとえも使えるが、もっと違う。瞑想をすれば、仕事の効率アップやストレス軽減などという”小さな”ことよりももっと大きなことができる。「悟り」を開く手助けになる。それをわざわざ「マインドフルネス」という名前にして、限定した使い方にしている。もちろん誰もが「悟り」を目指しているわけではない。普通の人は、現実生活で普通に役立つことがあればいいと思っているだけだから、かまわない。
本来の意図とは違う使われ方をすることで、瞑想は「イノベーション」されたとも言えるかもしれない。まるで、日本刀があったのに叩き割って包丁にしたような話である。
マインドフルネスは、”眠れる獅子”を起こす可能性がある。マインドフルネスが本来持つ深遠な効果が発揮されてしまったら、仕事のためだけに利用していた社員さんは、はたして優秀に勤め続けてくれるだろうか。
]]>「悟り」を改めて確信することができた、本日2018年11月19日月曜日。
あえてかぎかっこ付きで「悟り」としているのは、「悟り」の意味が人によって違うからである。
書いてもしょうがないかと最初は考えた。それでも、「悟り」を求める人に、あるいは「悟り」を得たと思うがこれでいいのかと疑問を持つ人に向けて、少しのヒントにでもなればと思った。異論はもちろん認める。「悟り」とはまったくもって一般的な意味で言う「個人」の範疇にあるからだ。
「悟り」を開く前と後では、確かに景色が違うのだが、一変するというものではない。
勉強や瞑想実践により、徐々に人間が変わっていった。
そして最後、大きな一歩を踏み出した時に、これ以上進むところがないということに気づく。
「気づき」が大事で、知っているかのようで知らなかったことに気づく、とでも表現しようか。「逆転の発想」ともまた違う。
例をひとつ出せば、美女に惹かれる自分がいるとする。「美女」というのは名称と形態に左右された「私」が解釈した結果で、なおかつ「糞袋」だと理解したとする。でも、どうしても欲情してしまう自分に悩む。「しょせん人間のちょっとした目鼻立ちで可愛いと思ってしまうなんて、なんと愚かな自分!自分は顔かたちに惹かれており、皮膚を愛しているのか!触覚にも左右されていて、あの膨らみに触れたい!でもこんなのじゃダメだ、乗り越えねばならない!」などと考える。理解していないからこそ欲情してしまい、欲情は「苦」につながるから、本当に理解すれば情欲がなくなり「苦」の消滅にもなると考える。だが、一見して正しそうなこの姿勢こそが、自分を無明へ引き込んでいる。「そうか、あっちの女の人はブサイクだしどうでもいいが、この女の人は美人で話してみたいと自分は思っているんだな」と観察することが大切なのだ。つまり、過去から大量に積み重ねてきた「業」(ここで言うなら、昔から誰かを可愛いと思ったりしてきた無数の過去)により「美人だなあ、付き合いたいなあ」と思っていて、今目の前にいる美人に対しても同様に思うのである。それを否定するからこそ、「苦」が生まれる。誤解を恐れずに言えば、「美女」に惹かれないことが「悟り」なのではない。「美しい」と思ったなら、「美しいと思ったな」と思うだけで、あとはなにもない。それだけである。「美しい」と思うことを否定する必要はなくて、「美しい」と感じたときにはそう感じた自分を把握していればよい。
確かに瞑想を極めていけば、外を歩いている人ももはや人とは認識しないほどの「目」を手に入れることができる。
でも、そうして世の中を観ることが別に「正しい」わけではない。
もし何かを「美しい」「素晴らしい」と思うなら、そのままそう思う自分を観ればいい。
ゴータマ・ブッダの教えの「真髄」は「苦」の消滅である。それ以上でもそれ以下でもない教えだ。人生を生きていれば「苦しむ」からこそ、「苦しみ」を取り除き、「苦しみ」がそもそも生起しないようにする。この基本軸が理解できていなければ、仏教は難しい。「苦しみ」がないならもうそれは「悟り」なのだが、そう言えるほど、仏教実践者には自信がなかったり、「傲慢だ」と非難されることを恐れる。いつまでも「悟り」を目指す過程にいれば、「まだまだ修行中です」と言い訳ができる。しかし本当は、さっさと「悟り」を開いて、残りの人生を生きるほうが楽しい。「悟り」を開けば、「苦しむ」ことが不可能になるからだ。ゴータマ・ブッダの教えを理解し体得するのは一般的には難しいと言える。理解と体得の難しさは、ゴータマ・ブッダ自身が経典を書いたわけではないところも大きい。だから、スッタニパータやダンマパダを読んだだけでは、とても「悟り」の境地に達することはできない。加えて、「悟り」を開くためには文献の勉強や僧侶の話を聞くだけでなく、「実践」が大事だ。論理的に考えるだけでは不十分で、会得・体得すべき「気づき」の実践が必須となる。「思考」を乗り越えねばならない。実践は瞑想であり、マインドフルネスと言ってもよい。瞑想は座って行う瞑想にこだわる必要はなく、立つ瞑想や歩く瞑想もある。生きていること自体が「瞑想的」になるのがよい。
現代人を「悟り」から遠ざけている大きな要因は「世のため人のため」の発想だろう。先にも言ったが、ゴータマ・ブッダの教えの「真髄」は「苦」の消滅だ。簡単に言えば、あなたや私が「苦しまなければ」それでいい。「苦」からの解放の教えなのだ。「苦」から解放された結果、人助けをするかしないかは自由だ。勘違いしてはならないのは、人助けをするために「苦」から自分を解放するわけではないということだ。あまりにも社会に順応しすぎている現代人は「人のために」何かをしなければと思いすぎていて、それが現代人を無明に引き止めている。「悟り」を開いて、「苦」を滅したあと、どうやって生きていけばいいかは、ゴータマ・ブッダからしてみれば「勝手に考えろ」ということだと思う。ゴータマ・ブッダはそもそも、覚った後、この教えを誰かに話すか話さないかと考えた。「苦」から解放される道があるけど、どう考えても普通の人間には理解できない境地だ。でも、「苦」からの解放の教えを理解して、「苦しまなくて」すむ人も少なからずいるだろうから、教えようということになった。どうだろう、この部分のどこに「人間は人のために何かをして生きよ」などという意味を含んでいるだろうか。誤解を与えたくはない、人のために何かをすることは「苦しみ」を生みにくく、心が充実することなので、「良い」ことだ。しかし、人や自分のために何かをしなければならないと思い、あなたが「苦しむ」なら、それはなしなのである。それほどまでに、ゴータマ・ブッダの教えは「苦しまない」ことに関して徹底している。
一般的に思われているかどうかすらも分からないが、「悟り」を開いたから立派な人間なわけでも、品行方正な人間なわけでも、素晴らしい人間なわけでもない。ただ単純に「苦」を滅した人だというだけである。「悟り」を開いた人が現代社会に貢献するかどうかはわからない。完全にその人しだいであり、「悟った」人に過度に何かを期待しても意味はない。
「苦しむ」ことが不可能になってしまった境地に達したら「悟り」であり、私は到達することができた。ミャンマーに行き瞑想する必要もなく、これから文献をあさりにあさることもない。瞑想は続けるだろうが、「瞑想をしなければならない」などと思うことはない。何かを「しなければならない」と思う義務感は、心の余裕をなくし、「苦」を生むからだ。
ゴータマ・ブッダの教えという「筏(いかだ)」は、私にはもう必要がなくなった。
激流を渡り終えた私は、「彼岸」へ到達した。私の人生は続く。
ゴータマ・ブッダと、ゴータマ・ブッダの教えをさまざまなかたちで伝えてきた数えきれないほどの先人たち、現代人に感謝する。
]]>人生は軍務のようなものであるのを諸君は知らないのか。
各人の生活は戦役、しかも長い複雑な戦役のようなものである。君は軍人の本分を守らねばならない、そして将軍の目くばせですべてをやらねばならない。もしできれば、彼の欲していることを見抜いてするのでなくてはならない。
人生についていろいろと思うことは誰しもある。
苦しい時、「なぜこんなに苦しまなくてはならないのか!」と嘆くこともある。
そんな時、エピクテトスは言う。
「人生は軍務みたいなもんだよ。まさか知らなかったの????」と(笑)。
ハッピーうきうきと人生生きていけるわけではない。確かにハッピーなときもあるが、一時的か、勘違いだ。
そもそも人生は楽しむために作られているのではないよな、と。
うまくいっている状況の時でさえ、どこかは妥協していたり、我慢していたり、欲求不満だったりする。
では、苦しむために作られたのかというと、それも違う。
人間が勝手に苦しんでいるだけで、別に苦しみは強制されていない。
苦しまないようにするにはどうすればいいかを考えるがゆえに、哲学や宗教を勉強し始める。
「ああ、別に苦しまなくていいんだな」
「人生って不思議だな。どんなに考えても結局わからないや」
心の底から納得できたとき、むさぼるような「学び」をやめ、
自分の人生の役割を全うするための行動を始める。
わたしの、あなただけの「軍務」がある。
]]>シッダールタと比べると知と愛の本の分量は多く、読み終わるのにも時間がかかった。ナルチスとゴルトムントの出会い、別れ、出会い…と進む。
物語を通じて、情景・感情の描写などが細かく、美しい。それは高橋健二の訳ゆえのこともあるだろう、ヘッセの言葉の美しさを日本語でも堪能させてくれる訳者には敬意と感謝を表したい。
ヘッセは自分の言いたいことを作品中の登場人物に言わせ、説得力をもたせるために出会いや旅や決別を作っている。経緯や苦悩をすっ飛ばして真実の言葉があるだけでは人の心に響かず、納得もしないからだ。
ゴルトムントの旅で、読者もゴルトムントの感情や思いを追体験することになる。それぞれの道を歩んで来たナルチスとゴルトムントの再会。再会後、ナルチスはナルチスの、ゴルトムントはゴルトムントの考え、世界観をぶつけ合うことになる。まるで、答え合わせのように。
再会後、ゴルトムントはナルチスに問う
ナルチスは答える
私は、ゴルトムントとナルチスのこうした問答を見つめ、楽しかった。ゴルトムントは私の代弁者で、ナルチスはどう答えるのか待った。このやり取りの面白いところは、ゴルトムントがナルチスに教わるなどといった一方通行ではなく、お互いに掴んだ真実をぶつけ合うところだ。つまりどちらの言葉にも真実が含まれている。知と愛の衝突だ。
ナルチスは問う、
ゴルトムントは答える、
苦悩や現実のことだけでなく、ゴルトムントが向き合ってきた芸術についての知見も聞くことができる。読者は芸術とはどんな性質があるものなのかを2人の会話から知ることができる。
ゴルトムントに対し精神よりも芸術に奉仕すべきだと教えたナルチスは、ゴルトムントが芸術について極みにいることを嬉しく思っただろう。多くの苦しみや困難がある中で、よくぞ芸術に生きていてくれたと、そんなナルチスの気持ちを想像すると、胸に来る。
ナルチスはこんなことをゴルトムントに言う、
そしてゴルトムントが作品を完成させたことで、ナルチスはこれまでの自分の芸術の認識を改めさせられる。ゴルトムントから多くのことを教わったナルチスは、
それぞれの人間がそれぞれのやり方で物事を見る。
ゴルトムントとナルチスはたしかにやり方や通る道こそ違うかもしれないが、到達する先は同じだということではないだ。どちらの道にも優劣はなく、わたしの道も、そしてこの文章を読んでくれているあなたの道も、等しい。
ニーチェのこんな言葉を思い出した、
「世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。」
知と愛を読んだなら、このニーチェの言葉を深く理解できると思う。これは単純に「お前はお前の道を進めよ!」のような話ではない。人の道はそれぞれ違っているように見え、他人の歩む道に憧れることもあるが、自分の心の声を聞いて自分の道を歩いて行った先にこそ、自分が憧れていたような偉大な人間たちも達した境地があるということだ。
ナルチスの本分である敬虔な勤め、その分野におけるナルチスの発言も非常に興味深い。ゴルトムントは修道院にいる以上、そこの人間としての勤めを果たそうとする。
ナルチス、
祈りにおいて生じるこの集中は、仏教における瞑想と通じるものがあると思う。シッダールタにおいても川の声を聞くシーンがあるが、通底しているものは同じだろう。
言葉ややり方や表向きの現象が異なるだけで、世界そのものと溶け合うような感覚は、ヘッセ小説のひとつのテーマ。自分が世界とひとつになり、自分が自分と同一化する、自分自身になること。自分は世界であり、世界は自分だということ。
ゴルトムントの芸術を賞賛するナルチスだが、一方でゴルトムントは人生の問題に対するナルチス思索がうまくいっているように思えて、うらやむ。
ゴルトムントがナルチスに、
ないものねだり、隣の芝生は青く見えるのは世の常だが、ゴルトムントは素朴な言葉をナルチスにぶつける。
冷静沈着、思索、精神の道を極めているかのようなナルチスはゴルトムントに衝撃とも言える告白をする、
ばっさりいくナルチス!
修行すれば、人生経験を積めば、いつかは平静な心を手に入れられると思ったら大間違いだ。
どんなに熟練しても、正しく心穏やかに生きていくためには、自分の中で戦い続けなければならないことをナルチスは教えてくれる。
平静を手に入れ悟りの境地に至ったかに見える人も、ざわつく心に対する戦い方を普通の人よりも心得ているだけで、戦わなくて済むのでは決してないこと。こんな赤裸々なことは、現実の人間ではなく知と愛のナルチスしか教えてくれない。
ゴルトムントは再びナルチスのもとを離れ旅に出ることになるが、そんなゴルトムントを心配するナルチスが人間らしくて好きだ。ナルチスはゴルトムントによって豊かにもなり貧しくもなった。
ナルチスはゴルトムントを思う時に、こんな疑問をめぐらせる、
人間らしさとはなんなのかを考えさせられる。欲に溺れるのも人間、欲を自制するのも人間、いろんな人間のかたちがあり、すべてが人間だ。
どんな境遇に陥っても、自分の奥底にある輝きは消えないということだ。そもそもその輝きがなければ意味はないが、その輝きを見つけることが、自分自身の人生を歩んでいる宿命でもあるのかもしれない。
最後の最後、ナルチスとゴルトムントはさらに再会する、というよりゴルトムントがボロボロになって帰ってくる。ゴルトムントの状態はとても悪い。気の毒で胸が痛むが、ゴルトムント最期の言葉が大事だ。
ゴルトムント、
彼岸なんて存在しない、死は大きな幸福など、悟りの言葉を死の間際に発する一方で、理屈なしには死ねなかったと真っ直ぐな気持ちをナルチスに伝える。このバランス感覚がとても印象的だ。
母という言葉はヘッセの詩の中にもよく出てくる。もし『知と愛』しか読んだことがない人なら、ここで母という言葉がいきなり出てきて解釈に悩むかもしれない。しかし、ヘッセを読んでいたら母という言葉は全く珍しくない。ヘッセの小説を理解するには、ヘッセの詩や考えも知っておく必要があるように思う。
詩集から引用するなら、
ゴルトムントの最期は、「母」のことを語ることに終始する。ここで言う「母」は、自分・他人のお母さんなどという限定された存在ではない。しかし、限定された存在でもある。母は具体的であり抽象的で、具体的でなく抽象的でもない。
「母」という言葉の意味だけを考えることは無駄で、感じなければならない。この宇宙や世界が生まれ、生命が生まれ、死んでは生き、生きては死ぬ営みがある。その永遠性の中で自分も生まれ死んでいく。自分という存在も、過去現在未来含めて例外なく永遠の一部で、それは巡り巡るということ。死ぬことも生まれることも、生まれることも死ぬことも「母」にゆだねることが、ゴルトムントが感じた意味だった。
たとえ死んだとしても、またしかるべき時に母が抱きとってまた命を吹き込んでくれるのだろうという信頼。それに支えられてこそ「理屈なしに」死ねなかったゴルトムントは安心して死を迎えたのだろう。
]]>その日は喫茶店に行く予定で、「本を買おう」という気持ちになっていた。たまたま『シッダールタ』を見つけた。その偶然がなければ私はずっとヘッセのことを知らなかったかもしれないし、だとしたら今日の自分はなかった。
もともと釈迦に興味があり、仏教に関する本はよく読んでいた。岩波文庫の『ブッダの言葉』は何回となく読んだし、他に読んだ仏教書も多々ある。私は釈迦そのものに興味があり、現代の「〇〇宗」のような宗派にはあまり興味がない。
大事なのは釈迦がどのような境地にあったのかを学ぶことだと思っている。
仏教的な思想を学んでいたわけだが、ヘッセのシッダールタという作品は知らなかった。本屋の背表紙でシッダールタという言葉を見たとき、すぐに釈迦のことだとわかった。どんな本なのだろうと気になった。
概要では、
何より引き寄せられた文言は「悟りに至るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとした」という部分。仏教の言葉には多くの慰めがあるものの、実際に苦から解放される境地に達するのは難しい。仏教の本やブッダの言葉でその一瞬は楽になったり、悟りを開いた気になったりすることは確かにある。でも、日常の困難の中で忘れてしまう。
仏教の思想や考え方を自分の生き方にまで消化するのは至難の技と言える。それは当然のことで、簡単にできるというのであれば、誰も苦しむことはない。
この本の概要を見て、釈迦の教えをもとに悟りに向かおうとした人間の苦悩や壁を追体験できるのではないかと期待した。今まで自分にはできなかった苦悩の乗り越え方、悟りを学びたかった。
私はシッダールタだけを読んでシッダールタの物語を理解したのではない。他のヘッセの著作も読む中でシッダールタを理解した。はじめてシッダールタを読んだときの衝撃と感動は言葉に言い尽くせないほどだった。主人公シッダールタのリアルな学びが細々と綴られており、この本を読むだけでも多くを知ることができる。
シッダールタを読み終わると、「人生のことを知るために、これ以上本をむさぼり読む必要はないんだ」なんて思ったものだが、結果的にはヘッセの魔力とも言える言葉を求めて他の著作を買うことになった。それもまた、自分にとって必要なあがきだった。ゴーヴィンダがさぐり求めるように、欠点を知っていてなおさぐり求めずにはいられない自分に腹が立ったが、さらなるヘッセの言葉を求めた。
この文章を読んでくださっているあなたは、きっとシッダールタを読んでいて、「他の人はどんな感想をもったのだろう」と気になったのではないだろうか。私もこうしてシッダールタの感想を書きたいと思ったのは、この本を読んだ同時代の仲間たちとの共感を求めているからだろう。もちろん、あなたは私と違った感想を持っているはずだ。ただ、こうやってあなたと同じようにシッダールタを読んで感動した人間がここにもいることを感じて、微笑してくれたらと思う。
シッダールタを読み進めていくと、まさかの仏陀登場である。
シッダールタという作品の主人公はシッダールタ。これはもともと仏陀の名前でもあるが、まさかその主人公が仏陀と出会うという構造になっている。この作品でのシッダールタと仏陀は別人。
旅の中でシッダールタは仏陀と話すが、仏陀のもとにとどまる道を避け、ゴーヴィンダを置いて一人旅に出る。ここがすごい。
現代社会の人間は、仏陀の言葉として残っているものを学ぶことができる。本やお寺もたくさんあり、仏陀の教えにはいつだって触れられる。心が苦しい時、考え方としての仏教に救われることがある。
しかし、先にも言ったようにそれは長続きせず、仏教の教えを体得して苦しむことのない境地に達することは難しい。仏教を学んでも苦しいものは苦しいのが現実なんだ!わからないんだ!なぜなんだ!という人間の気持ちをヘッセは分かってくれている。そしてシッダールタに、それを乗り越える旅をさせてくれる。
仏陀がシッダールタに伝える言葉が真実だ。その言葉に納得できるのであれば、旅は終わりである。この本はここで終わったとしても内容豊かだ。
仏陀は言う、
この言葉に、すべてが詰まっている。
シッダールタ、あるいは読者たちが仏陀の言うことを議論することや、意見を表明することなどには何の意味もないのだということ。意味を求めようががんばろうが何だっていいのだけれど、「人生それによって苦しむ必要はない」という、単純な話だ。
つまり、あなたが苦しんでいないのなら、オールオッケー!である。
苦しむ必要がないのに苦しんでいる人たちがいて、そんな人達のために苦しみから逃れる方法をあれこれ言葉を変えたりしながら仏陀は教えてるだけだ。
仏教は今でこそ多くの宗派があり教えがあるが、本来の仏陀は苦しむ人達に苦しまなくていい方法を教えていただけだ。苦しんでいない人たちに、仏教は意味をなさない。
仏陀は愛に溢れた人だったのだろう。自分が苦しまなければ問題はないのだけれど、苦しんでいる人間たちのために、死ぬまで寄り添っていた仏陀はまさに仏陀。
シッダールタはこの本の最後のほうで仏陀についてこのように言っている、
悟りを開くと、まるで言葉の少ない無味乾燥な人間になるかのように思う人もいるかもしれないが、そうではない。仏陀はきっと優しい人で、面白くて、頭が良くて、愛を持った人だったんだろう。
自分が教えても苦しむ人が絶えないことを仏陀は知っていたはずだ。そしてそれは生命の営みの中で永遠と繰り返されていく。その全てをわかっていてもなお、自分の命を惜しむことなく使った仏陀の行為は、愛だ。
「愛」という言葉で人はいろんな意味を思い浮かべる。人によって「愛」という言葉のもつイメージや印象などは異なるに違いない。しかし、言葉の意味に一喜一憂してはいけないこともこの本は教えてくれる。
どんなことでも人に伝えようとするなら、それは言葉にしなければならない。しかし、言葉は万能ではないということを教えてくれている。言葉の用法や意味に振り回されないように注意して、本質を感じなければならない。
「愛」を語るときにも、「愛」という大きな言葉の意味に翻弄されるのではなく、心で感じる必要があるということだ。
『シッダールタ』という本は、シッダールタが仏陀に出会うまでと、そこから俗世の生活をする期間と、それを捨てた後の大きく3つに分かれる。読み返すならいつも仏陀の言葉や最後のシッダールタの悟りの言葉を見てしまうが、『シッダールタ』という物語としての骨格を考えるなら、俗世での放蕩生活の期間がとても重要だ。この部分がなければ、シッダールタという本はなんの面白みもないものになってしまう。
主人公シッダールタは仏陀の教えを聞いてなお、仏陀の言葉に自分を埋もれさせることなく自分で真実を体験するための旅に出る。私はシッダールタと仏陀が別れた時、とても驚いた。普通、そんな素晴らしい人に出会えたのなら、素晴らしい教えを聞いて悟りを開くかのように進みそうなところを、そうじゃないとして物語は進む。
「この後のシッダールタを書くのはヘッセも大変だっただろう」と想像する。そして何よりもこの部分にこそ、ヘッセの産みの苦しみがあると思う。
では、俗世での放蕩生活が終わり、それですんなり悟りの境地で静かに暮らせるのかと思いきや、息子と出会ってしまう。一緒に生活をするものの息子がいなくなり、またもや心がかき乱されることになる。
素晴らしい心を獲得したと思っていても、いとも簡単にその心を失ってしまう難しさ。
なにもしていなくても平静でいられるような人生はない。突如として困難が襲ってくる中で、自分の心を保つ闘いをしなければならない現実をもこの本は教えてくれる。
ヘッセの本に甘いご都合主義はないが、克服の道があることを示してくれる。困難や苦悩が人生にはつきものだ。それはどうしようもない。
しかし、自分の欲望に翻弄されて生きる生き方には限界がある。
誰からも本当の意味では生き方を学べない。
『シッダールタ』からたくさんのことを学ぶことができる。
ヘッセの『シッダールタ』についての当記事を書いた段階(2018年6月)では、筆者の私は「悟り」が開けていませんでした。
筆者自身の「悟り」(2018年11月)に興味がある方は、上記の記事をご覧くだされば幸いです。