ある日またその本屋に寄ると、荒野の狼がなんと2冊も置いてあり、そのうちの1冊を買った。その本屋は客に聞かれた本は売れると考え入荷するのだろうか、とても嬉しかった。見つけた時には、「この本屋で買ってあげなければ」という気持ちになった。
荒野のおおかみは、そのタイトルからしてヘッセ小説の中では最も興味をそそられた。荒野のおおかみとあるだけで、孤独な狼なのかなとか、過酷な環境で生きる狼なのかなとか、あるいはなんらかの比喩なのかなと想像が膨らむ。概要を読めば、ある種の人間はそれを自分自身ではないかと思うものがあるだろう。そして私もそんな一人だ。
ヘッセの小説を読む時は、自分を客観的に見てみたいという気持ちや、自分のような人間がどのように感じ生きているのか、仲間を探す、自分自身を求めるような気持ちになる。自分の感情や思いを自分だけでは消化吸収できない時に、ヘッセのような偉大な先人たちが手助けしてくれる。
荒野のおおかみは「編集者の序文」「ハリー・ハラーの手記」「荒野のおおかみについての論文」「ハリー・ハラーの手記、続き」という四つに分かれる。
「編集者の序文」から読み始めるので、とっつきとしてはあまりよくないというか、「よくわからない感じで始まるなあ」というのが第一印象だった。この「編集者の序文」というのが果たして荒野のおおかみの一部かどうかということも半信半疑で、「ヘッセではなくこの本そのものの編集者が書いた部分なのかな」などと思ったものだ。
かまわず読み進めると、ハリー・ハラーの手記になり、いよいよ本編という感じとなる。ここまでくると「編集者の序文」の意味が分かり、そして荒野のおおかみを読み終えるとさらに深く理解できる。ただ、私の場合はヘッセが伝えたいメッセージや思いや悟りを小説から感じたいと思っているタイプなので、物語としての凝り方はどうでもいいと思ってしまっていた。しかし、この構成は大事だった。
例を出すと、エッカーマンの『ゲーテとの対話』という本では、晩年のゲーテとの対話がまとめられている。ゲーテ自身が著作や詩で残したものももちろん大切だが、『ゲーテとの対話』ではゲーテがエッカーマンの質問に答えたり語ったりするのがとても学びになる。それと同じで、「編集者の序文」という構成はハリー・ハラーを多角的に見る上で必須なものと言える。
「編集者の序文」で、印象的な言葉がある。
編集者とハリー・ハラーがヨーロッパ的名声のある人の講演を聞きにいった時の言葉だ。この言葉の後、編集者は「根本的にはもう本質的なことをハラーについて言ってしまいました」と言っている。
人間らしい高度なことをやっているように見えて、それこそがさるまねだと言っているのが興味深い。
人間としての精神や賢さこそ意義があると思いこんでいる人間、他の動物にはできない価値ある深い思索をしていると思いこんでいる人間、に対しての悲しさとも言える。これは、人間のしてきたことや仕事そのものにではなく、自分の行為に対して一定の距離を置くことができない人間に対するものだ。この宇宙、この世界、この世には本質的に価値あるものなどないのに、まるでそこにはじめから価値がある、あるいは絶対的価値あるものにしているなどといった傲慢さが見て取れるのだ。本質的に内在する価値があるという誤解の中で、いっぱいいっぱいになっている人間を、ハリー・ハラーは客観視している。
他にも、印象的な言葉がある。
位階とは、功績のある者や在官者などに与えられる栄典の一種、という意味だ。
苦痛は年齢や自己の成長とともに種類が変わる。10年前、あるいは20年前に悩んでいたものを、あなたは今も苦しんでいるだろうか。ある苦痛はいつの間にか乗り越えられていて、今は次の段階の苦痛を私たちは苦しんでいる。どんな苦痛を苦しんでいるかで、自分の「位階」がわかるということだ。それゆえに、苦痛をただ苦痛として捉えるのではなく、これからのステップアップとも捉えることができる。
ユニークな言葉だ。この言葉だけでもこの本を買う価値があったと言っても過言ではない。つい笑ってしまうが、この通りだなと感じる。人間は確かに魚ではないので、水の中で生活はしない。しかし、泳ぎの練習をすれば水の中を泳ぐことができるようになる。では、ずっと水の中で泳ぎながら生きていけるかというと、いつかはおぼれて死んでしまう。
それを引き合いに出して、人間の「考える」性質と「生活する」性質について述べている。人間は考えることはできるが、考えの中にずっといるとおぼれてしまうということを、ハリー・ハラーは言っている。人間は泳ぎの練習をすれば泳ぎに秀でることができるように、考えることに関してもそれを主要事とすれば秀でることができる。しかし、どんなに深く考えられるようになっても、考えの中だけで生活はできない。普通の人が1キロ先も考えられない中で40キロ先のことを考えられたとしても、じゃあ10000キロ先は考えられるかというと、おぼれてしまう。これは泳ぐことや考えることを否定しているのではなく、人間は基本、地面で生活するということを覚えておくべきだということだ。
「編集者の序文」が終わると、「ハリー・ハラーの手記」にうつる。これには「狂人のためだけに」という副題がついている。文字通りで、この手記は狂っていない人のためには書かれていない。これを読んで共感したり学びにしたりしようとする人は、逆を言えば狂人なのかもしれない。
ハリー・ハラーの日記が静かに語られている。愚痴に近いものも多い。ハリー・ハラーは、ヘッセが悟った真実を伝えるための、人形だ。ハリー・ハラーがどんな生活をしていたかというのは焦点ではない。すべてはヘッセが伝えたいことの前座か、ハリー・ハラーの行為言動の中に伝えたいことを含ませるかのどちらかだ。
この本のメインディッシュとも言えるのが「荒野のおおかみについての論文」。『シッダールタ』という作品もだが、物語の途中で真実なるものに出会い、その上でどのようにそれを胸に生きていくかという流れ。「だれでもが読むものにあらず」や「狂人だけのために」といった言葉を見ると、ニーチェの「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」の変化型かと想像できる。
荒野のおおかみについての論文の中には面白い言葉がたくさんある。
「おれは、人間がいったいどのくらい辛抱できるか見ることに、好奇心を持っているのだ。耐えられる限界に達したら、おれは戸を開きさえすればいいのだ。それでおれは逃げてしまえるのだ」と感じることができた。
他方、自殺者はみな、自殺への誘惑にたいする戦いにも親しんでいる。自殺はたしかに逃げ道ではあるが、いくらかみじめな不法な非常口にすぎないこと、自分の手で倒れるより、生活そのものに負けて倒されるほうが、結局はより気高く美しいことを、だれでも魂のどこかのすみでよく心得ている。
彼らは、盗癖のある者がその悪徳にたいして戦うように、戦う。
自分が悩み苦しんでいる時、朝眠たすぎるのに仕事へ向かわなくてはならない時、最愛の人と離れ離れになってしまった時など、人はまるで死にたくなるような気持ちになることがある。
しかしそうでなくてもふとした時に、自殺願望を抱く人間はここでいう「自殺者」にあたるだろう。どんなに苦しくても、死んだら楽になれるよなと思い慰めにしてしまう。いつでも自分で自分のケリをつけることができるのだという安心感。しかしそう簡単に取れる手段ではなく、あくまで「いくらかみじめな不法な非常口」。自殺願望に襲われるたびに、その願望と「戦う」ように義務付けられている自殺者。
市民はなるほど神に仕えようと欲するが、陶酔にも仕えようとする。
ほどよい健康な地帯で暮そうと試みる。それはできないことはないが、そのかわり、絶対的なものと極端なものに向けられた生活が与えるような生活と感情との強烈さを犠牲にしなければならない。市民は何よりも我を(もっとも、発育不全な我を)大切にする。
市民はそれゆえその本性上、生活衝動の弱い生きもので、およそ自分自身を犠牲にすることを恐れてびくびくしており、御しやすいものである。
「市民」に対する痛烈な批判とも呼べる描写がある。二極のどちらかに触れることもなく、自分をなんとか守ろうとする市民。「ほどよい中間」のおかげで市民は「陶酔にも禁欲にも」導かれず、「弱い臆病な人間」となっているだけである。荒野のおおかみたちがいるおかげで、市民階級は生きているとこの論文には書いてある。このあたりはまさにごもっともと言える「一般庶民」の性質で、庶民からしてみれば「それの何が悪い!」と反論されてしまう内容だろう。だからこそこの論文は「誰もが」読むものではない。
「荒野のおおかみ」という言葉に対する種明かしのような文章がある。
この言葉を皮切りに、『荒野のおおかみ』という作品の中でも最も大事な概念だと思われるものに触れていくことになる。
ハリーは二つの本質からではなく、百、千の本質から成り立っている。彼の生活は(すべての人の生活のように)、本能と精神とか、聖者と放蕩者とかいうような二つの極のあいだだけではなく、数千の、無数の極の組合わせのあいだを、振り子のように揺れているのである。
人間は高度に思索することはできない。最も精神的で教養のある人でも、たえずきわめて素朴な単純化するごまかしの法式のめがねで、世界と自分自身を、 特に自分自身を見ている
各人が自我を一つの統一と考えることは、どうやらすべての人間の生れつきの、まったく否応ない要求
この錯覚はどんなにたびたび、どんなにひどく揺すぶられることがあろうと、いつもまたもとどおりになおってしまう。
ハリーは自分の中におおかみ的な部分と人間的な部分を認め、理解しようとするが、それは単純すぎる二分化だという。それによって得られる理解は「錯覚」で、本当に理解したことにはならない。
確かに人は、「自分とは一つの統一された何かである」と思うのが自然だと思う。自分は自分であって、一つだと思いたい。しかし、人はいつもこの「錯覚」のために苦しんでいるのではないだろうか。
たとえば、「勉強を頑張っている自分」「仕事に生きがいを感じている自分」「家族を愛している自分」などがただ一つの形として、そういう像だけを自分に押し付けてはいないだろうか。時には勉強をがんばれないかもしれないし、仕事の失敗で落胆するかもしれないし、家族と上手くコミュニケーションがとれずギクシャクするかもしれない。その結果、自分はこんなはずではないのに!と、自分の中の自分像と現実が食い違い、悩む。
しかし、もともと人間はたったひとつの何かで解釈できるものではなく、多元的な存在だ。自分の中には無数の自分がいると言ってもいい。
だからある人間が、一元的だと思いこんでいた我を二元性にひろげるところまで進んだとすれば、彼はすでにほとんど天才である
胸やからだはいつだって一つだが、その中に宿っている魂は二つ、あるいは五つではなく、無数である。人間は百もの皮からできた玉ねぎである。
百種、千種の木や花や果実や雑草にみちた庭を思いうかべてみるがよい。この庭の園丁が「食用」と「雑草」という植物学上の区別しか知らないとしたら、彼は自分の庭の十分の九を処理する道を知らないだろう。
もしいきなり「人間は玉ねぎである」と言われても意味不明だと思うが、ここまでくればこの意味がわかるだろう。
人間ひとりに宿る魂は無数で、それらが織り成して人間は成立している。
たとえば、自分や他人に対して「真面目な人」「明るい人」「暗い人」と断定的に判断できるものではない。ある一面が見えやすくなっているにすぎない。
つまり、1人の人間にはすべてがある。自分がとある人のことを気に入らないと思っていても、それは自分の中にある自分の嫌だと思う性質を見ていると考えることもできる。
人間がどのようなものであるかについて、さらに論文では、
人間はむしろ一つの試み、過渡状態である。
精神に向って、神へと、最も内面的な使命は人間を駆りたてる
自然に向って、母へと、最も深いあこがれは人間を駆りたてる
目を閉じて、自我への絶望的執着、死にたくないという絶望的意志は、永遠の死への最も確実な道であることを、これに反し、死にうること、脱皮すること、変化に向って自我を永遠にささげることが、不滅に通じる
人間という存在は、自然の中の「過渡状態」としての一部である。この世界のひとつの現象として自分がいる。生きることも死ぬことも、自然に委ねてしまえば、永遠性がある。
死ぬことを恐れ生にしがみつくなら「死んで」しまう、というのは皮肉なことだ。生きては死に、死んでは生きてを繰り返す流れの中に私たちはいる。自分が死んだとしてもまた生まれる。人生に対して固執しすぎる必要はない。
今の人生をおろそかにしてもいい、という意味ではない。この人生を純粋に謳歌して良いのである。
人生が終わっても、すべてが終わりなのではない。ヘッセの言う「母」がまた私たちを抱きとってくれる。こう言うと、少し宗教的な感じがして拒否反応を起こす人もいるかもしれない。だが、これは宗教の話ではない。また、「母」「永遠」などの言葉に一喜一憂すべきではない。
言葉にすれば、一面を捉えることしかできない。
理解するには、感じることだ。
あとに引き返す道はまったくない。おおかみに帰る道も、子どもに帰る道もない。物のはじめに純真さと単純さがあるわけではない。
純真へ、創造されぬものへ、神への道はうしろにではなく、前に通じている。
自殺してみても、哀れな荒野のおおかみよ、真剣には役にたたないだろう。君はきっと人間となる、もっと長い、もっと骨のおれる、もっと困難な道をたどることだろう。
誕生はすべて全体からの分離、限定、神からの離脱、苦悩にみちた新生を意味する。全体への復帰、苦悩にみちた個体化の止揚、神になることは、すなわち、全体をふたたび包括しうるほどに魂をひろげたことを意味する
自分の子ども時代を懐かしく振り返り、それがまるで完璧な状態だったかのように回想するのは、ひとつの勘違いだと言えよう。子どもの時には子どもの時なりの悩みがあり、また未熟ゆえに苦しみを客観的に見つめることもできず、苦痛を苦痛せねばならない。
どんなものでもはじめを神聖視することはよくあることだが、はじめははじめなりで不十分だ。後ろを振り返ってみたところで、そこに何か特別なものがあるわけではない。
たとえすべてを嘆き自殺を選んだとしても、人間存在そのものを自殺により消し去ることはできない。確かに自分が死んだ後、世界は存在するのかという哲学的な問題はあるかもしれない。
だが、これまでも無限の生命が生まれ死んでいっている事実を無視するというわけにもいくまい。死んだとしても、また気がついたときには人間に生まれている。自己を世界において認識できる生物として生まれたなら、それはたとえ人間でなかったとしても同じことだ。
何度も我々は「人間」として生まれ変わり、今自殺を選んだとしても再び苦悩を味わうことになるだろう。何度となく永遠に繰り返される生を否定する自殺は、無駄な抵抗にしかならない。
私たちひとりひとり、生き物一匹一匹は、それぞれ具体的だ。永遠、無数の命の流れから具体的に誕生し、生きて死ぬ。具体的に存在する我々は、大きな生命の流れから「分離」して存在していると想像できる。たとえ死んだとしても、大きな流れの中に帰っていくだけだから、今のこの生に固執し苦しまなくてもいい。
有り体に言えば、すべてはなるようになっていくのだから、気楽にやってればいいのだ。
真実、本質を理解していても、それを完全に自分のものとして生きていくのは難しい。
「卑怯」であるからこそ一般人の中に紛れ込み、そこから全く外れてしまうことを恐れる。
しかし、思い切って真実に生きればよい。逃げ道など確保せず、喜び勇んで自分を失ってかまわない。
自分という枠にとらわれず、心と魂を世界に開き、自己犠牲だと思うほどの自己もなく世界と溶け合うのだ。
]]>シッダールタと比べると知と愛の本の分量は多く、読み終わるのにも時間がかかった。ナルチスとゴルトムントの出会い、別れ、出会い…と進む。
物語を通じて、情景・感情の描写などが細かく、美しい。それは高橋健二の訳ゆえのこともあるだろう、ヘッセの言葉の美しさを日本語でも堪能させてくれる訳者には敬意と感謝を表したい。
ヘッセは自分の言いたいことを作品中の登場人物に言わせ、説得力をもたせるために出会いや旅や決別を作っている。経緯や苦悩をすっ飛ばして真実の言葉があるだけでは人の心に響かず、納得もしないからだ。
ゴルトムントの旅で、読者もゴルトムントの感情や思いを追体験することになる。それぞれの道を歩んで来たナルチスとゴルトムントの再会。再会後、ナルチスはナルチスの、ゴルトムントはゴルトムントの考え、世界観をぶつけ合うことになる。まるで、答え合わせのように。
再会後、ゴルトムントはナルチスに問う
ナルチスは答える
私は、ゴルトムントとナルチスのこうした問答を見つめ、楽しかった。ゴルトムントは私の代弁者で、ナルチスはどう答えるのか待った。このやり取りの面白いところは、ゴルトムントがナルチスに教わるなどといった一方通行ではなく、お互いに掴んだ真実をぶつけ合うところだ。つまりどちらの言葉にも真実が含まれている。知と愛の衝突だ。
ナルチスは問う、
ゴルトムントは答える、
苦悩や現実のことだけでなく、ゴルトムントが向き合ってきた芸術についての知見も聞くことができる。読者は芸術とはどんな性質があるものなのかを2人の会話から知ることができる。
ゴルトムントに対し精神よりも芸術に奉仕すべきだと教えたナルチスは、ゴルトムントが芸術について極みにいることを嬉しく思っただろう。多くの苦しみや困難がある中で、よくぞ芸術に生きていてくれたと、そんなナルチスの気持ちを想像すると、胸に来る。
ナルチスはこんなことをゴルトムントに言う、
そしてゴルトムントが作品を完成させたことで、ナルチスはこれまでの自分の芸術の認識を改めさせられる。ゴルトムントから多くのことを教わったナルチスは、
それぞれの人間がそれぞれのやり方で物事を見る。
ゴルトムントとナルチスはたしかにやり方や通る道こそ違うかもしれないが、到達する先は同じだということではないだ。どちらの道にも優劣はなく、わたしの道も、そしてこの文章を読んでくれているあなたの道も、等しい。
ニーチェのこんな言葉を思い出した、
「世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。」
知と愛を読んだなら、このニーチェの言葉を深く理解できると思う。これは単純に「お前はお前の道を進めよ!」のような話ではない。人の道はそれぞれ違っているように見え、他人の歩む道に憧れることもあるが、自分の心の声を聞いて自分の道を歩いて行った先にこそ、自分が憧れていたような偉大な人間たちも達した境地があるということだ。
ナルチスの本分である敬虔な勤め、その分野におけるナルチスの発言も非常に興味深い。ゴルトムントは修道院にいる以上、そこの人間としての勤めを果たそうとする。
ナルチス、
祈りにおいて生じるこの集中は、仏教における瞑想と通じるものがあると思う。シッダールタにおいても川の声を聞くシーンがあるが、通底しているものは同じだろう。
言葉ややり方や表向きの現象が異なるだけで、世界そのものと溶け合うような感覚は、ヘッセ小説のひとつのテーマ。自分が世界とひとつになり、自分が自分と同一化する、自分自身になること。自分は世界であり、世界は自分だということ。
ゴルトムントの芸術を賞賛するナルチスだが、一方でゴルトムントは人生の問題に対するナルチス思索がうまくいっているように思えて、うらやむ。
ゴルトムントがナルチスに、
ないものねだり、隣の芝生は青く見えるのは世の常だが、ゴルトムントは素朴な言葉をナルチスにぶつける。
冷静沈着、思索、精神の道を極めているかのようなナルチスはゴルトムントに衝撃とも言える告白をする、
ばっさりいくナルチス!
修行すれば、人生経験を積めば、いつかは平静な心を手に入れられると思ったら大間違いだ。
どんなに熟練しても、正しく心穏やかに生きていくためには、自分の中で戦い続けなければならないことをナルチスは教えてくれる。
平静を手に入れ悟りの境地に至ったかに見える人も、ざわつく心に対する戦い方を普通の人よりも心得ているだけで、戦わなくて済むのでは決してないこと。こんな赤裸々なことは、現実の人間ではなく知と愛のナルチスしか教えてくれない。
ゴルトムントは再びナルチスのもとを離れ旅に出ることになるが、そんなゴルトムントを心配するナルチスが人間らしくて好きだ。ナルチスはゴルトムントによって豊かにもなり貧しくもなった。
ナルチスはゴルトムントを思う時に、こんな疑問をめぐらせる、
人間らしさとはなんなのかを考えさせられる。欲に溺れるのも人間、欲を自制するのも人間、いろんな人間のかたちがあり、すべてが人間だ。
どんな境遇に陥っても、自分の奥底にある輝きは消えないということだ。そもそもその輝きがなければ意味はないが、その輝きを見つけることが、自分自身の人生を歩んでいる宿命でもあるのかもしれない。
最後の最後、ナルチスとゴルトムントはさらに再会する、というよりゴルトムントがボロボロになって帰ってくる。ゴルトムントの状態はとても悪い。気の毒で胸が痛むが、ゴルトムント最期の言葉が大事だ。
ゴルトムント、
彼岸なんて存在しない、死は大きな幸福など、悟りの言葉を死の間際に発する一方で、理屈なしには死ねなかったと真っ直ぐな気持ちをナルチスに伝える。このバランス感覚がとても印象的だ。
母という言葉はヘッセの詩の中にもよく出てくる。もし『知と愛』しか読んだことがない人なら、ここで母という言葉がいきなり出てきて解釈に悩むかもしれない。しかし、ヘッセを読んでいたら母という言葉は全く珍しくない。ヘッセの小説を理解するには、ヘッセの詩や考えも知っておく必要があるように思う。
詩集から引用するなら、
ゴルトムントの最期は、「母」のことを語ることに終始する。ここで言う「母」は、自分・他人のお母さんなどという限定された存在ではない。しかし、限定された存在でもある。母は具体的であり抽象的で、具体的でなく抽象的でもない。
「母」という言葉の意味だけを考えることは無駄で、感じなければならない。この宇宙や世界が生まれ、生命が生まれ、死んでは生き、生きては死ぬ営みがある。その永遠性の中で自分も生まれ死んでいく。自分という存在も、過去現在未来含めて例外なく永遠の一部で、それは巡り巡るということ。死ぬことも生まれることも、生まれることも死ぬことも「母」にゆだねることが、ゴルトムントが感じた意味だった。
たとえ死んだとしても、またしかるべき時に母が抱きとってまた命を吹き込んでくれるのだろうという信頼。それに支えられてこそ「理屈なしに」死ねなかったゴルトムントは安心して死を迎えたのだろう。
]]>その日は喫茶店に行く予定で、「本を買おう」という気持ちになっていた。たまたま『シッダールタ』を見つけた。その偶然がなければ私はずっとヘッセのことを知らなかったかもしれないし、だとしたら今日の自分はなかった。
もともと釈迦に興味があり、仏教に関する本はよく読んでいた。岩波文庫の『ブッダの言葉』は何回となく読んだし、他に読んだ仏教書も多々ある。私は釈迦そのものに興味があり、現代の「〇〇宗」のような宗派にはあまり興味がない。
大事なのは釈迦がどのような境地にあったのかを学ぶことだと思っている。
仏教的な思想を学んでいたわけだが、ヘッセのシッダールタという作品は知らなかった。本屋の背表紙でシッダールタという言葉を見たとき、すぐに釈迦のことだとわかった。どんな本なのだろうと気になった。
概要では、
何より引き寄せられた文言は「悟りに至るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとした」という部分。仏教の言葉には多くの慰めがあるものの、実際に苦から解放される境地に達するのは難しい。仏教の本やブッダの言葉でその一瞬は楽になったり、悟りを開いた気になったりすることは確かにある。でも、日常の困難の中で忘れてしまう。
仏教の思想や考え方を自分の生き方にまで消化するのは至難の技と言える。それは当然のことで、簡単にできるというのであれば、誰も苦しむことはない。
この本の概要を見て、釈迦の教えをもとに悟りに向かおうとした人間の苦悩や壁を追体験できるのではないかと期待した。今まで自分にはできなかった苦悩の乗り越え方、悟りを学びたかった。
私はシッダールタだけを読んでシッダールタの物語を理解したのではない。他のヘッセの著作も読む中でシッダールタを理解した。はじめてシッダールタを読んだときの衝撃と感動は言葉に言い尽くせないほどだった。主人公シッダールタのリアルな学びが細々と綴られており、この本を読むだけでも多くを知ることができる。
シッダールタを読み終わると、「人生のことを知るために、これ以上本をむさぼり読む必要はないんだ」なんて思ったものだが、結果的にはヘッセの魔力とも言える言葉を求めて他の著作を買うことになった。それもまた、自分にとって必要なあがきだった。ゴーヴィンダがさぐり求めるように、欠点を知っていてなおさぐり求めずにはいられない自分に腹が立ったが、さらなるヘッセの言葉を求めた。
この文章を読んでくださっているあなたは、きっとシッダールタを読んでいて、「他の人はどんな感想をもったのだろう」と気になったのではないだろうか。私もこうしてシッダールタの感想を書きたいと思ったのは、この本を読んだ同時代の仲間たちとの共感を求めているからだろう。もちろん、あなたは私と違った感想を持っているはずだ。ただ、こうやってあなたと同じようにシッダールタを読んで感動した人間がここにもいることを感じて、微笑してくれたらと思う。
シッダールタを読み進めていくと、まさかの仏陀登場である。
シッダールタという作品の主人公はシッダールタ。これはもともと仏陀の名前でもあるが、まさかその主人公が仏陀と出会うという構造になっている。この作品でのシッダールタと仏陀は別人。
旅の中でシッダールタは仏陀と話すが、仏陀のもとにとどまる道を避け、ゴーヴィンダを置いて一人旅に出る。ここがすごい。
現代社会の人間は、仏陀の言葉として残っているものを学ぶことができる。本やお寺もたくさんあり、仏陀の教えにはいつだって触れられる。心が苦しい時、考え方としての仏教に救われることがある。
しかし、先にも言ったようにそれは長続きせず、仏教の教えを体得して苦しむことのない境地に達することは難しい。仏教を学んでも苦しいものは苦しいのが現実なんだ!わからないんだ!なぜなんだ!という人間の気持ちをヘッセは分かってくれている。そしてシッダールタに、それを乗り越える旅をさせてくれる。
仏陀がシッダールタに伝える言葉が真実だ。その言葉に納得できるのであれば、旅は終わりである。この本はここで終わったとしても内容豊かだ。
仏陀は言う、
この言葉に、すべてが詰まっている。
シッダールタ、あるいは読者たちが仏陀の言うことを議論することや、意見を表明することなどには何の意味もないのだということ。意味を求めようががんばろうが何だっていいのだけれど、「人生それによって苦しむ必要はない」という、単純な話だ。
つまり、あなたが苦しんでいないのなら、オールオッケー!である。
苦しむ必要がないのに苦しんでいる人たちがいて、そんな人達のために苦しみから逃れる方法をあれこれ言葉を変えたりしながら仏陀は教えてるだけだ。
仏教は今でこそ多くの宗派があり教えがあるが、本来の仏陀は苦しむ人達に苦しまなくていい方法を教えていただけだ。苦しんでいない人たちに、仏教は意味をなさない。
仏陀は愛に溢れた人だったのだろう。自分が苦しまなければ問題はないのだけれど、苦しんでいる人間たちのために、死ぬまで寄り添っていた仏陀はまさに仏陀。
シッダールタはこの本の最後のほうで仏陀についてこのように言っている、
悟りを開くと、まるで言葉の少ない無味乾燥な人間になるかのように思う人もいるかもしれないが、そうではない。仏陀はきっと優しい人で、面白くて、頭が良くて、愛を持った人だったんだろう。
自分が教えても苦しむ人が絶えないことを仏陀は知っていたはずだ。そしてそれは生命の営みの中で永遠と繰り返されていく。その全てをわかっていてもなお、自分の命を惜しむことなく使った仏陀の行為は、愛だ。
「愛」という言葉で人はいろんな意味を思い浮かべる。人によって「愛」という言葉のもつイメージや印象などは異なるに違いない。しかし、言葉の意味に一喜一憂してはいけないこともこの本は教えてくれる。
どんなことでも人に伝えようとするなら、それは言葉にしなければならない。しかし、言葉は万能ではないということを教えてくれている。言葉の用法や意味に振り回されないように注意して、本質を感じなければならない。
「愛」を語るときにも、「愛」という大きな言葉の意味に翻弄されるのではなく、心で感じる必要があるということだ。
『シッダールタ』という本は、シッダールタが仏陀に出会うまでと、そこから俗世の生活をする期間と、それを捨てた後の大きく3つに分かれる。読み返すならいつも仏陀の言葉や最後のシッダールタの悟りの言葉を見てしまうが、『シッダールタ』という物語としての骨格を考えるなら、俗世での放蕩生活の期間がとても重要だ。この部分がなければ、シッダールタという本はなんの面白みもないものになってしまう。
主人公シッダールタは仏陀の教えを聞いてなお、仏陀の言葉に自分を埋もれさせることなく自分で真実を体験するための旅に出る。私はシッダールタと仏陀が別れた時、とても驚いた。普通、そんな素晴らしい人に出会えたのなら、素晴らしい教えを聞いて悟りを開くかのように進みそうなところを、そうじゃないとして物語は進む。
「この後のシッダールタを書くのはヘッセも大変だっただろう」と想像する。そして何よりもこの部分にこそ、ヘッセの産みの苦しみがあると思う。
では、俗世での放蕩生活が終わり、それですんなり悟りの境地で静かに暮らせるのかと思いきや、息子と出会ってしまう。一緒に生活をするものの息子がいなくなり、またもや心がかき乱されることになる。
素晴らしい心を獲得したと思っていても、いとも簡単にその心を失ってしまう難しさ。
なにもしていなくても平静でいられるような人生はない。突如として困難が襲ってくる中で、自分の心を保つ闘いをしなければならない現実をもこの本は教えてくれる。
ヘッセの本に甘いご都合主義はないが、克服の道があることを示してくれる。困難や苦悩が人生にはつきものだ。それはどうしようもない。
しかし、自分の欲望に翻弄されて生きる生き方には限界がある。
誰からも本当の意味では生き方を学べない。
『シッダールタ』からたくさんのことを学ぶことができる。
ヘッセの『シッダールタ』についての当記事を書いた段階(2018年6月)では、筆者の私は「悟り」が開けていませんでした。
筆者自身の「悟り」(2018年11月)に興味がある方は、上記の記事をご覧くだされば幸いです。