ヘルマン・ヘッセの名言・格言 『荒野のおおかみ』より

ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳 『荒野のおおかみ』 新潮文庫より
(DER STEPPENWOLF)(荒野の狼)

『荒野のおおかみ』についてのコメントはこちらで書いております
【孤独感を感じる人へ】孤独感をなくす。辛い時期の乗り越え方

ただの一秒間のあいだに、人間生活全体の品位と意義にたいする、思索者の、おそらくは透察者の疑惑を残らず雄弁に言いあらわしていました。このまなざしは「見たまえ、われわれはこういうさるなのだ! 見たまえ、人間はこうしたものだ!」と言っていました。すると、精神の名声とか賢さとか成果とか、人間性の中にある崇高さ偉大さ永続への努力は、ことごとく崩壊して、さるまねになってしまいました。

人は苦痛を誇るべきであろう。 すべて苦痛はわれわれの位階の高さを想起させるものである

「大多数の人間は、泳げるようにならないうちは、泳ごうとしない」言い得て妙じゃありませんか。もちろん大多数の人間は泳ごうとしません!地面に生れついて、水に生れついてはいません。それからもちろん彼らは考えることを欲しません。生活するようにつくられていて、考えるようにつくられていません!そうです、考える人、考えることを主要事とする人は、その点では大いに成果をあげるでしょうが、まさしく地面を水と取りかえたものであって、いつかはおぼれるでしょう

「おれは、人間がいったいどのくらい辛抱できるか見ることに、好奇心を持っているのだ。耐えられる限界に達したら、おれは戸を開きさえすればいいのだ。それでおれは逃げてしまえるのだ」と感じることができた。

他方、自殺者はみな、自殺への誘惑にたいする戦いにも親しんでいる。自殺はたしかに逃げ道ではあるが、いくらかみじめな不法な非常口にすぎないこと、自分の手で倒れるより、生活そのものに負けて倒されるほうが、結局はより気高く美しいことを、だれでも魂のどこかのすみでよく心得ている。

彼らは、盗癖のある者がその悪徳にたいして戦うように、戦う。

市民はなるほど神に仕えようと欲するが、陶酔にも仕えようとする。

ほどよい健康な地帯で暮そうと試みる。それはできないことはないが、そのかわり、絶対的なものと極端なものに向けられた生活が与えるような生活と感情との強烈さを犠牲にしなければならない。市民は何よりも我を(もっとも、発育不全な我を)大切にする。

市民はそれゆえその本性上、生活衝動の弱い生きもので、およそ自分自身を犠牲にすることを恐れてびくびくしており、御しやすいものである。

手っ取り早く言えば、「荒野のおおかみ」は一つの虚構である。ハリーが自分自身をおおかみ人間と感じ、二つの敵対し対立するものから成立すると考えるのは、単純化する神話にすぎない

ハリーは二つの本質からではなく、百、千の本質から成り立っている。彼の生活は(すべての人の生活のように)、本能と精神とか、聖者と放蕩者とかいうような二つの極のあいだだけではなく、数千の、無数の極の組合わせのあいだを、振り子のように揺れているのである。

人間は高度に思索することはできない。最も精神的で教養のある人でも、たえずきわめて素朴な単純化するごまかしの法式のめがねで、世界と自分自身を、 特に自分自身を見ている

各人が自我を一つの統一と考えることは、どうやらすべての人間の生れつきの、まったく否応ない要求

この錯覚はどんなにたびたび、どんなにひどく揺すぶられることがあろうと、いつもまたもとどおりになおってしまう。

だからある人間が、一元的だと思いこんでいた我を二元性にひろげるところまで進んだとすれば、彼はすでにほとんど天才である

胸やからだはいつだって一つだが、その中に宿っている魂は二つ、あるいは五つではなく、無数である。人間は百もの皮からできた玉ねぎである。

百種、千種の木や花や果実や雑草にみちた庭を思いうかべてみるがよい。この庭の園丁が「食用」と「雑草」という植物学上の区別しか知らないとしたら、彼は自分の庭の十分の九を処理する道を知らないだろう。

人間はむしろ一つの試み、過渡状態である。

精神に向って、神へと、最も内面的な使命は人間を駆りたてる

自然に向って、母へと、最も深いあこがれは人間を駆りたてる

目を閉じて、自我への絶望的執着、死にたくないという絶望的意志は、永遠の死への最も確実な道であることを、これに反し、死にうること、脱皮すること、変化に向って自我を永遠にささげることが、不滅に通じる

あとに引き返す道はまったくない。おおかみに帰る道も、子どもに帰る道もない。物のはじめに純真さと単純さがあるわけではない。

純真へ、創造されぬものへ、神への道はうしろにではなく、前に通じている。

自殺してみても、哀れな荒野のおおかみよ、真剣には役にたたないだろう。君はきっと人間となる、もっと長い、もっと骨のおれる、もっと困難な道をたどることだろう。

誕生はすべて全体からの分離、限定、神からの離脱、苦悩にみちた新生を意味する。全体への復帰、苦悩にみちた個体化の止揚、神になることは、すなわち、全体をふたたび包括しうるほどに魂をひろげたことを意味する

仏陀を解することのできる人間、人間性の中の天国と深淵とをほのかに感じる人間は、常識や民主主義や市民的共用の支配する世界に生きるべきではないだろう。卑怯なばかりにそこに生きているのである。