だが、お金は「目」がいい人にとっては単なる「ベール」にすぎず、
「ベール」の中身を知る人にとっては、無意味だ。
お金という「ベール」で隠れていた真実に気づかず死ぬことができれば、
「目」が悪い、言い換えれば人生に対するセンスのなさは人類が愛する「幸福」の一助となるだろう。
お金が覆ってくれていない真実はあまりにもグロテスクで、直視すればたちまち精神がおかしくなる可能性が高い。真実を知っていてなお、お金を利用する人は、お金の限界がわかっている。それはたとえるなら、人間は排泄をする生き物だが、いちいち人の汚物を直視などしないことと同じである。どうせ知っているけど、鮮明に見るには耐えないから、この生涯を終える間は一時的に蓋をする。
真実、事実を直視したいなら、お金は必要ない。
そういう人にとっては、お金はつまらない飾りだろう。
飯を食わなければ飢餓があり、衣服がなければ凍えがある。お金がない人間には世界が純粋な「重さ」でのしかかる。それを現実と呼ぶ人もいる。
だが、勘違いしてはならない。人間が現実と呼び打ちひしがれるものは、すべての人に平等に存在する。我々は、お金を利用して「覆い」をかぶせるか、知恵という武器によって現実という強大な敵をやっつけるかしかない。もしお金も知恵もなければ、死ぬまでお金という「覆い」を求めて、真実に背後から追い回されることになる。そんな人間は言う。「お金さえあれば…」
せめて知恵があれば、お金の限界を知っているから、汚物を見つけたときに、「まあ、目をそらしておけばいいか」で済んでしまう。現実をお金で倒すことはできないのである。お金は「覆い」にすぎない(ただし、その「覆い」は「目」が悪い人にとっては効果的で、「幸福」を実現してくれる)。
現実は、本質的に倒すことができない。なぜなら、現実はその人個人が認知するファンタジーであるからだ。夢破れた人は現実に打ちひしがれるかもしれないが、その夢を持っていない他人にとっては何の関係もないことを想像してもらえればいい。現実だと認識した瞬間に、まるで現実がこの世にあるかのように錯覚する。生きている以上は世界を何らかのかたちでは認識するから、現実が生じないことはほぼありえないが、とは言うものの、その程度のことなのである。いちいち、現実に翻弄される必要はない。
]]>私の右胸に黒い蝶がとまった。突然のことでハッと驚いたのは私だけでなく、向かいの歩行者の方もびっくりしていた。
黒い蝶は、「死者からの使い」や、「死と再生」を意味するとか、
「死」と結びつけられてきた歴史があるようだ。
黒い蝶がとまったことは偶然にすぎないわけだが、
そこに「物語」を見ようとする気持ちが面白いと思った。
人生の歩みは、意味を見出し続ける試みと言える。
意味なき生活に耐えられる強い人はほとんどいない。
大抵の人は日々のささやかな楽しみや目標を支えにして、なんとか生きている。
過去を思い起こし今の自分の存在を立脚し、未来を想像することで今の歩みに意味づけする。
たとえば黒い蝶の話で言うなら、現在転機にある自分に対して、亡くなった祖父が励ましに来てくれたと考えることは自由だ。元来なんの意味もない事実に対して、解釈を加えることで、意味が生まれる。黒い蝶が胸にとまったとしても、その一瞬驚くだけで、あとは忘れてしまうなら、その出来事は発生しなかったも同然なのである。でも、「亡くなったおじいちゃんが、がんばれよって言いに来てくれたのかな。8月はお盆もあったことだし、向こうへかえる前に、こんな自分を励ましてくれたのかな。」と考えるなら、また今日と明日をがんばってみようかという思いになってくる。
意味がない世界、言い換えれば自分自身が自由に意味づけし続ける世界で、私は今日もお昼ごはんを何にするか考えている(午前10時執筆)。
]]>お店はもちろんかなり入れ替わっていた。しかし、残り続けているお店もあり、思い出が店番をしてくれていたようで、ふと微笑んだ。私を出迎えてくれた過去は無防備で、どんな解釈も受け入れてくれる大らかさがあった。
街は、”若かった私”を目の前に連れてきて、胸を締めつけたかったのだろう。でも、あっさりと受け入れた私には、締めつけるのがたとえ胸ではなく首であったとしても、大きな違いはなかった。
私は元来、感傷的になりやすい性格なのかもしれない。いや、むしろ感傷的になることを通じて、人生の旅に色合いを増やす癖がついてしまっているのだ。後悔と無力に身をやつす贅沢を、生きている自覚の傍らに備え、足裏を貫いた釘を見つめている。
]]>知っていた事実にさえ
目の当たりにすればたじろいでしまう
未熟成の知は果たして
無知を凌ぐ刃となるのだろうか
こぶしを捨てた手では
なまくらがたなが
ぼんやり口を開けている