立ち向かうことと逃げることとは、もっと等価値に語られてよいのです。なぜなら、前者も後者も、懸命に生きようとして選択した手段だから。立ち向かって倒して生き延びるか、逃げて姿をくらませて生き延びるか。
命尽き果てるまで生きる、それだけで人生は十分です。立ち向かうか逃げるか、この二者択一を唸って考えるよりも、向かってくる「何か」に殺されないようにしなければなりません。人によって、向かってくる「何か」は、人間関係や仕事のストレス、生活不安、経済的困窮など様々でしょう。
きちんと向き合って解決すること、これをしなければならないと思っている人は、思い込みではないでしょうか。立ち向かわなければ良くならないという考えは、絶対的に正しいでしょうか。もう知っていますよね、この世の中はどんなにがんばったって無駄なことで溢れているじゃありませんか。
もっと大胆に言いましょう。逃げることは素晴らしいことです。逃げて逃げて逃げて逃げて逃げまくりましょう。生きるだけで、人生は大変です。自ら困難を作り出し、自分で自分を殺す義務はありません。そもそも大半の人達はまともに「向き合う」なんてしてこなかったのに、あなただけが「向き合う」という概念に悩む必要がどこにあると言うのでしょうか。
私はあなたを尊敬します。迷わず逃げるのではなく、目をそらさまいと現実を見て、判断しようとしているあなたを。そして、そんな真面目なあなたには、「逃げる」ことの良さを知ってほしい。逃げたあとにもし背徳感を抱くなら、それは妄想です。ここで、私が言っているではありませんか。「逃げる」ことは素晴らしいと。人間は「生きる」ということにおいて、もっと自由に価値観を構築してよいのです。もし、逃げた結果悔やんでしまっている過去があるなら、そんな過去を持つあなたを何も悪いと思わない私のような人間もいることを、思い出してください。
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愛は、時間•手間•お金によって成り立っている。相手に対して時間を割けるか、どれだけのことをしてあげるか、いくらお金をかけるか。現実的に、愛はお金で実行するのが大人である。しかし、使った額が多ければ多いほどいいわけではない。相手の人生を考えて、適切なタイミングで適切な金額を支援せねばならない。お金ではなく物やサービスになる場合も多い。プレゼントや、知識の教授などである。
お金がなくとも、時間や手間によって愛することもできる。たとえば家事などは、時間も手間もかかるが、暮らしに大きな役割を果たしている。相手の愚痴を聞いてあげることは、ふんふんとうなづいてあげていたらいいだけだ。
お金がないことは、愛なる行動ができない理由にはならない。時間と手間(体力)をかければ、相手にしてあげられることは意外に見つかるものだ。手紙を書いて渡すなども、昔から好まれる愛である。言葉だけでなく、手紙という物体が残ることで、愛のかたちが定まる。お金に頼らない献身的行動は、お金より愛を語る。
「愛している」と伝える行為は、愛情表現である。愛情表現は愛と同様に大切だ。しかし、言葉だけでは愛にならない。愛と愛情表現は違うものであると認識することが大切だ。
例を出すと、無口な父親が家族に一度も「好き」や「愛している」を口にしたことがないとする。しかし、懸命に働いて一家を営み、妻や子どもたちを見守っているとしたら、それは立派な愛である。ただ、この父親は愛情表現に乏しいと言われても仕方がないかもしれない。覚えておくべきなのは、愛情表現をしないからといって、愛がないとは限らないことだ。
愛情表現が豊かで、かつ本当に愛してくれるような人間を、あなたは求めるだろうか。私は、そんな贅沢を望みはしない。愛情表現と愛のどちらが大切かと言われれば、愛であるからだ。愛なき愛情表現は、言うまでもなく空っぽである。愛情表現が持つ価値は、愛という土台に支えられている。
愛は難しい。愛情表現が簡単だとは言わない。だが、人間を愛せる人に比べたら、愛情表現に長けているだけの人は、白身も黄身もない卵ではないだろうか。だからこそ、愛情表現は下手だが、愛がある人がいるなら、そんな人こそ大事にしたいと思うのである。
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そんな世の中にいて、あなたは不幸さえ求めることができる。「別に不幸だっていいじゃないか」と思う視野の広さを持つことは難しい。病気や貧困、孤独…はちきれんばかりの悲しみに押しつぶされて、人としてダメになってしまう人もいる。不幸の実態を見て、尻込みするのは当然だ。
しかし、ここで考えてみてほしい。
不幸とはなんだろうか。
不幸とは、裏切られた期待の姿である。「こうなるはずではなかった」「こんなふうになるなんて許せない」という悔しさから、不幸が生まれる。理論的に、期待しない人は不幸にならないが、実際、期待なしで生きることは不可能である。たとえば、「赤信号で止まっている車は止まったままだろう」といった期待なしでは、暮らしがままならない。そんな些細なことから、期待は拡張していく。
期待が拡張した第二形態としての夢を抱く人がいる。未来への期待で青写真を描き、夢とするのである。しかし、期待とは往々にして裏切られるので、そういう人間にとって夢の喪失は必然に近い。話はそれるが、夢は、叶わない虚しさによって行動を失うためにあるのではなく、現在の原動力として利用すべき言葉である。期待そのものを夢にしてはいけない。夢とは、この瞬間のあなたの力を引き出すために存在する。夢という概念を我が物とし、夢の構築と破壊を繰り返す人間こそ、人生を謳歌するにふさわしい。
大人になるにつれて、期待の幅を小さくする人が増える。望みを小さくする習慣を身につければ、人生が楽になっていくからだ。確かに、大きな喜びを消す代わりに大きな悲しみを予防するなら、不幸が放つボディーブローを軽減できるだろう。しかしその結果、「小さな」人間になってしまう。勘違いしてはならない。「小さな」人間になることが精神の成熟ではない。
精神の成熟とは、心の底で望んだことを縮小することなく、そのままのかたちで肯定できることにある。期待をなるべく小さくしたり、必要なものを最小限にとどめようとする態度は、卑小な自己保存であるがゆえに、自由になりうる人間の足かせとなってしまう。
精神の成熟こそ、人生における最初の一歩だ。本来、精神の成熟は晩年に達成するものではなく、壮年期には達成しておくのが理想である。精神が熟した後、人間精神の実践段階に移る。精神が成熟しない者にとって、年齢を重ねることは意味がない。穴の空いたバケツに、水をためようとすることと同じだ。
不幸を求めるとは、事実を愛する態度である。やって来た不幸を拒む必要はない。期待し続ける人間として、不幸を恐れず生きる。我々人間は、期待する生き物である。今日さえ分からぬ日々の中でも、明日どころか何年何千年先の未来を考えてよいのだ。
期待するがゆえに裏切られ、不幸はいつも舞い降りてくるだろう。しかし、私は生涯期待することをやめない。期待とともに訪れる不幸こそ、私の自由を支えてくれているのだから。
]]>以前は、100歳どころか80歳や90歳まで生きることも稀だった。戦国時代、織田信長が敦盛で「人間五十年」と舞った時に比べると、現代人の寿命の長さに驚く。
近年、長生きする人が増えた。高齢者が珍しくなくなり、長生きの知恵の価値が相対的に下がったと言える。医療技術の発達もあいまって、長生きはむしろ当たり前になり、高齢者への尊敬が低下しているのだ。
かつて、長生きは「生存」を達成した人間の勲章だった。生きる本能を持つ人間が、長く生き延びてきた「長生き人」を敬い学ぼうとしたことは当然である。だが、今はどうだろう。大した知恵を持っていなくても、長寿を迎えられる時代となった。
「価値」とは、人間どうしが時々の状況によって決める曖昧な重要性のことである。自分の愛しい祖父母であればいつまでも生きていて欲しいので、祖父母の長生きには価値が生まれやすい。しかし、マナーを守らず他人に迷惑ばかりかける老人による被害を受けた時には、「長生きだけしてても意味がないんだな」と嘆く。つまり、長生きそのものよりも、人間が思う「価値」自体が曖昧であるゆえに、長生きを一意に定めることはできない。
「価値」の転換は、人間にとって大きな負担となる。もしあなたが今大切にしているものに対して、「それは大切じゃないよ」と言われたら、腹が立つに違いない。日本を含め先進国で、長生きに対する価値の下落が起きつつあり、あとは個人がその下降についていけるかどうかである。
長生きに価値があるかどうか。これは一人一人が決められる。すなわち、あなたが決めればいいのだ。「自分にとって大切な高齢者は長生きしてほしいが、迷惑ばかりかける高齢者はいなくなって欲しい」と、都合よく考える自由だってある。ただし、自分の限界寿命に挑戦する他者を否定する権利がないことだけは確かだろう。
長生きを手放しで喜べないのは、自分のことだけでなく、周りを巻き込む要素が多く含まれるからだ。自分視点でいれば、楽しめる今が大事だし、苦しむだけなら終わりにしたいと思うのが自然だ。しかし、たとえば子どもや孫からすると、大切なあなたが生きているだけで満足だと感じるかもしれない。
私は告白したい。「長生きなどしなくてもいい」と言う時に、心のどこかで引っかかる何かを。
私は長生き肯定派である。なぜなら、長生きを良しとする態度こそ、生への無条件な肯定であるからだ。長生きに否定的な理由は、得てして社会上の不便にすぎない。誰かに迷惑をかけるから、身体の衰えで好きなことができないから、お金がなくて欲しいものが買えないから、など。社会に生きる自分の欲望や、人間存在の意義に悩まない限り、長生きを否定する理由はない。人間は誰かの迷惑にならないために生きている、と言う人がいるなら、その人はそう生きればいい。
生きる、死ぬということは、人間が考えうる意義を超えている。我々の眼前にあるのは、人間は生きていて、いずれ死ぬという事実のみである。私は事実を抱きしめ、夢と想像を語る人間でありたい。「〇〇だから生きている」「〇〇だから死ぬ」そんな思考に縛られることなく、人間生命の根幹を感じていたいのだ。
「意義」なき生を受け入れ、「理由」から解放された先に、グロテスクな重みある生の姿を確認できる。長生きの本当の価値とは、人間的思考を乗り越えた後、見えてくるのである。
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普通:理由→がんばる
異常:がんばる→理由
がんばる理由を探さなくてはならない事柄について、がんばる必要はあるのだろうか。
「理由」と「がんばり」の逆転は、もともと存在した「理由」が欠如してしまったことによって起こる。たとえば、家族のために働いていた男が事故で家族を失ったとする。喪失感にさいなまれ、これから何のために仕事をするのか、あるいは何を支えに生きていけばいいのかわからなくなる。このように、「がんばり」すなわち「行動」が「理由」と別れ、ひとりさまようのである。
今までしてきた「がんばり」を続けることができるかどうかは、「理由」を新しく生み出せるかにかかっている。先の例の男の場合、なんとか自分は生きていかなくてはならないと思いながら仕事をがんばるかもしれないし、新しい出会いによって奮闘する意義を見出すかもしれない。
燃え尽き症候群は、「理由」の喪失にある。「理由」は常に変化して良いものであり、「行動」は「理由」に支えられている。新しい「理由」が見つかるかどうかは、賭けだ。深く考える人は、人生自体にそもそも「理由」がないことを知っている。「行動」は人生の一部にすぎないので、必然的に「理由」なんて欠落していて当然だと思うだろう。
がんばる理由を探す理由は、習慣的に行ってきた「行動」の正当性を「無条件」に信じた結果、「行動」を支える基盤を再構築しようとすることにある。
本当は、そんなめんどくさい思考を巡らせなくていい。「理由」がない「がんばり」を続ける義務なんて、どこにある。新しい「理由」を創造できないなら、その「がんばり」をやめればいい。自分の中に本源的に眠る欲求を受け入れ、新しい「理由」を歓迎し、「行動」しよう。改めて踏み出した道が、今までの道とかぶっていようがいまいが関係ない。今の「理由」を胸にいだきながら「がんばる」のが、人間らしい生き方なのだから。
]]>仕事も娯楽も、もはや自分の心を動かすことがない。
そんなとき、人間はなにをして生きていけばいいのか。
やりたいことがない、と思うということは、この人生において「やりたいこと」なるものが生まれて当然だと考えているのだろう。そんなに甘くないのが悲しいところ。「あなたにはやりたいことが今ありませんね。本当にあなたがやりたいことは〇〇です。さあやりなさい」「はいそうですね、わたしがやりたいことは〇〇だと思います。では、やってきます」
めでたしめでたし…とはならない。
現代日本が突然戦争に突入し、戦時中となる可能性は限りなく低いだろう。緊迫した状態に置かれたとき、人はその状況に適応するために考える項目が少なくなる。
だが、今のあなたはどうだろう。
選択肢が無限にあるからこそ、「やりたいこと」なる幻想と遊んでいるのだ。
「やりたいこと」を見つけて、なおかつ人々のために生きたいと願う人もいる。
しかし、そもそも「人々のため」とはなんだ?自分は人々に貢献するために生きているのだろうか。憎悪にまみれ、無知で汚れた民衆を喜ばせることに何の意義があると息巻くか。
すべての物事の意義が幻であると知り、やりたいことをやった先を描けなくなったとき、それこそ絶望である。
とは言うものの、絶望という言葉はありきたりなものであり、親しみある言葉だ。
所詮、絶望とは想像力の敗北であり、人間が自らの能力に圧され一人相撲に負けた結果にすぎない。
ああ、絶望とはなんてのんきな人間感性なのだろう。
生き物という枠を越え、「人間」であることをかたくなに信じてやまない思い込みの敗北。
絶望という名の「おもちゃ」で遊び、無数に死んでいった人々よ。君たちほど「人間的」であることに徹したやつらはいなかった。
「やりたいこと」をやる先に、意義を求めるな。空想に踊るより、舞台で踊れ。
なにをしても意味がないなどと思うな。「意味」なんていうつまらないものにとらわれるな。あなたが考える「意味」なんて、そのへんのつまらない人々がよく考えているような価値観に沿ったものだろう。人生は、「生きて、死ぬ」。これ以上のことがわかる人間がどこにいるというのだ。
「やりたいことがない」を乗り越えるためには、人間を乗り越えた後に、人間に戻って来なければならない。本当は知っているんだろう?「やりたいことがない」なんて、嘘だということを。それでも、意義や正義や立場や妄想に囚われて、あなたはあなたを縛り付けて、縛り付けてしまっていることを正当化する哲学を欲しているのだ。ダサい、最高にダサいぞ。
やりたいと思ったことを、ただやろうとがんばることもできない臆病者には、「やりたいことがない」病がお似合いだ。
この世のすべてを手に入れることと、猛暑で喉が乾いたときにグビッと炭酸飲料を飲むことは同じであると見抜けなければ、今のあなたに本源的に眠る生命力を理解できないだろう。
価値観の奴隷になるのではなく、一度「人間」をやめて価値観を解放し、新たな価値観を奴隷にせよ。
]]>罪とは法律などという浅い虚構に支えられたものではなく、各人に内在する心の道である。罪という道を、罰という羅針盤を見て歩くのが人生と言える。
]]>無気力と無力感は、物事を深く考える人ほど、自然な感覚となってしまう。たとえば、人のために仕事をすると建前では言ってみても、人のためになりたいと思っていない。死ぬ運命にある他人、ましてや自分のためにすら、もはや何かをしてあげようと思えなくなっている。
人生の中で楽しみを見出していた時もあった。あの時は、「人生を生きていた」。人生を掴んでいるあの感触。楽しい遊び、悲しい出来事、一生懸命になれる目標。もう他の人と同じように、「人生を生きることができない」。しかし、人生が終わるにはまだかかりそうだ。今、なぜ余生短い老人ではないのか。あとは死ぬだけの身であれば、ゆるやかに死を待つだけでよかったのに。習慣として、ご飯を食べて生きてきた。だからこの文章だって読める。しかし、あなたは私の言葉を読むために生きてきたわけではない。偶然見つけただけだ。
安心して欲しい。もしあなたがここまで思いつめているなら、十分に死の一歩手前だ。そんなに悩める人は多くいない。悩むことすら意味がないと学び、悩めなくなってしまったほどだろう。ご存知の通り、悩めなくなった向こう側に「ハツラツとした気持ち」など存在しない。あるのは、鬱にすらなれない絶望。無ではない、自分が生きているわずかな証を確認する日々。
あなたを尊敬する。よくがんばった。しかし、私の尊敬や賞賛には何の価値もない。
あなたは、無気力や無力感に苦しんでいる他の人たちと共感したいのか、脱出したいのか、それとも乗り越えたいのか。本当は無力感を持ちたくない、でもこの世界や人生を考えれば、そうならざるを得ないと思ってしまう。無気力や無力感を越え、やる気に満ち溢れて生きてみたい。あなたは「吹っ切れるきっかけ」を探しているのか。
無気力・無力感の向こう側は、やる気に満ち溢れた「あのとき」のあなたに戻るわけではない。年を経るとは「変化」だから。
無気力・無力感の先にあるのは、この世界の是認と、人間である自覚である。あなたは肉体と精神を持ち、世界を認識する。現代の日本では車が走っていて、飛行機が空を飛ぶ。そんな光景を目にする。あなたは人間である。犬や猫ではない。それもまた事実である。
無気力・無力感、はたまた迷いや悩みに苦しむのは、あなたが人間であるからだ。当たり前のようでいて、当たり前に認識できる事柄ではない。われわれにとって人間であることは、あまりにも自然だ。あなた、すなわち人間であるあなたは、神ではない。人間の限界・苦しみのすべてを現在進行形で背負っているのだ。
できないこと、どうしようもないこと、わからないこと、怒りに震えること、悲しみにくれること。他にも多くの現実を人間は抱えなければならない。これまで生きてきたすべての人間たちも、そうであった。あなたは、誰もが見ることのできない景色を見た。なんと素晴らしい。その景色がたとえ、真夜中の荒波にさまよう船であったとしても。
無気力・無力感をなくすことが正しいわけではないと知って欲しい。大切なのは、無気力・無力感を否定するのではなく、あなたが感じたあるがままの事実を認める勇気である。思い込みから生じた「こうあるべき」という呪縛に囚われるのではなく、呪縛そのものを愛するのだ。人間存在としての自分を受け入れる。無気力・無力感という感情を理解する。実践的な考え方としては、対処しようとするよりも、そっとしておく。「正しさ」で攻撃し、是正しようと思わないことだ。自分自身を見つめることが難しいなら、自分と同じ気持ちで苦しむ大切な人を抱きしめるように。
あなたには、「正しさ」で否定すべき感情はない。闘おうとするから、争いが生まれる。無気力・無力感と対峙するのではなく、自分自身と寄り添おうとする柔らかな生き方をしよう。あなたがあなた自身のそばにいて、優しく包み込むなら、きっと世界に微笑むことができる。人間存在のすべてがあなたの中にあるのだから。
]]>今は夢を持っていないが、過去に夢を持っていた人がいる。夢に生きていた人が夢も希望もなくなることは、よくある話だ。多くの大人は夢破れ、今ある自分の欲望をほんの少しでも満たすために、日々労働するか、不安に怯えつつも養われる生活を送るか、悠々自適の中で芯のない日々を過ごしている。
夢を持っても意味はないと思うことも、あるいは目の前の快楽をただ満たすことを正当化するのも、正解だ。一方で、自分の理想を叶えるために努力するのも自由だ。人生とは、なんて意味がわからず、ふにゃふにゃした、大空なのだろう。
夢を持つことに意味はないと思ったところで、夢を持たないことにもまた意味はないことも事実だ。肯定も否定もしないならば、判断をしないという決断、生き方をしているにすぎない。
人間とはなんて無力なのだろう。なにもしなくても、「なにもしない生き方」を選び取っているという残酷さ。何を選んでも間違っているような気がして選べないならば、ただ選ばなかったという生き方をしただけだ。
あなたがもし夢に生きたいが夢に生きることの無意味さに打ちひしがれているなら、気にせず夢に生きよう。夢に生きる生き方も、夢に生きない生き方も等しいのだから。迷い続けるなら、「迷い続けた人生」というありふれた人間としての生き方を歩むだけだ。
夢を叶えた未来に、意味を求める必要はない。未来における意味よりも、あなたが今生きる意味を創造するほうが大切だ。あなたがもしこれから自分のなすことが人類の意義となって欲しいなどと願うならば、それは傲慢と呼ぶべきだろう。どんな偉人も、残念ながら人類の何の役にも立っていない。技術の発展が、科学の発展が、学問の発展が人類に寄与しているなどと本当に思っているならば、冷静になって欲しい。
「何の役にも立っていない」を少し補足するなら、役に立つとか立たないかなんていう視点は、人間の解釈の世界でしか成立しないということだ。
人間の可能性は、常に過大評価と過小評価の両極端で見なされている。真実は、人間は思っているほど大したことないが、思っているほどつまらないものでもないのである。
]]>「何者にもなれない」と悩む人がいる。ここで、「あなたは特別だ」とか「人間は一人ひとりが貴重な存在なんだ」などと言うこともできる。これらを否定するつもりはないし、だからといって肯定するつもりもない。
正確に言えば、「よくわからない」ということだけだ。
なんだろう、「よくわからない」ということだけは「よくわかる」。これは人生の面白い矛盾で、醍醐味だ。
「何者にもなれない」と悩むとき、「何者かになった自分」を想像している。特に何かになりたいわけではないが、なんとなく「何者にもなれない」自分の人生は何なのだろうと思うこともあるかもしれない。
「なーーーんかなぁ、なーーーーんか違うんだよな」
「はーーーーーあ、今までの人生なんだったんだろう。これからどうやって生きていこう」
この世界には「キラキラ」した人たちがいて、「あなたが本当にやりたいことをやりなさい」「生きたいように生きるのです」「できると信じなさい」と言っている。
「じゃあそうしよっかな!」とテンション高くなるのもつかの間、また今までの自分に戻ってしまう。
この記事で私の言葉を読む人は、きっと「誠実な」言葉を期待しているのだと思う。主張というのはどこか偏っていて、納得しそうだけど、やっぱり納得できないやと思っているから放浪する。放浪するという言い方が悪印象なら、旅に出る、という感じ。
あなたは「何者かになる」とはどういうことだと思う?
日本で知らない人はいないというほどの有名人?日本一、世界一の美しさ?世界で一番の大富豪?尊敬を集められる人?エジソンやアインシュタインのような天才になる?ごくごく平凡な毎日をただ過ごしたいと思う人?
数え上げればキリがないかもしれない。
結局のところ、いくら他人に憧れてもあなたはその他人になれるわけではない。あるいは、どの他人にもなりたくないあなたは、その他人のようになる必要もないし、なることはあり得ない。
あなたが今現在「何者かになった人」がいると感じているなら、その人は「何者かになりたかった」というわけではない人だ。一流の人達の中には「自分にはこれしかなかった」と言う人も意外にいることを気づいているだろうか。あなたが当たり前のように経験してきたことを、ある人は経験できていない。あなたにはあなたにしかない経験がある。迷い続けてきた、悪戦苦闘してきただけだと思っているかもしれないが、そんなことはない。選択肢が多かったからこそたくさんのことに悩み苦しんで来れたのだ。選択肢が少なければ、ない選択肢の中からやるしかない。あるいは、狭い世界観の中で生きていかざるをえない。
あなたが思う「何者かになる」という概念は想像の産物だ。実際には誰も「何者か」なんかになっていない。どんな人もあるときは喜び、あるときは悲しみ、あるときは怒り、あるときは切なくなる。もちろん、我々人類の記録に残るような人間になる、という「偉業」を成し遂げた人もいる。しかし彼らも、今のあなたと同じような感情を持って生きていたのに、あなたが当たり前のように享受してきた恵みを受けることができなかったかもしれない。それに、自分が死んだあとの世界で自分の名が残って、本当に何になると言うのだろう。
簡単に言えば、あなたはあなたが生きたいと思うように生きていけばいいということになる。
「何者かになる」という言葉を考えるとき、他人の存在なくしてそれを考えることはできない。つまり、他者視点に陥ってしまっている。
重要なことは、あなたが今何をしたいか、何を欲しているかということである。
あなたが好きなように生きていれば、人生はそれでいい。「何者かになる」などといったことは、他人に気を使っているにすぎないのである。
現代社会の人間たちは他人を気にしすぎている。インターネットによる情報過多もあいまって、他人にとにかく影響されることが多い。そうならざるを得ない環境にいると言ってもいい。
意識的に情報を遮断し、独りでいることの大切さを噛みしめるほうが、現代人にとってはちょうど良いかもしれない。
今考えていることは、自分から生まれてきたのか、それとも他人を考えるから生まれてきたのか。そういった視点が求められている。
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